第72話 形になったもの
# 第72話 形になったもの
日が落ちるのが早くなった。夕方の分を写し終えるころには、戸口の外がもう暗い。
回ってくる紙は日によって違う。今朝は出ていく者の控えを写していた。名、出た日、行き先、持ち物、戻る見込み。書き写す順は決まっていて、迷うところはない。
与三郎が筆を止めた。
「高瀬。源左衛門様がお呼びだ。門の方へ回れ」
「はあ」
筆を置いて、板の間を出た。呼ばれた先が門だというのは、これまでになかった。渡りを抜けるあいだ、何の用かを考えてみたが、思い当たるものがない。門は開いていて、外を行く人の足音が中まで届いている。いつもは荷や人の出入りで詰まっているあたりが、今日は空けてあった。荷は端へ寄せられている。
門の近く、物を置いていない平らなところに、一台の乗り物が据えてあった。
悠人の自転車を見て、今川の職人たちが作っていたものだ。前に見たときには、削りかけの輪が二つ立てかけてあるだけだった。それが、ようやく一台の形になっている。
大きい車輪が前で、やや小さい車輪が後ろだ。太い木の胴が二つをつないでいる。輪の外側には鉄の帯が巻いてあり、継ぎ目のところに鋲の頭が並んでいた。前輪の心棒から短い腕が両側へ出て、その先に踏み板がついている。胴の上には板を渡して、そこへ布を巻いた座るところが載っていた。
チェーンはなかった。後輪へ力を伝えるものは、どこにもついていない。踏み板は、前輪の心棒から直に出ている。前に見せた自転車の、あの細かいチェーンと歯車までは、真似できなかったらしい。
輪が二つ並んでいて、人がまたがって乗る。似ているのは、そこまでだった。太い木の胴、大きさの違う輪、前輪から直に伸びた踏み板。こうして見ると、自転車というより別の乗り物だ。
前に会った年かさの男が、脇に立っている。手拭いを首に掛けたままだ。こちらを見て、小さく頭を下げた。どうやら、この男が製作をまとめているらしい。
源左衛門がこちらへ目を向ける。
「乗ってみよ」
「はあ」
胴の端に手をかけて、向きを変えようとする。動かない。腰を入れて押すと、ようやく前輪が回った。持ち上げて据え直すようなことは、一人ではできそうにない。
またがってみる。座るところは思ったより高かった。足を突いて支えているだけで、腰に来る。両足を離せば、そのまま横へ倒れそうだ。
踏み板へ片足を乗せて、体重をかけた。前輪が回って、車体が前へ出る。もう片方の足を乗せると、二度目の踏み込みで速さがついた。
踏んだ分だけ輪が回り、輪が回れば足も持っていかれる。覚えのある感触だった。子供のころ、校庭で一輪車に乗った。乗れるようになるまでは長かったが、乗れてしまえば歩くより速く進んだし、走るよりは楽だった。足と輪のあいだに何も挟まっていないところが、これと同じだ。
似ているのはそこだけだった。輪は二つあるし、向きは横棒で変える。体は覚えている。傾いた方へ横棒を切れば、勝手に戻ってくる。そこは自転車と変わらない。倒れそうだとは思わない。
門のあたりから、向こうの塀まで。それだけの距離を、真っすぐ進む。
足が止められなかった。輪が回っているあいだ、踏み板もいっしょに回り続ける。自転車なら足を乗せたまま流せるところで、こちらは脚の方が回されている。休むところがない。
木と鉄の輪は、地面の凹凸をそのまま尻へ伝えてくる。膝から下が絶えず小刻みに揺れていて、震えは横棒を握った指まで上がってくる。歯の裏が鳴った。舗装された道を走るのとは、揺れの細かさが違う。
塀の手前で横棒を切る。曲がれはする。ただ、切るのと踏むのが同じ輪で起きるので、思った通りには回ってくれない。腕で押さえながら、足の方も合わせることになる。
足を突いて止める。降りると、腿の内側が張っていた。
「乗れはします。でも、おれのとは、だいぶ違います」
年かさの男が寄ってきた。
「どこが違う」
「まず、重すぎます」
「そうじゃな」
「もう少し軽くなりませんか」
「これ以上削れば持たぬ。輪を細くすれば割れるし、胴を薄くすれば折れる」
こちらから言うことではなかった。ここまでの形にするのに、何度も試したのだろう。
「走っているあいだは、まだいいです。止まるときが怖いです」
「止める仕掛けは、うまく作れなんだ」
男は前輪の方へ目をやった。
「おぬしの物についていた、あの細い鎖もな。同じようには作れなんだ。踏むところは、前の輪の心棒へ付けた」
「止める仕掛けは、なくとも走ると思うたが、要るか」
「要ると思います。速くなったら、足で止めるのは難しいです」
「おぬしのには、止める物があったな」
「ありました。ただ、中がどうなっていたのかは知りません」
男はそれ以上聞かなかった。
「踏むのをやめても、足が止められないのも困ります。輪が回っているあいだは、こちらも回されます」
源左衛門が口を挟んだ。
「坂ではどうか」
走ってみてはいない。言えるのはそこまでだ。
「上りは、この重さだときついと思います」
「下りは」
「……下りの方が怖いかもしれません。速くなっても、足を止められないので」
「曲がるのはどうか」
「曲がれはします。ただ、やりにくいです。狭いところだと難しいと思います」
男が車体の脇へ屈んだ。踏み板の付け根を握って揺すっている。
重いのは、丈夫に作ってあるからだ。つなぐ物も、止める仕掛けも、今すぐには作れない。どれも、この場でどうにかなる話ではないらしい。
さっき踏んだときに思い出した一輪車が、もう一度頭に浮かんだ。
「輪が一つの乗り物なら、あります」
年かさの男が顔を上げた。
「一つで走ると申すか」
「走れます。おれのいたところにあって、おれも乗ったことがあります」
男がもう一度聞いた。
「どのように作る」
「形なら、だいたい覚えています。でも、作り方は分かりません」
「ならば、その形を描いてみよ」
「描くくらいなら」
男が声をかけると、板の切れ端と炭が運ばれてきた。板を膝へ置いて、炭を握る。炭は太くて、細い線は引けない。
輪を一つ描く。その上に座るところを描いて、そこから二本の棒を輪の両側へ下ろした。棒の先は輪の中心のあたりへつなぐ。そこから左右へ線を出して、先に踏み板を描いた。
「だいたい、こんなです」
男が板を受け取って、しばらく見ている。指で輪のところをなぞってから、下の方へ下ろした。
「横の棒はないか」
「ないです」
「座るところは、輪の上か」
「はい」
「この棒は、輪の両脇へ下りるか」
「はい。真ん中のあたりにつながっていたと思います」
「踏むところは、この輪に付くか」
「そうだったと思います」
描けたのは、輪と、座るところと、そこから下りる二本の棒と、踏み板の位置だけだ。どの棒をどれだけ太くするのか、どうやって輪へ付けるのかまでは分からなかった。
「止める仕掛けはついていません。足で加減します。狭いところでも向きを変えられました」
男が板から目を上げた。
「速く進むか」
「慣れれば、歩くよりは速く、走るよりは楽でした。ただ、乗れるようになるまでが難しいです」
男は板を下ろさなかった。前輪の方へ屈んで、心棒のあたりを指でなぞっている。
知っているのは、それがあるということだけだ。どう作るのかは、何も知らない。
板の間へ戻ると、写しかけの紙がそのまま置いてあった。日の暮れるまでに、残りを片づける。
戸を閉めるとき、門の方へ目をやった。もう暗くて、車体があるのかどうかも見えない。
腿の内側が、まだ張っている。踏み板の重さは、足の裏に残っていた。
ここへ来て、四年あまりになる。
そのあいだ、未来の知識を使って誰かを動かそうとしたことはない。戦の勝ち負けを変えようとしたこともないし、起きると知っていることを止めに行ったこともない。できることが少なかったからでもあるし、やっていいこととも思えなかった。
さっきまで門のところにあったのは、木と鉄で組まれ、チェーンも止める仕掛けもない乗り物だ。あれは、この時代にはなかったものだ。
そしてあれは、悠人の自転車を見た人たちが作った。自分がここへ来たことで、この時代になかったものが一つ生まれた。その事実が、形になって目の前にあった。
そのうえ今日は、輪が一つの乗り物があると言って、形まで描いた。あの板はいま、職人の手にある。作るかどうかも、作れるかどうかも分からない。それでも、この時代になかった話を、また一つ渡した。
これが、教科書に載るような何かを変えるのかは分からない。たぶん、そんな大きな話ではない。
それでも、何も変えずにここで暮らしている、というわけではなかった。




