第70話 備える
朝のうちだけ、風が入るようになった。日が高くなればまだ暑いが、板の間の奥までは届かない。戸を開けておくと、庭の草が鳴る音が聞こえる。
回ってくる紙は日によって違う。出ていく者の控え、戻った者の紙、駿府へ来た者の申し立て。奥との受け渡しの控えも、この板の間で書く。同じ束に綴じるわけではなく、紙の大きさも、書く順も違う。今朝は戻った者の分を、出たときの控えと合わせていた。名と、戻った日と、通ってきた道。合ったものには短い線を引き、合わない分は脇へ寄せておく。そこから先をどうするかは、ここでは決めない。
三枚ほど合わせたところで、与三郎が筆を止めた。
「高瀬。昼から、使いに出よ」
「はあ」
「府中の外だ。往き戻りで半日ほどになる」
行き先までは言われなかった。門で聞けということらしい。
「供は」
「門に二人おる」
与三郎が机の脇から細長い布包みを取って、悠人の前へ置いた。
「これも持ってゆけ」
包みを解くと、短い刀が出てきた。鞘は黒く、飾りらしいものはない。柄の巻きは擦れて、下の色が覗いている。誰かが長く使っていた物だ。
「前は、持たされませんでした」
「この頃は前とは違う」
それだけだった。与三郎も知らないのだろう。上から下りてきた物を、そのまま渡しているように見えた。
「戻ったら門で返せ」
帯のあいだへ差してみる。うまく収まらなかった。抜いて差し直すと、今度は柄が前へ出すぎる。手を離せば、重みで先の方が下がる。三度目でようやく落ち着いたと思ったのに、立ち上がると位置がずれた。
与三郎が立ってきて、柄の端を指で押した。角度が少し変わる。それだけで、腰への当たりが変わった。何も言わず、また机の前へ戻っていく。
立ってみる。歩くと腿に当たった。座るときは、脇へ逃がさないと座れない。座り直して、また立つ。そのたびに同じことをするのだと分かった。
木刀なら毎日振っている。持つ物としては、こちらの方が短い。それなのに、腰に来る重さがまるで違った。振るための物ではなく、ずっと身につけておく物なのだと、差してみて分かる。
刀を覚えさせると聞いたのは、まだ暑くなる前だった。あのとき、町中の用だけでは済まなくなるのだろうと思った。行く先が変わるから、刀まで覚えさせるのだと。
その通りになったらしい。
昼の椀が下がってから、紙と墨壺を布に包んで門へ出た。
男が二人、先に立っている。どちらも見たことのない顔だ。一人は腰に太い物を差していて、もう一人は背に何か負っている。歩くたび、布の下で低い音がした。
門の者が行く先を告げる。
「まりこだ」
聞いたことのない名だった。
「どのあたりでしょうか」
門の者は、先に立っている二人を指した。
「川を二つ越えた先だ。道はこの者どもが知っておる」
それから、こちらへ向き直る。
「日の暮れぬうちに戻れ」
町の道を抜けるまでは、いつもと変わらなかった。人が多く、荷を担いだ者とすれ違う。そこから川沿いへ折れる。
道はすぐに細くなった。片側が土手で、もう片側は草が伸びている。轍の深いところは、前の二人が先に踏んで、平らなところを選んでいく。振り返って待つことはしない。こちらの足が遅れると、その分だけ間が空いた。
草の丈は腰より高いところもあって、二人の背だけが見える形になる。道は続いているのに、どこまで続いているのかは見えなかった。
一度、先の二人が足を止めた。息が上がったのが自分でも分かる。草が揺れただけだ。危ういと思うたら供の後ろへ下がれ、と言われている。下がる用は、今のところない。
人とすれ違わない時間が長かった。日の暮れぬうちに、と言われた道は、こういう道だ。
歩くたびに腰刀が腿へ当たる。手で押さえて歩けば、今度は腕の方が疲れてくる。
川を渡るところでは、二人が先に入って深さを見た。膝の下までしかない。それでも、濡れた袴の裾を絞るのに手間取った。二つ目の川はもっと浅くて、その代わり石が滑った。
着いた先は、板塀に囲まれた屋敷だった。門の脇で名を告げると、中から出てきた者が紙を受け取り、そのまま奥へ入っていく。
待つあいだ、供の二人は外に立っていた。座りもせず、話もしない。こちらも立っているしかない。腰刀が邪魔で、足の置き場を何度か変えた。
塀の中からは音がしなかった。門の脇の木が、風で一度だけ大きく鳴る。
しばらくして、さっきとは別の者が出てきた。
「これを、与三郎殿へ」
「はあ」
受け取った紙は、思ったより厚かった。懐へ入れて、上から手で押さえる。
帰りは来た道を戻る。日が傾く前に門へ着いた。
腰刀を外して、門に立っていた者へ渡す。受け取った者は検めもせず、そのまま持っていく。
腰が軽い。半日ぶんの重さが、急になくなった。
時代劇で見る侍は、当たり前のように刀を差して歩いていた。実際にやってみると、腰の片側だけがずっと重い。鞘は歩くたびに腿へ当たり、座るたびに位置を直さなければならない。半日でこれだ。毎日これを差して暮らすなら、慣れるまでにしばらくかかるだろう。
板の間へ戻ると、奥からの届け物が来ているところだった。懐の紙を与三郎の前へ置いてから、隣へ座る。
千代が細い紙を一枚と、小さな包みを一つ、前へ置いた。その後ろから下働きの者が二人入ってきて、蓋のついた箱を三つずつ抱えている。
「奥より、お届けにござります」
「たしかに、受けた」
与三郎が細い紙を受け取って、悠人の方へ回した。
千代が置いていったのは、奥から回された品の目録だった。日付があって、その下に品と数、渡した者と受け取る者の名が並んでいる。受け取る側には与三郎の名がある。字はいつものものだ。
布が六枚。糸が二巻き。箱が六つ。
千代は頭を下げて、渡りの方へ戻っていく。足音が遠ざかる。
下働きの二人が箱を板の上へ並べて、出ていった。持ち上げてみると、思ったより軽い。蓋は紐で留めてあり、留め方はどれも同じだ。木の色は、古いものと新しいものが混じっていた。書き付けを納める文箱で、板の間でも同じ形のものを使っている。
小さな包みを解くと、目の粗い麻布が六枚と、巻いた麻糸が二つ出てきた。どちらも新しい物ではない。控えの束を包むのと、括るのに使う物だ。
麻布を数える。六枚あった。麻糸も二巻き。文箱を端から数えていくと、六つあった。
目録と、届いた品の数は合っている。
数えた物を脇へ寄せる。文箱を六つ並べると、板の端まで届いた。
奥との受け渡しを記した控えの束を開く。日付ごとに、上から書き足していく形になっている。今日の分は、前の行のすぐ下だ。
筆を取って、日付を書いた。その下へ品と数を並べる。布、六枚。糸、二巻き。箱、六つ。受けた者と渡した者の名を書いて、筆を置いた。
書いた行のすぐ上に、前の分があった。
布が二枚。糸が二巻き。箱が二つ。
その上の行も見る。箱は二つだ。さらに上も、二つ。指で押さえながら遡っていくと、どの行にも同じ数が並んでいた。控えは束ごとに分かれていて、それより前の分は手元にない。遡れるのは、この束のあいだだけだ。
前に扱ったときより、箱が多い。
これまで文箱が回ってくるときは、決まって二つだった。控えの束が増えれば、足りなくなった分を足す。それだけのことで、六つ来たことはない。
書いた行と、その上の行が並んでいる。品の名も、書き方も同じだ。
違っているのは、布と箱の数だった。
墨が乾くのを待っていると、与三郎が顔を上げた。
「高瀬。棚の下の、庵原殿の分をその文箱へ移せ」
蓋を取ると、中は空だった。六つとも同じだ。
棚の下には、庵原殿に関わる紙だけを別に束ねて置いてある。庵原家から届いた書状、こちらから返した文の控え、横田との受け渡しを書いたもの。日ごとの控えとは離して積んであった。去年からの分が、紐で括ったまま三つある。文箱は六つだ。
「一つに入りそうですが」
「別々に入れよ」
それだけだった。
紐を解いて、日付の順に分けていく。届いた文、返した文の控え、受け渡しの紙。並べ直すと、行き来した順になった。麻布で包んでから、一つの箱へ入るだけの量を六つへ散らす。同じ月の分が、二つの箱にまたがる。
蓋をして、麻糸で留めた。留め方は、届いたときと同じにする。
「二つはここへ置け。二つは横田へ回す。残りは庵原の蔵へ送れ」
手が止まった。
「全部、同じところに置かないのですか」
「そうせよとの仰せだ」
それきり、与三郎は紙へ目を戻した。
横田は、千代が最初にいたところだ。名を聞いたことがあるのはそれくらいで、屋敷がどこにあるのかも知らない。庵原がどのあたりなのかは、聞いたこともなかった。
庵原殿に関わる紙を、ここと、横田と、庵原の三つへ分けて置くということらしい。どこか一つで何かあっても、ほかに置いた分は残る。全部を一度に失わないためなのだろう。
朝は、これまで持たされなかった刀を渡された。誰がそう決めたのかは知らない。
今は、庵原殿に関わる記録まで別々のところへ移している。二つが関係しているのかどうかも分からない。ただ、前までと同じではなくなっている。
板の端へ並べ終えたころ、下働きの者が二人で来た。四つを二つずつ提げて、渡りの方へ出ていく。渡りの先で、二人は別々の方へ曲がった。
残った二つを、棚の下へ入れた。前は束が三つ積んであったところだ。空いた分だけ、板の色が濃く見える。




