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第77話 そこではない

朝の束を解いて、三河から来る分を探す。一枚もない。


この前は二枚あった。その前がどうだったかは、もう覚えていない。


遠江の分はいつもどおり来ている。見付、懸川、引馬。引馬の分は、先ごろから戻っていた。


次の日も、そのまた次の日も、三河の分はなかった。


茂助に言うと、顔を上げずに答える。


「そのうち回ってくるかもしれぬ」


それきりになった。


昼を過ぎて、手が空く。


遠江の地名が続けて並ぶと、どれがどのあたりだったかが、また怪しくなる。写しながら頭の中で順番を並べ直しているうちに、かえって分からなくなった。


寝起きしている隅から、この前の紙を出してきて広げる。海の線と、山が一つ。川が四本に、岬と湖。西の方はまだ白い。


九郎次が横から覗きこんだ。


「それは何だ」


「場所を書いたものです。どこがどこなのか、自分で分かるように」


「絵図か」


言い方に、珍しいものを見たという調子はなかった。こういう紙を見たことがあるらしい。


「そんな立派なものではないです」


九郎次はしばらく黙って見ていた。それから、指を一つのところで止める。


「そこではない」


見付のところだった。


「川を渡る前だ」


「川、ですか」


「大きい川がある。見付を過ぎて、それから渡る」


茂助が手を止めずに言う。


「その川は、雨が続くと渡れぬ」


置いたところを直した。見付が少し東へ寄る。


そう言われてみれば、順番はそちらの方が合う。


「吉田と牛久保は、どうですか」


「そこまでは知らぬな」


九郎次が少し笑った。


「見付なら行ったことがある。ほかは通っておらぬ」


「そうですか」


九郎次はそれきり、自分の紙へ戻った。


紙を畳んで、元のところへ戻す。直ったのは一つだけだ。


その何日か前に、与三郎が束を置きながら言った。


「高瀬。庵原殿が、お前の国の筆のことを聞きたいそうだ」


「筆、ですか」


「御屋形様のお許しは出ておる。呼びがあれば行け」


「はあ」


シャーペンのことだ。だが、千代からは何も聞いていなかったので、唐突な話に思えた。


何日かして、千代が板の間の外まで来た。手に何も持っていない。


「御方様が、高瀬殿をお呼びです」


茂助が顔を上げる。


「行け」


「はあ」


筆を置いて立った。


千代について板の間を出る。渡りへ回ったところで、千代の言い方が変わった。


「高瀬さん。作ってる地図、お藤様が見たいって」


「え? シャーペンじゃなくて?」


「ああ、うん。それについては後で話すね」


「分かった」


千代が渡りの先へ目をやってから、続けた。


「地図、持ってきてくれる?」


「うん」


寝起きしているところへ戻って、巻いた地図を取った。渡りへ引き返すと、千代が待っている。


「それ?」


「うん」


そのまま千代についていった。


通されたのは、前と同じ小部屋だった。庵原殿が先に座っていて、千代が脇へ入った。


「その紙じゃな。広げよ」


板の上へ広げた。端が少し反るので、手で押さえる。


「これは何じゃ」


「海です。こちらが東で、こちらが西になります」


庵原殿はしばらく黙って見ていた。それから、駿府より東のところで指を止める。


「この辺りが興津じゃ。興津川の辺りになる」


紙にその川はない。駿府の東へ、点を一つ置いた。


【興津】


「清見寺も興津のあたり、海寄りじゃ」


【清見寺】


庵原殿の指が、東へ動く。


「この先は、山が海へ落ちておる。薩埵じゃ」


「さった……ですか」


「さよう。海際を行く道もある。波が高ければ通れぬ」


通ったことのある道だ。書こうとして、手が止まる。


「どう書きますか」


庵原殿が筆を取って、海際へ自分で書き入れた。


【薩埵】


「薩埵を過ぎれば由比じゃ。由比はもう少し海へ寄せよ」


由比を少し海側へ直した。歩いたときの覚えとも、そちらの方が近い。


庵原殿の指が、さらに東へ動く。


「由比より先、蒲原の方へ行く。このあたりの海辺を田子の浦と申す」


「田子の浦」


書き入れていると、庵原殿が紙を見たまま、何でもないことのように口にした。


「田子の浦にうち出でて見れば白妙の――」


千代が顔を上げた。


「……それ、百人一首だ」


「知っておるのか」


「知ってます。小学校のころ、よくやりました」


庵原殿が紙から目を離す。


「何をしたのじゃ」


「え?」


千代が一度止まる。


「よくやりました、と申したであろう」


「ああ。かるたですけど」


「かるたとは何じゃ」


「読む札には、歌が全部書いてあるんです。もう一枚には、下の句だけ」


千代が手で札の形をつくった。


「一人が読んで、みんなでその下の句の札を取るんです」


「取り合うのか」


「はい」


庵原殿が短くうなずく。


「おれも昔やったよ。ほとんど覚えてないけど」


「私も、さすがに全部は覚えてないよ」


千代が少し考えた。


「ちはやぶる神代もきかず竜田川……とか」


庵原殿がすぐに続けた。


「からくれなゐに水くくるとは」


それから、千代を見る。


「在五中将じゃ。よう知っておるな」


「ふふん。有名な歌ですからね。それくらいは覚えてますよ」


千代が得意そうに言った。


「じゃあ、今度作ってみようよ」


「かるたを?」


「それは面白そうじゃ」


庵原殿の指が、また紙へ戻った。今度は駿府より西だ。川の線で止まる。


「これは安倍川じゃな」


「はい」


その線には、まだ名を入れていない。


【安倍川】


「ならば、川を越えて、山へ入る手前が丸子じゃ」


「丸子なら行ったことがあります」


川の西へ点を置いた。書類を受け取って、そのまま引き返した日のことは覚えている。


「ここまでは、分かるな」


「はい。そこから先は行ってません」


庵原殿の指が、丸子の西へ動く。


「丸子を過ぎれば、宇津の山じゃ」


【宇津の山】


「これを越えれば岡部へ出る」


【岡部】


「岡部から、さらに西へ行けば島田じゃ。大井川の東になる」


大井川で合っていた。描いてあった川の脇へ、名を書き入れた。


【大井川】


その東へ点を一つ置く。


【島田】


「大井川の向こうは遠江じゃ。渡れば金谷へ出る」


【金谷】


駿府から西へ、点が並んだ。自分の足で覚えているのは丸子までで、その先は聞いたままの形だ。


そういえば、と思い出した。


「前に引馬って浜松って言ってたけど、合ってる?」


「そうだよ」


千代が紙へ指を置く。天竜川と浜名湖のあいだのあたりだ。


「だから引馬は、このへん」


点を一つ置いて、その横へ書き足した。


【引馬(浜松)】


前に描いたときは、どれくらい西か分からずに置けなかったところだ。


千代が横から覗きこむ。


「浜名湖、もっと西じゃない?」


「そう? このへんだと思ってた」


「もうちょっと西だと思う。たぶん」


庵原殿が顔を上げた。


「浜名の湖のことか」


千代が目を丸くした。


「知ってるんですか」


「知っておる。堀江の城があるところじゃ」


庵原殿の指が、引馬より西へ動く。


「ならば、この辺りじゃ。いかほど離れておるかまでは、あちらを知る者に聞かねば分からぬ」


湖を少し西へ寄せた。形までは直せない。


それから幾つか直して、紙を巻いた。名前を知っていても、まだ場所の分からないところは多い。


「高瀬。この紙は、そのほうが持っておれ。増えたら、また見せよ」


「はあ」


庵原殿が紙から目を上げた。


「それと、庵原の家では、そなたらの国の筆を作れぬか試しておる」


「筆、ですか」


「御屋形様には、そなたからその筆のことを聞くために呼ぶ、と申し上げておる」


「はあ」


庵原殿の指が、膝の上で組み直される。


「千代では分からぬことがあれば、その折にそなたへ聞く。出来たなら、御屋形様にも御目にかける」


「はい」


千代がこちらを向いた。声の調子が変わる。


「高瀬さんをここに呼ぶには、理由がいるんだよ。だから、シャーペンのことを聞くってことにしてるの」


「あ、なるほど」


「でも嘘じゃないよ。私じゃ分からないことがあったら、本当に聞くし。そのついでに、こういう話もするってこと」


「分かった」


庵原殿が少し笑った。


「うむ。頼む」


巻いた紙を持って立ち上がった。千代はそのまま庵原殿のそばに残った。


小部屋を出て、板の間へ戻った。朝から積んであった分は、もうほとんど片づいている。


茂助がこちらを見た。


「もうよい。今日は休め」


「はあ」


寝起きしているところへ戻り、地図を元の場所へ置いた。


ボールを持って外へ出た。日はまだ落ちていない。夕方になっても、蒸し暑い。


そのまま庭へ出た。


しばらくすると六郎が来た。二人でボールを交互に蹴り上げ、少し離れて返し合った。数を数えるのは、いつも六郎の方だ。


そのうちに、九郎次が渡りの方から来た。


「何をしておる」


「蹴ってます」


「それを」


「はい。落とさないように、返し合うだけです」


渡すと、九郎次は一度手の中で回してから足を出した。力が入りすぎて、ボールは生垣の方まで飛んでいく。


六郎が拾いに行った。戻ってきて、九郎次へ渡すところで、少し手が止まる。


九郎次は受け取って、また蹴った。今度は上がったが、思ったより高い。


「高すぎます。もっと軽く蹴っていいです」


「これでか」


「もっとです」


三度目で、ようやく低く上がった。


三人になると、二人で返していたときのようにはいかない。九郎次へ返したつもりのボールを六郎が止めたり、二人が同時に足を出したりする。


落ちれば、近い者が拾う。三つ続いただけで、六郎が声を上げた。


九郎次の蹴ったボールが六郎の前へ転がる。六郎が返したのは、今度は悠人の横を抜けていく。


九郎次が先に追いかけた。


拾ったボールを持って戻ってくると、そのまま悠人の前へ放る。


「もう一度だ」


九郎次も、この遊びは気に入ったようだった。


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