表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/30

第1話 雷が鳴っているから

夕方の授業が終わったあと、悠人は予備校の自習室に一時間だけ残った。英単語帳を三十ページほどめくったところで集中が切れ、それ以上粘っても意味がない気がして、帰り支度を始めた。周りの席では、同じ顔ぶれがまだ問題集を開いている。誰がいつも何時まで残るか、なんとなく知ってはいるが、声を掛け合う仲でもなかった。


外に出ると、空が低かった。夕方にしては暗すぎる。厚い雲が頭上を端から端まで塗りつぶし、遠くで雷が鳴っていた。音の間隔はまだ長い。遠いな、と思いながら、悠人は駐輪場から自転車を引き出した。


吉原の予備校から今泉の家までは、自転車で十五分ほどの道のりだ。車の多い通りを避け、田宿川沿いの細い道へ入る。湿った風が正面から吹いて、製紙工場の匂いを運んできた。物心つく前から嗅いでいる、この街の匂いだった。


雲がなければ、右手の奥に愛鷹山、正面のずっと先に富士山が見えるはずだった。見えなくても、どちらがどの方角にあるかは、考えるまでもなく体が知っている。生まれてからずっと、この土地はその二つの山を目印に回っていた。


道も同じだった。どこで段差が来るか、どの家の犬が吠えるか、信号のない交差点のどちらから車が出てくるか。中学から数えて何年も走っている道は、もう目で確かめるものではなくなっている。悠人はハンドルに軽く体重を預けたまま、日曜の模試のことを考えるでもなく考えた。判定が一つ上がれば、母がすこし安心する。その程度のことだった。前を行く傘の中学生を追い越し、橋を一つ渡る。夕方の今泉は、見慣れた速さで後ろへ流れていった。


家に着く直前、ぽつりと来た。


自転車を軒下に入れ、玄関の引き戸を開けると、油と出汁の混ざった匂いがした。廊下の奥でテレビが何か言っている。


「降られなかった?」


台所から母の声がした。


「ぎりぎりセーフ」


「ご飯できてるから、先に手を洗って」


夕食は四人そろった。テレビは夜の天気予報を流していて、県内に雷注意報が出ていると告げていた。父は仕事の話を短く済ませ、あとは黙って食べていた。姉はスマートフォンを片手に、「今夜、雷やばいって」と誰にともなく言った。


「模試、いつだっけ」


思い出したように姉が聞いた。


「日曜」


「へえ。余裕そうでいいね、浪人生は」


「余裕ではないよ、一応」


「一応って何よ」


母が笑い、父が「まあ、二年目はないぞ」とだけ言った。責める調子ではなかった。悠人は「分かってる」と答えて、味噌汁を飲んだ。


テレビの中では、気象予報士が県内の地図を指していた。今夜遅くにかけて雷を伴う激しい雨、あすも不安定な天気が続くでしょう。母が「明日も降るんだって」と言い、姉が「最近ずっとこれじゃん」と返す。誰も真剣には聞いていなかった。雷注意報など、この家では味噌汁の熱さほどの話題にもならない。


食べ終わるころ、母が悠人の茶碗に黙って飯を足した。


「いらないって」


「育ち盛りでしょう」


「もう十九だよ」


そういうやり取りまで含めて、この家の夕食だった。


分かってる、と言い切れるほどの危機感が自分にないことも、半分は分かっていた。来年の春にはたぶんどこかに受かって、たぶんこの家を出る。その程度の見通しのまま、食卓はいつも通りに流れて、いつも通りに終わった。


部屋に戻って机に向かったのは八時前だった。机の上には、予備校のテキストと問題集が背の高さをそろえずに積んである。整理しようと思ったのは春で、思っただけで終わっている。悠人は椅子の背に掛けたタオルで首を拭いてから、英語の長文を一つ潰した。


雨の音は、その間にすこしずつ厚くなっていた。ときどき窓の外が白くなり、数秒遅れて低い音が転がってくる。数えるともなく数えると、五つ。まだ遠い。


数学の問題集に移ったところで、シャープペンシルの芯が引っかかった。何度ノックしても出てこない。筆箱から替え芯のケースを出して振ると、軽い音がした。


残りは一本。最後の一本を差し込むと、ケースは空になった。振って、逆さにして、もう一度振る。出てくるはずもなかった。


日曜は模試だ。一本で足りるとは思えない。明日買えばいい話だが、明日は朝から授業で、帰りは店の混む時間に重なる。コンビニまでは自転車で五分もかからない。


階段を下りると、屋根を打つ音はもう本降りのそれだった。


「ちょっとコンビニ行ってくる」


玄関で靴を履いていると、母が廊下の奥から出てきた。


「今から? 雷、鳴ってるでしょう」


「シャー芯切れた。日曜、模試だから」


「明日にしなさい。芯くらい」


「五分で戻るって」


母は何か言いかけ、やめて、それから短く息を吐いた。


「もう。知らないからね」


「はいはい」


悠人は合羽を羽織り、自転車を出した。歩いたほうが安全かもしれないが、濡れる時間は短いほうがいい。ズボンのポケットには財布とスマートフォンと家の鍵。家族が全員起きているのだから、鍵など要らない。それでも持って出るのは高校で自転車通学を始めたころからの習慣で、出がけに三つの並びを手のひらで確かめる癖は、受験生になった今も残っている。


コンビニの明かりは、雨越しににじんで見えた。傘立てに傘はなく、雨宿りの客もいない。店内は明るくて乾いていて、静かだった。フードを下ろすと、肩から雨粒が床に落ちた。棚の前まで行くと、替え芯はすぐに見つかった。使い慣れた濃さをひとつ手に取り、ほかに買う気も起きないまま、レジに置く。店員は眠たげで、悠人の顔を見もしなかった。名前も知らない、いつもの夜の店員だった。


「袋、お付けしますか」


「お願いします」


小さな袋に、替え芯とレシートが収まった。悠人はそれを合羽の内側、シャツの胸ポケットへ押し込んだ。スマートフォンで時間を確かめる。九時十二分。通知は何もなかった。十分あれば戻れる。


自動ドアが開いた瞬間、雨の音が壁のように立っていた。


漕ぎ出してすぐ、前がかすむほどの降りになった。フードを叩く音がうるさい。路面には水が薄く流れ、ブレーキの利きが頼りなかった。空が光り、今度はほとんど間を置かずに音が来る。


近い。


悠人は自転車を降りた。乗って転ぶよりましだ。サドルに手を置き、スニーカーで水を蹴りながら押して歩く。靴の中はとうに濡れて、一歩ごとに冷たい音を立てた。街灯の光が雨の線を白く見せ、見慣れた家々の輪郭を曖昧にしている。家までは、曲がり角を二つ残すだけだった。


雷は嫌いではなかった。子どものころは、光ってから音が来るまでを数えて、遠さを測って遊んだ。一、二、三。今は数えるまでもない。頭上で光って、頭上で鳴っている。さすがに、母の言うことを聞けばよかったかと思った。胸ポケットの上から、袋の感触を確かめる。こんな夜にわざわざ買いに出るほどのものでもなかった。引き返したところで、もう家のほうが近い。


一つ目の角を曲がると、雨の向こうに家の明かりが見えた。台所の窓だけが点いている。母がまだ起きているのだろう。


また、光った。


ただ、今度は様子が違った。空ではなく、自分の周りが明るい。フードを叩き続けていた雨の音が、すっと遠のいた。


落ちた――と思った。


白い光が、悠人と自転車をまとめて包んだ。


雨の音が、途切れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ