第76話 紙にない話
朝の束に、引馬へ出す分が入っていた。
手が一度止まる。
道の触れを写した分で、中身は珍しくもない。ただ、行先のところに引馬とある。どうして来るようになったのかまでは、どこにも書いていない。
写しにかかる。九郎次が横から覗いた。
「引馬か」
「前は、来てないです」
九郎次が紙の端を指でめくる。
「いつからだ」
「二年あまり前の暮れからです」
「長いな」
九郎次はそれだけ言って、自分の紙へ戻った。どういうわけで止まっていたのかは、この人も知らないらしい。
引馬、と書いて、筆を置いた。
棚の脇に、薄い板を載せたままの紙がある。
去年の暮れ、引馬から来た人の供の三人が帰るというので、控えを作った。名と、出る日と、行き先。
三人は同じ日に着いて、同じ道を通ってきていた。名は三つとも知らないものだった。書いたのは自分だから、どこに何を置いたかは覚えている。
出る日だけが決まっていなくて、そこを空けたまま置いてある。日が入るまでは上へ出さない。そう決めて置いたものだ。
板を外すと、紙はそのままの形で出てきた。縁が少し反っているほかは、書いたときと変わらない。
出る日のところだけが、白い。
茂助のところへ持っていった。
「茂助殿。これは、どうしますか」
茂助が受け取って、上から下まで見る。
「いつの分だ」
「去年の暮れです。引馬から来た方の、供三人の帰る控えです」
指が、空いているところで止まった。
「出る日が入っておらぬな」
「はあ。決まってないと聞いたので、そのままです」
紙が戻ってくる。
「ならば聞いておけ。取次が来たら、そのまま申せ」
「はあ」
取次の者が来たときに、その紙のことを言った。取次の者は承ったとだけ言って、束を提げて出ていった。
戸の外の日が長くなっている。昼を回っても、まだ板の間の奥まで明るい。
しばらく手が空いた。九郎次が筆を置いて、こちらを見る。
「高瀬殿には、女はおらぬのか」
「いないです」
「まことか。その年なら、一人ほどおってもよかろう」
「九郎次。いらぬことを聞くな」
茂助が顔も上げずに言った。九郎次は口を閉じたが、すぐにそちらへ向き直る。
「茂助殿は。妻はおるのか」
「おる」
「自分で決めたのか」
「いや。親類が間に入った」
聞いていいものか少し迷った。ただ、こちらも手が止まっていた。
「あの、そういうのは、どう決まるんですか」
茂助が初めて顔を上げた。
「家々で違う」
「はあ」
「わしのときは、女の家とこちらで決めて、それから会うた」
会ってから決めるのではなく、決まってから会うらしい。
九郎次が横から口を挟む。
「兄のときもそうだ。伯父が間に入った」
「九郎次殿は」
「まだだ」
それからもう一つ、聞いておきたいことがあった。
「では、もし好きな人がいたら、どうするんですか」
「惚れた女か」
九郎次が筆の軸で顎のあたりを掻く。
「まず家の者に言う。それから、女の家へ伝えてもらう」
「女にも家がある」
茂助はそれだけ言って、また紙へ戻った。
付き合ってみて、それから先を決める、という順番ではないらしい。
少なくとも、茂助や九郎次の兄の場合は、俺が考えていた順番とはかなり違う。
それからしばらくは、三人とも紙の音だけになった。
そのうちに、九郎次がまた顔を上げる。
「高瀬殿は、猪を食ったことがあるか」
「ないです。猪も食べるんですか」
「食うぞ。わしの在所では、出れば獲る。畑を掘り返すのでな」
九郎次が筆の軸で、板の端を軽く叩いた。
「山なんですか」
「山だ。鹿もおる」
茂助が顔を上げずに言う。
「おぬしの在所ではな」
九郎次が少し笑って、紙へ戻った。
獣の肉は、あまり食べないものだと思っていた。どこでそう思ったのかも、はっきりしない。
そういえば、三人になってから、こういう話をすることが増えた。前は仕事以外の話を聞くことが、ほとんどなかった。
嫁のもらい方や山の猪だけではない。どこそこの家の者が誰と揉めたとか、町では米や油がいくらだったとか、増水した川を前に使いの者が足止めされたとか、そんな話が順番もなく出てくる。
九郎次は太刀より槍の方が性に合うと言い、茂助は馬で出る者はそう多くないと言う。誰それは弓がうまいらしい、昨夜の番で誰かが眠りかけた、どこそこの宿では馬がなかなか出なかった、という話もする。西へ使いに出た者がいて、あちらは騒がしいそうだ、という噂まで混じる。
そんな話の中には、千代のことまで混じっていた。
「千代殿を気にしておる者は、何人かおるぞ」
九郎次は何でもないことのように言った。つまり、千代はこの屋敷でもそこそこ人気があるらしい。
そういう話まで出るのか、と思った。
もちろん、聞く話がどれも確かとは限らない。九郎次が誰かから聞いてきた話を、茂助が「それは当てにならぬ」と切ることもある。それでも、この時代のことを、前よりずっと多く知るようになった気がした。
日の傾くころ、取次の者が戻ってきた。細い紙を一枚、置いていく。
日が一つだけ書いてあった。ほかには何もない。
誰が決めたのかも、なぜいまなのかも、そこにはなかった。
空けてあったところへ、その日を移した。文字にすれば、いくつかの字で足りる。
これで紙は埋まった。
茂助へ渡すと、上から順に見て、そのまま脇へ置いた。上げる分に入ったということだ。
出る日は入った。三人がその日に出たかどうかは、こちらでは分からない。
日の落ちる前に、与三郎が来た。座らずに、脇に積んであった束を受け取る。
「出す分は、これで済んだか」
「はあ」
足音が渡りの方へ遠ざかる。
薄い板を元へ戻した。
下には、もう紙はなかった。




