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第74話 三者会談

「高瀬。前に大宮へ参ったな」


「はあ」


呼ばれて渡りを抜け、上へ上がったところだった。紙の多い部屋――右筆所の戸のそばで膝をつく。


右筆所を取り仕切る平右衛門は、板の上へ紙を広げている。その脇にもう一人いて、少し下がったところに書き役が座っていた。


「そのとき書いた紙がある。残らず出せ」


大宮で書いたものは、一枚ではない。


「市の分でしょうか」


「市の分だ」


用向きは言わなかった。先に言う人ではない。


自分の書いた分を問われるのは、初めてではなかった。ただ、五年前のものを出せと言われたのは、これが初めてだ。


渡りを戻って、与三郎に言う。


「前に大宮で書いた分を出せ、と」


「古い分か」


「はあ」


「渡りの先の、下の段だ。奥まで詰まっておる」


書きかけの行へ薄い板を載せて、板の間を出た。


棚の下の段は、上へ回し終えた束をそのつど押し込んだだけの並びになっている。手前から引き出して、紐は解かずに端だけ開いていく。


下へ行くほど紙の色が落ちて、縁のあたりが茶色くなった。外で書いた分は行が短く、その場で畳んだ折り目が残っている。束の端にその折り目が混じっていれば、それだ。


四つ目の束の下が、自分の字だ。


紐を解いて繰っていく。線の太さも、字と字の間もばらばらで、一字ずつ形を探しながら書いた跡がある。今の自分の字とは、ずいぶん違って見えた。


大宮、と書いた紙が二枚出てきた。


一枚目は市の立つ日に宮の前で書いたもので、荷と銭の動きを、見えたところだけ並べてある。


【思うままには立てぬ】


【決める者、不明】


決める者が誰なのかは、今も知らない。


もう一枚は、紙を横に使ってあった。左に水口と善得寺、右に大宮。どちらの側にも、升のことが書いてある。


善得寺の側に、こうある。


【升で量る物は皆同じ升、と言う】


【水口の升とは、比べていない】


大宮の側は、短い。


【二つとも、一升と言う】


左を上から下まで読んで、それから右へ移る。読み終えて、もう一度左へ戻る。


左と右のあいだには、何も書いていない。線も引いていない。そこは五年前のままだった。


板の間の前を通ると、与三郎がまだ同じところに座っている。二枚を出して見せた。


「ほう。たいそう字が上手うなったな」


もう一度、古い方へ目を落とす。


「……こんな字でしたか」


「そんな字だった」


上へ戻って、平右衛門の前へ置いた。脇の者が先に手を伸ばして、横に使ってある方を広げる。二人で同じところを見ている。


しばらくして、平右衛門が紙のまん中へ指を置いた。


「ここは、書き落としか」


「いえ。確かめていませんので、書きませんでした」


指はそのままになっている。


「左と右で、同じ升かどうかが分かりません。それが分からないので、つなげませんでした」


平右衛門は指を離して、別のところへ目を移した。


脇の者が顔を上げる。


「大宮より、たびたび申して参る者がおります。市で無理に買い取る者がおると。乱暴を働く者もあると」


「いつからだ」


「去年のうちから、幾度も。一人ではございませぬ。出す方からも、市に立つ方からも参っております」


平右衛門は答えず、紙の左の側を上から追っている。


大宮の市で困っている者がいて、それを上まで言ってきている。五年前の紙まで出せと言われたのも、そのためらしい。分かったのは、そこまでだ。


指が止まって、顔が上がった。


「そのほうが見たのは、市の立つ日か」


「はあ。宮の前に、一日おりました。ほかの日は見ていません」


「大宮で升を見たのは」


「二つです。受ける方が出した升を、二つ見ました。ほかは見ていません」


脇の者が、手元の紙へ短く書き足す。


「うむ」


平右衛門は、横に使ってある紙を書き役の方へ押した。


「これは上へ回せ」


書き役が両手で受けて、脇へ置く。


「高瀬、下がってよい」


棚へ残りの束を戻して、紐を掛け直した。


板の間へ向かう途中、渡りの角に千代が立っていた。こちらを見ている。ほかに人はいない。


手には何も持っていなかった。届け物の帰りではないらしい。


「高瀬さん」


「うん」


千代が少し声を落とす。


「お藤様が、話したいって」


千代がそう呼ぶのは、初めて聞いた。


「お藤様って、庵原殿のことね。藤って名前なの」


手が止まった。


「おれと?」


「うん。私も一緒でいいって」


前に見たのは、蹴鞠の帰りの一度きりだ。膝をついたまま、顔もろくに見ていない。


「与三郎殿に言ってからでいい?」


「うん。私から言う」


板の間へ戻ると、与三郎はいつもの場所にいた。千代が戸口で膝をつく。


「奥より、お呼びにござります」


渡りで話していたときとは、声の高さが違う。


与三郎が顔を上げて、こちらを見た。


「高瀬をか」


「はい。御方様が」


与三郎はそれだけ聞くと、また紙へ目を戻した。


「行ってこい」


「はあ」


連れていかれたのは、渡りの突き当たりにある小さな部屋だった。奥へ続く戸は閉まっている。そこから先へは、入ったことがない。


千代が先に入って、こちらへ手を向けた。


中に、女が一人だけ座っていた。ほかに供はいない。


膝をついて、頭を下げる。


「いつぞや、渡りにおった者じゃな」


声を聞くのは、これが初めてだった。


「はあ」


ほかに何も出てこない。千代とは普通に話せるのに、この人にどう答えればいいのかが分からない。


「千代より、そなたのことは聞いておる」


顔を上げてよいものかも分からず、板の目を見たままでいた。


「顔を上げよ」


言われたとおりにする。年は、思っていたとおり自分とそう離れていない。手元に紙も筆もなかった。こちらの言ったことを書き留めるつもりはないらしい。


「千代。そなたまで、そのように固くならずともよい」


千代が少し顔を上げた。


「高瀬もじゃ。ここには三人しかおらぬ。そなたらは、こちらの作法で育った者ではなかろう。堅苦しい言い方は要らぬ。分かるように話せ」


どう返せばいいのか分からず、千代の方を見た。千代もこちらを見ている。


千代が、口の中で言った。


「……だって」


「急に言われても困るんだけど」


千代が小さく笑う。


「それでよい」


庵原殿は、それから続けた。


「高瀬は、こちらの者とは違う見方をするそうじゃな。それはそれで役に立つ」


そこで、少し間を置いた。


「飯尾殿のことは、知っておったか」


年の暮れのことだ。


「……知りませんでした」


「名もか」


「名も、あのとき初めて聞きました」


間があった。


「千代は」


千代の声が、いつもより硬い。


「私も知らないです。教科書にも、載ってなかったと思います」


「思う、とは」


「そこまでは言えないです。引馬のことは前に見ましたけど、そのときは何も出てきませんでした。飯尾殿の名は、見ていません」


庵原殿は急がなかった。一つ聞いて、答えが終わるのを待ってから、次を聞く。千代を見たまま、続けた。


「京の公方様は、覚えておったな」


「名と、将軍だったことと、殺された人だってことは」


「年は」


「年までは分かりません。その年だったかどうかも覚えてないです」


庵原殿が、こちらへ目を移した。


「そなたは」


「おれは、名も知りませんでした」


言ってから、付け足す。


「千代さんは、もとのところで昔のことをもっと詳しく習ってます。おれも一通りは習いましたけど、千代さんほど詳しくないです。有名な人とか、大きな戦なら知ってることもあります」


「二人おって、違うのか」


「違います」


千代がこちらを見た。それから、庵原殿の方へ向き直る。


「物の作り方とか、数の勘定は、高瀬さんの方が詳しいです。昔のことは、私の方が少し習っているというくらいで、それ以上ではありません」


「少し、か」


「少しです」


千代は膝の上で手を重ねたままだった。言葉は緩んでも、座り方は変えていない。


庵原殿は、それきりしばらく黙っていた。


「高瀬。そなたの知っておることは、どこで覚えた」


考えてから答える。


「子どもの頃に一通り習いました。あとは、人から聞いたり、どこかで見たりしたことです。年まで覚えてることもありますけど、全部を順番に覚えてるわけじゃないです」


「並べれば分かるか」


「並べても、抜けているところが多いと思います」


庵原殿が、脇に置いてあった紙を引き寄せた。何枚か重なっていた。


「横田で書き取った分じゃ。千代に読ませて、分かったところのみ写した」


こちらの紙に、こちらの筆で書いてある。ただ、並び方が違った。上から下へ、年らしい数字が落ちていく形になっている。


「先の御屋形様のことは、二人とも知っておったな」


千代が答える。


「はい」


「いつのことかもか」


「桶狭間って、千五百六十年だったよな」


千代がうなずく。


「うん。そうだったと思う」


庵原殿が紙へ目を落とした。


「合うておる。ここにも千五百六十とある」


庵原殿が紙から顔を上げる。


「そこは年まで覚えておるのか」


「はあ。でも、飯尾殿は名も知りませんでした」


「公方様のことは千代が覚えておった。先の御屋形様は、年まで二人とも。飯尾殿は、どちらも知らぬ」


言われてみれば、そうだった。名を聞けばすぐ出てくるのは、よほど遠くまで届いた話ばかりだ。飯尾殿のことは、年の暮れに与三郎から聞くまで、そういう人がいたことすら知らなかった。


「これは分かるか」


指の先に、名が二つ並んでいる。


【松平元康】


【徳川家康】


庵原殿が二つの名を見比べた。


「これは、蔵人佐のことじゃな」


「はい」と千代が言う。


「蔵人佐はいま、家康と名乗っておる」


庵原殿の指が、上の名から下の名へ移った。


「では、徳川となるのはいつじゃ」


「ううん、そこは覚えてないです」


庵原殿の口元が、少しだけ緩んだ。


「また覚えておらぬか」


「だって、名字が変わる年なんて、普通は覚えないですよ」


庵原殿は次の行へ指をずらした。


普段から、二人だけのときはこうなのかもしれない。


「織田との縁は、この先も続くと前に申しておったな」


「そうですね」


指がまた下がる。


「武田は、この先、駿河へ入ってくるとも申しておった」


「はい。徳川も遠江の方へ。今川が崩れるのは、その頃だと思います」


どうやら、この話も二人のあいだでは初めてではないらしい。


「うむ。それはいつかは分からぬのか」


千代の顔が上がらない。


「そこまでは覚えてないです。そんなに先ではなかったと思います」


そこで、千代が顔を上げた。


「……あ。そういえば、三方ヶ原っていうのが、ありませんでしたっけ」


庵原殿が紙を繰る。


「ある。千五百七十二」


そこで、指が止まった。


「千五百七十二とあるが、これはいかほど先じゃ」


一瞬、答えに詰まった。


桶狭間は千五百六十年。それが永禄三年で、今は永禄九年だから、と少し考える。


「今は千五百六十六年だよな」


「うん。そのはず」


千代は指を折って確かめた。


「だから、あと六年」


「六年か」


千代が続ける。


「それで、三方ヶ原は、今川が崩れたあとだったはずです」


「ならば、それより前か」


「はい。六年よりは前です。……ただ、どのくらい前かまでは」


庵原殿は、それきり指を動かさなかった。


「御屋形様は長く生きると、前に申しておったな」


「はい」


「いかほどじゃ」


千代が顔を上げた。


「……たしか、江戸時代までは」


「えどじだい、とは」


「あ、家康が天下を取ったあとの世です。何歳までだったかは覚えてないですけど、かなり長く生きたはずです」


庵原殿が紙を何枚か繰る。


「ほう。ここに江戸幕府、とある。これじゃな」


「はい」


「……されど、我らが何かを変えれば、そのとおりになるとは限らぬのじゃな」


「はい。それが怖いです」


自分が千代と二人のときにしか話さなかったことが、続けて口に出ていく。


庵原殿が紙を少し戻した。


「小田原が落ちるのは、ここか」


これは俺でも知っている。


「はあ。北条は、そこで終わります」


「まだ、だいぶ先じゃな」


紙の数字を目で追った。数え方は違っても、並びは分かる。上といちばん下とでは、ずいぶん離れている。


庵原殿が紙をそろえて、膝の前へ置いた。


それから、紙から目を離したまま動かない。


「庵原の家は、何をしたらよいか、じゃな」


こちらに聞いているのではなかった。


「六年先までには、今川家は大きく動きます」


「何らかの手を考えるのに、六年もないということか」


「……はい」


小田原も、氏真の先のことも、ずっと遠い話だ。そのどれよりも、いま言われた六年の方が近い。


庵原殿が紙を伏せた。


「今川の家が保てぬというなら、できることならそうはさせたくない」


こちらは見ていない。紙の方を見ている。


「されど、かなわぬこともあろう。そのときは、人も家も、残せるものは残さねばならぬ」


少し間が空いた。


「御屋形様も、そなたらの知る先より早く失うわけにはいかぬ」


庵原殿の目が、こちらへ戻ってくる。


「高瀬。表で見聞きしたことは、千代へ伝えよ」


「はあ」


「こちらからも、また聞くことがあろう」


少し間を置いた。


「知らぬことは、知らぬでよい」


千代が頭を下げたので、こちらも下げる。


外へ出ると、日が傾いていた。


千代が戸を閉めて、渡りの方へ歩き出す。


「庵原殿とは、あんな感じで話すんだ?」


「うん。ほかに人がいないときはね」


千代が少し笑う。


答えられたことより、答えられなかったことの方が多かった。それでも、分からないと答えたところを、あの人はそれ以上問いただしはしなかった。


それに、庵原殿はほかの人より話しやすい気がした。千代と長く話しているからか、こちらの言い方にもあまり戸惑わない。つい元の時代の言い方が出ても、だいたい意味を取ってくれた。


渡りの角で千代と別れた。板の間へ戻ると、与三郎はもう墨を片づけている。


「上は、済んだか」


「はあ」


墨を磨り直して、書きかけの行へ筆を入れた。


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