第71話 蹴鞠
硯へ水を落とす。水に触れた指が、しばらく冷たかった。
今朝は、駿府へ来た者の申し立てを写していた。出ていく者の控えも、戻った者の紙も、奥との受け渡しも、日によって同じ板の間へ回ってくる。
名、着いた日、通ってきた道、泊まっている家、請人。請人の名を書くのは、一行のいちばん端だ。
与三郎が手を止めた。
「西の方は、ひとまず収まったと聞いた」
それだけだった。
昼前、上から束が下りてきた。紐で括ってある。解くと、見覚えのある紙が出てきた。
夏のあいだに抜いて出した分だ。請け合う者の定まらないものを、まとめて上へ渡した。あの束が、そのまま戻っている。
数えると、十いくつあった。どれも自分の字だ。夏に書いたときの墨が、少し薄くなって見える。請人の欄だけが、なしとも、不明とも、名があって未確認とも、まちまちだ。
「もう一度、初めから当たり直せとの仰せだ」
「はあ」
「出す先は」
「同じところだ」
与三郎はそれ以上続けなかった。何のために戻ってきたのかは、こちらへは下りてこない。
当たり直しは、紙に書かれた者を一人ずつ呼んで確かめていく。宿を知らせてある者には、門から使いを出す。来たら板の間の前で聞いて、書いたものと突き合わせる。名、着いた日、通ってきた道、泊まっている家。
何日かかけて進めた。朝のうちに何人かを呼び、昼を挟んで、日の暮れるまでに書き足す。次の日は、その続きから始める。
前と同じことを言う者もいれば、違うことを言う者もいる。違っていれば、違うところをそのまま書き足す。どちらが本当かは、こちらでは決めない。
宿を移っていて、どこにいるのか分からなくなっている者もいた。門へ人をやっても、返事が戻ってこない。来ない分は、そのままにしておく。
そのあいだに、請け合う者が見つかった分もある。本人の挙げた心当たりへ当たり、名の挙がった者が来て、請け合うと言う。そういう分には、請人の名が入る。名が入れば、あとはこちらの手を離れていく。
太吉という男を、三度呼ぶことになった。
一度目は、戻ってきた紙と本人の申し立てを合わせるためだった。門から使いを出すと、その日のうちに来た。名も、着いた日も、泊まっている家も、書いてあるとおりだった。二度目は、通った道の書き方が他の紙と違っていたからだった。こちらは川の名で書き、別の紙には村の名が書いてある。同じ道を指しているのかどうかが、紙の上では分からない。それを確かめるために、もう一度聞いた。そのときも、前と同じ道筋を言った。
三度目は、その男が挙げた請人の心当たりに当たったあとだった。心当たりの者は、もう駿府にいなかった。宿の者に聞くと、夏のうちに出ていったという。行き先までは分からないらしい。
昼前に来て、板の間の前で膝をついた。前に来たときと同じ、継ぎの当たった袖をしている。
「先に挙げられた方は、もう駿府にはおられません」
「さようで」
驚いた様子はなかった。男はそれ以上何も言わなかった。
「ほかに、請け合う者の心当たりはありませんか」
しばらく考えてから、答えが返ってきた。
「……ござりませぬ」
それだけだった。
三度とも、言うことは変わらなかった。名も、着いた日も、通ってきた道も、前に聞いたのと同じだ。宿も移っていない。呼べば、言われた家から出てきた。
それだけのことだ。嘘をついていないと決まったわけではない。この先も同じかどうかは、分からない。ただ、三度とも同じだったことは、自分が確かめている。
十いくつあった束は、当たり直すうちに薄くなっていった。請け合う者の名が入った分は、こちらの手を離れる。
残ったのは三枚だった。
一枚は、宿を移っていて行方が知れない。一枚は、聞くたびに通った道の話が変わる。もう一枚が、太吉の分だった。はじめの二枚は、当たり直しても前へ進まなかった。呼べない者と、呼んでも話の定まらない者だ。
三枚を板の上へ並べたところで、取次の者が来た。文机の前へ座って、順に繰っていく。
「この分は、まだ定まらぬか」
「はあ」
一枚目を指された。
「この者は」
「宿を移っております。門へ使いを出しましたが、行き先が知れません」
二枚目。
「これは」
「聞くたびに、通った道の話が変わります。三度聞いて、三度とも違いました」
そこまでは、書いたとおりに答えられる。当たった分も、当たれなかった分も、書いてある。
三枚目のところで、取次の者の手が止まった。
「太吉と申す者は」
「三度、呼びました。言うことは変わっておりません」
「請け合う者は」
「おりません」
本人が挙げた心当たりは、もう駿府にいない。ほかに名は出てこなかった。そこまでを言った。
取次の者が、三枚目の紙を板の上へ置いた。
「では、誰が引き受ける」
板の間が静かになった。答えるものがない。この紙の者に請け合う者はいないと、さっき自分が答えたばかりだ。誰かがいるのなら、もう名が書いてある。
与三郎は筆を持ったままだった。
「……おれの名では、いけませんか」
言ってから、自分で驚いた。
取次の者が顔を上げる。与三郎も筆を置いた。
「逃げられれば、おぬしへ返る」
与三郎の声だった。
「返る、というのは」
「逃げれば、まずおぬしが呼ばれる」
「おれが、代わりに責めを負うのですか」
「そうなる。何を求められるかは、その時だ」
分かったのは、そこまでだった。太吉が逃げれば、自分は無関係ではいられない。何を求められるのかまでは、まだ決まっていない。
「それでも名を書くか」
すぐには答えられなかった。
紙を手元へ引き寄せる。筆へ手を伸ばしかけて、そこで止まる。
自分なら、この男を請け合えるかもしれない。そう思って口にした。
けれど、その先を聞いてみれば、何もなかった。家も田畑もない。まとまった銭だって持っていない。ここで食べている飯も、着ている物も、自分で稼いだものではなかった。夜に寝ているところだって、自分の家ではない。
「……いえ」
紙から手を離す。
「おれには、請け合えません」
与三郎がこちらを見た。
「それでよい」
少し間があった。
「請け合いは、軽々しくするものではない。気に病むな」
取次の者が、三枚目の紙を手元へ戻した。そのまま三枚をまとめて、紐をかけていく。
与三郎が筆を取り直した。
三枚とも、請人は定まらないままだ。宿を移った者の分と、道の話が変わる者の分と、太吉の分。どれも、こちらで当たれるところまでは当たった。それより先は、聞いていない。
そのうちの一枚だけが、さっきまで自分の手元にあった。紐をかけてしまえば、どれも同じ厚みの紙だ。
束を受け取って、取次の者は出ていった。
渡りの方で、足音が遠ざかる。
しばらくして、戸口へ源左衛門が立った。
「高瀬。参れ」
筆を置いて立つ。与三郎の手は止まらない。
渡りを進みながら、源左衛門が前を向いたまま言った。
「御屋形様がお召しである」
何か落ち度があったろうか。
「裏手で、何やら丸い物を蹴っておったのを、見た者がおる」
返事のしようがなかった。咎めを受けるのなら、源左衛門の歩き方はもっと速いはずだった。
通されたのは、館の一角にある庭だ。四隅に木が立っている。土がよく踏まれていて、草がない。
縁に氏真が座っていた。供が二人、離れて控えている。
「鞠を蹴ると聞いた」
「はあ」
「見せよ」
供の一人が、鞠を庭へ置いた。
近づいて、初めて手に取った。革を縫い合わせてある。持ち上げると、自作したボールよりずっと軽い。
足元へ落として、甲で当てる。
上がりすぎた。
二度目は加減した。三度、四度と続けるうちに、落とさずに上げられるようになる。
十を越えたあたりで、縁の方から短い声がした。
「ほう」
顔は上げなかった。上げれば落とす。
十いくつまで続けて、手で受け止める。
氏真は縁から下りていた。いつ立ったのかは分からない。
「妙な蹴り方をする」
「はあ」
「落とさぬのは見事よ。されど、鞠とは違う」
「……何が違うのですか」
氏真が供へ手を出した。鞠が渡る。
右の足へ一度落として、そのまま上げた。低い。膝もあまり曲がっていない。二度、三度と続いて、鞠はそのたび氏真の正面へ戻る。動いているのは足首から下と、目だけだった。紙を前にしているときの目ではない。
受け止めて、こちらへ寄こす。
「沓を履け」
供の一人が、革の履物を持ってきた。言われたとおりに履くと、足の裏が厚くなって、指先の感じが遠くなる。
氏真が鞠を上げ、こちらへ寄こした。
受けようとして、甲のどこに当たったのかが分からない。鞠は横へ逃げて、木の根元まで転がっていく。
拾いに行った。次の分も同じだ。
「そこではない」
氏真が自分の右足を示した。
「ここへ当てよ」
親指の付け根のあたりだった。左は使わぬらしい。
三度目は当たった。当たったが、上がりすぎて氏真の頭を越えていく。氏真が首をわずかに傾けて、それを目で追った。供が拾いに走る。
「強い、強い。それでは頭を越す」
声が少し高くなっている。
「己一人で上げるのとは違う。相手の受けやすいところへ返すものよ」
そのあと何度か続けたが、どれも高すぎるか、横へ逃げるかだった。届かせようとして踏み込むたび、上体が前へ出る。氏真の方は、腰から上がほとんど動かない。
落ちてくる先を、先に見ることにした。足を出しに行かず、来たところで力を抜いて当てる。
鞠が緩く上がって、氏真の胸のあたりへ落ちていく。
氏真が鞠を受けた。
「今のはよい」
少しだけ、声が弾んだように聞こえた。
次に返ってきた鞠は、また横へ逃がす。
氏真が笑った。
「次は、今のを三つ続けてみよ」
「はあ」
次、と言われた。
また呼ばれるらしい。
沓を脱いで庭を出る。渡りを戻るあいだも、足の甲に、軽い鞠が当たった感触が残っていた。
蹴鞠は、思っていたより面白かった。
最初はまるで勝手が違ったが、落ちてくるところを見るのは同じだ。力の入れ方さえ分かれば、リフティングで覚えた感覚も使えるかもしれない。
次に呼ばれるまでに、少し練習してみようと思った。




