第69話 請け合う者
朝のうちに、板の間の外が急に暗くなった。ひとしきり強い雨が軒を叩き、庭の土を鳴らして、あっという間に上がる。日が戻ると、濡れた土の匂いが、開けたままの戸口から流れ込んできた。硯の水面が、しばらく小さく揺れていたが、それもすぐに収まった。軒先に残った雫が、しばらくのあいだ、板敷きの外へぽつりぽつりと落ちていた。
朝から扱っていた束へ戻る。
板の間には、出ていく者の控えも、戻った者の紙も、駿府へ来た者の申し立ても回ってくる。今朝の分は、三河から来た者のものだった。
名、着いた日、通ってきた道、泊まっている家、請人。与三郎が聞き取った分をその場で書き、すでに紙になっている分は控えへ写していく。
ここしばらく、この束が厚くなっていた。数えたわけではないが、朝と夕方とで、脇に積む高さがはっきり違ってきている。
与三郎が筆を止めずに言った。
「このごろ、三河の方から来る者が多い」
それだけだった。理由は続かない。悠人も、そのまま筆を動かした。増えているのは、紙の分厚さを見れば分かることだ。
昼前、与三郎が顔を上げた。
「上からだ。請け合う者の定まらぬ分を、抜き出して出せ」
「はあ」
「出す先はどちらですか」
「取次だ。急ぐことはない」
何のために抜くのかは、言われなかった。
今朝の三河の分だけではない。このところ取った、来た者の控えをまとめて繰りはじめた。一枚ずつ目を通していく。何枚か進んだところで、探している字が出てきた。
【請人、なし】
【請人、不明】
どちらも、自分の手で書いた字だ。
聞いたとおりに書いただけだった。請け合う者がいると聞けばその名を書き、いないと確かめた分には、なしと書く。名は聞いたが本人に会えていなければ、未確認と添えた。そのときは、それで済んでいた。
抜くたびに、脇へ重ねる分が増えていく。縁の段は、朝より高くなっていた。
抜いた紙は、遠くから来た者のものが多かった。近くの村から来た者の紙は、たいてい欄が埋まっている。
抜いた分は、まとめて上へ出す。そこから先がどうなるかは、聞いていない。
抜いた中の一枚に、請人の名が書いてあった。
【請人、かんろく。未確認】
先に申し立てだけがあって、本人にはまだ会えていなかった分だ。以前、そう聞いて書いた覚えがある。こうした【未確認】の紙は、あとで動きがあることもあれば、そのままになることもあった。呼び出しをかけたのかどうかは、悠人には分からない。
その男が板の間へ来たのは、それからしばらく経ってからだった。呼ばれてはいない。自分から出向いてきたらしい。年配で、日に焼けている。手には何も持たず、与三郎の前で膝をついた。膝の上に置いた手の甲は節くれ立って、長く外で働いてきた者の色をしていた。
「かんろくと申します」
知っている音だった。脇へ重ねた束へ手を伸ばして、上から順に繰る。
【請人、かんろく。未確認】
自分の字だった。欄の中では、ただの四字でしかない。
顔を上げる。その四字の男が、すぐそこにいた。紙に書いてあるのは、名だけだ。
与三郎が男を見た。
「確かに、かんろくと申すのだな」
「さようにござります」
用件は短かった。
「先だって名を挙げられた者のこと、請け合わぬと申しに参りました」
与三郎が、少し間を置いた。
「いつからの知り合いだ」
「さして古い付き合いではござりませぬ。宿が同じというのみで」
「ほかに、請け合う者の心当たりはないか」
「存じませぬ」
それきりだった。与三郎の返事を待たず、頭を下げて立つ。来たときと同じ歩調で、渡りの方へ戻っていった。
かんろくは、名を挙げられた者のことを、一度もその名で呼ばなかった。
与三郎は何も言わず、手元の紙へ目を戻した。板の間に、また筆の音が戻ってくる。
紙を引き寄せる。もとの字は消さず、脇へ書き足した。筆先が乾きかけていたので、墨を一度つけ直してから書いた。字の並びが、前より一段窮屈になる。
【請人、かんろく。請け合わずと申す】
宿が同じというだけの相手を、請け合うことはできないのだろう。かんろくが来る前も、来た後も、紙に書いてある名はそのままだ。変わったのは、かんろくが請け合わないとはっきりしたことだけだ。ほかに請け合う者がいるのかどうかは、分からないままだった。
抜いた分をまとめて、板の間を出た。雨上がりの地面は、まだ乾ききっていない。今日運ぶのは、いつもの写しではない。
日の当たる渡りへ出ると、まぶしさに一度目を細める。日向の土は、もう乾きはじめていた。抱えた紙の厚みが、腕の内側に残っている。
取次はいつもと同じ静かさだった。文机の前で、取次の者が手を止め、束を受け取る。
「これで全てか」
「はい」
「請け合う者の定まらぬ分のみだな」
「はい」
紙は脇へ置かれた。ほかの束と同じ置き方だった。それより先のことは、悠人の仕事ではない。
取次の者は、もう次の束へ手を伸ばしていた。それから、思い出したように顔を上げた。
「細工の者が、尋ねたきことがあるそうじゃ。渡りの先の、木を扱うておるところだ。行ってやれ」
「はあ」
以前、氏真に言われていた。悠人の自転車を参考にして、似たものを作らせている、と。
板敷きを下りて、渡りへ出る。
教えられたのは庭の隅だった。筵の上に木が並び、削りかけの輪が二つ立てかけてある。一つは大きく、一つは小さい。焼いた鉄の匂いがして、奥の方で誰かが金槌を使っていた。
その脇に、自分の自転車が置いてあった。
久しぶりに見た。前のタイヤは空気が抜けたままで、泥が乾いて白く残っている。
年かさの男が、手を拭きながらこちらへ来た。
「そなたの物だそうじゃな」
「はい」
男は自転車の脇へ回って、ペダルのあたりを指した。
「これを動かすとき、初めに何をする」
口で言おうとして、詰まった。踏む前に何をしているのか、順番が出てこない。
「……またがってみても、いいですか」
「かまわぬ」
自転車を起こして、またがった。前が沈む。空気の抜けた輪では、走れない。片足を地面に残して、もう一方をペダルへ乗せた。
「こちらを踏みながら、地面に着いた方の足で蹴ります。それで、動き出します」
蹴る形だけを見せた。男が横から屈み込んで、ペダルに乗った足を見ている。
年かさの男が後ろへ回って、車体を持ち上げた。後ろの輪が地面を離れる。
「踏んでみよ」
踏むと、鎖が動いて、後ろの輪が回った。二人が顔を寄せている。見ているのは輪ではなく、こちらの足だった。
男が車体を下ろす。
「曲がるときは」
「これを動かします」
ハンドルを左右へ振ってみせた。
「それのみか」
そう言われて、初めて考えた。
「……体も、少し傾けます」
「どちらへ」
「曲がる方へ。たぶん」
別の男が、ブレーキを指した。
「これは、いつ使う」
「止まる少し前です。踏むのをやめて、それから握ります」
「強く握ればよいのか」
「急に強くやると、危ないです」
「どのほど」
「……それは、分かりません」
降りて、車体をもとのところへ戻す。
毎日のように乗っていた。けれど、どうやって乗っていたのかを、人に説明したことは一度もなかった。
年かさの男が立って、立てかけた輪の一つへ手を置いた。
「幾度やっても、この形が揃わぬ」
黙っていた。
削りかけの輪は、どちらが前になるのかも分からない。
礼をして、庭を出た。
帰りに裏手へ回った。物置の並びの端に、自作したボールを置いてある。手の空いたときに、ここで足に乗せている。今日も二度ほど上げて、また元へ戻す。
物置の陰に、若い下働きが立っていた。年は自分と近い。こちらの手元を見ている。目が合うと、抱えていた荷を持ち直して、そのまま行ってしまった。
渡りを戻る。日向の土は、すっかり乾いている。
かんろくの名は消さず、請け合わずと申す、と添えたまま出した。聞いたことと、確かめたことが、一行に並んでいた。
宿がどこかなら、自分にも書ける。
けれど、そこに泊めていることと、その者を請け合うことは、同じではない。
かんろくは、同じ宿にいる。それでも、その者を請け合うとは言わなかった。
あの欄に名を書くというのは、ただ知っている者の名を書くこととは違うらしい。
日はまだ高い。




