第68話 ボール
木刀を持つ稽古が始まってから、何日か経つ。それからも、稽古は毎日続いていた。何度も振らされ、ときには相手を前にして打ち込む。それでも、思ったようには体が動かない。
今も、二の腕の奥に昨日までの張りが残っている。座って筆を持つ時間の長い体には、木刀の重みが思っていた以上に堪えた。
朝の運動も、いつもどおりにやった。塀の内側を回り、肩を回し、腕を上げて下ろす。脚を前へ出して、後ろへ引く。それで足りないわけではない。ただ、体の奥までは届かない。
放課後、友人とボールを蹴り合った記憶が、ふいに戻ってきた。一人のときは、壁に当てて、跳ね返りを何度も蹴り返していたものだ。ただそれだけの遊びで、得点も勝ち負けも気にしていなかった。
こちらへ来た日、川原で水を蹴って歩いたのを思い出す。あのとき足が勝手に動いたのは、長くやっていたからだ。体の方は、まだ覚えている。
試合がしたいわけじゃない。リフティングだけでもいい。とにかくボールが蹴りたくなった。だがボールがない。
昼過ぎ、渡りですれ違った下働きが、丸い籠を抱えていた。膨らんだ胴のところで、細い割り竹が幾重にも交差して、曲がりながら編まれている。普段なら目も留めないものだった。
竹ひごを丸く組めば、ボールみたいになるのではないか。丸まるかどうかは、やってみるまで分からない。
鞠なら、屋敷のどこかにあるのだろう。だが、それは自分が持ち出して蹴っていいものではなかった。触ったことさえなかった。
だったら、自分で作ればいい。
板の間で書き物をしている与三郎へ、声をかけた。日中の分の書き物は、まだ半分ほど残っている時分だった。
「与三郎殿」
顔だけがこちらへ向いた。筆は止まらない。机の上には、まだ乾いていない紙が並んでいた。
「使わない竹の細いものは、ありませんか」
「割り竹か」
「はい。籠を編むような。端が割れていても構いません」
「何に使う」
ボールとは言えない。言ったところで通じない。
「丸い物を、作ってみたいです」
与三郎は目を落として、筆先を紙へ戻した。
「渡りを抜けて、裏手へ回れ。物置の並びだ。竹を割っておる。端は捨てておる」
「はあ」
「そこになければ、町へ出ればよい。割り竹くらいなら手に入ろう」
「助かります」
与三郎はそれきり何も言わなかった。
言われたとおり、渡りを抜けて裏手へ回った。表からは見えない一角だった。竹の匂いと、乾いた葉の匂いが混ざって漂っている。物置がいくつも並ぶ端で、頭に手拭いを巻いた男が一人、しゃがんで竹を割っている。割った端から、白い粉のような屑が飛び散っていた。近づいても、手元の動きは止まらなかった。積まれた山の傍らへ立った。
「ここの端、もらっていいですか」
「要るなら持ってゆけ」
顔も上げずに答えが返ってくる。端が裂けたもの、幅の揃わないもの、傷のついた短いもの。その中から、細くて、しなりそうなものを選んだ。太い竹を自分で割るのは無理だ。すでに細く割られたものだけを選んだ。
「それも、借りていいですか」
男が手元の小刀を、こちらへ押してよこした。
戻る道々、抱えた竹が触れ合い、乾いた音が鳴った。夜具を置いている隅へ、竹を並べる。
籠のように編むのは無理だった。編み方を知らない。輪をいくつか作って組み合わせれば、丸いものにはなるはずだ。
一本を曲げてみる。固い。力を入れると、繊維の途中が白くなって、裂けそうになった。
井戸端で水をかけ、しばらく置いてから曲げ直す。さっきよりは素直に曲がった。乾いたままでは折れる。それだけ分かれば足りた。
小刀で、長すぎる端を落とす。ささくれを削る。刃の向きが定まらず、何度か持ち替えた。指先が竹の繊維で赤くなる。
端同士を麻糸で留めて、輪にした。二本目を十字に重ねて縛る。三本目、四本目を斜めから通していくうちに、手の中で歪んだ丸になった。真ん丸にはならなかった。
夕方近くまでかかって、ようやく手に収まる大きさになる。こんなものでも、蹴れればいい。
持ち上げると、拍子抜けするほど軽かった。振っても手応えが返ってこない。
裏手へ持ち出し、足に乗せてみる。狙った方向へは飛ばない。斜め後ろへ飛んだり、足の甲から逃げるように転がったりする。
草鞋のままだと、どこに当たったのかが分からない。爪先なのか甲なのか、蹴った瞬間には掴めなかった。脱いで、裸足で当ててみる。今度は当たった場所がはっきり分かった。交差した竹の角が甲に食い込んで、そのたびに痛い。
何度やっても、同じように逃げていく。竹の触れ合う軽い音だけが、辺りに残った。
足の方は、来るはずのところで待っている。来ないのは、こちらで作った物の方だった。
これじゃ軽すぎる。
手の中で回してみる。竹だけでは、どうしても凹みと出っ張りが残る。骨組みそのものを削って丸くするのは、自分の腕では無理だ。
だが、上から布を巻けばいい。凹んだところへ厚めに、出っ張ったところは薄く。それだけで、今より丸くなる。竹が直に足へ当たることもなくなる。
古布を細く裂いて、巻いてみる。当たりは確かに柔らかくなった。
だが、すぐに尽きた。手元にあるのは、墨を拭くのに使っていた切れ端くらいだ。包むには、まるで足りない。
板の間へ戻って、与三郎に聞いた。
「使わない布は、ありませんか。古いものでいいのですが」
与三郎が筆を止めずに、顎で棚の方を示した。
「反故を包んでおる布がある。擦り切れて、繕いにも使えぬ」
一枚もらった。麻の、薄くなった布だ。裂いて巻くと、さっきより広く覆えた。それでも、まだ竹が覗いている。
新しい布を買う気はなかった。遊びに使うものだ。古いのでいい。
翌日、昼の分の写しを終えたところで、門で断って町へ出た。懐に銭を入れてある。使うあてのなかった分だ。
古着や布を扱う店先に、使い込まれた布も積まれていた。新しそうなものは避けて、その中から使えそうな大きさのものを選ぶ。値を聞いて、銭を出した。
前に瓜を買ったときと同じで、選んだのも払ったのも自分だ。今度は食べ物ですらない。
丸めた布を抱えて戻った。
隅へ座って、布を細長く裂いていく。端から巻いて、竹の隙間を埋めていった。凹んでいるところは、何度か重ねて巻く。手で転がしてみて、当たる出っ張りがあれば、その隣を厚くする。
一度ほどけて、巻き直した。ほどけないよう、麻糸で要所を留める。
出来上がったものを持ち上げる。真ん丸ではない。ところどころ竹が覗いている。それでも、さっきよりはボールらしくなった。
裏手へ持っていって、足の甲に乗せた。
当たった。痛くない。
もう一度、当たる。落ちてくる先が、前より読める。布の分だけ重くなったせいか、蹴っても極端には逃げない。足の向きへ、素直に上がってくる。
三度目で横へ逸れて、草の中へ落ちた。
思わず声が出た。拾いに行く足が、自分でも速い。
もう一度やってみる。今度は四度続いた。上がる高さは毎回ばらばらで、思ったところへは来ない。それでも、足の甲に触れる瞬間だけは、前と同じだった。
来るものに合わせて、膝が勝手に落ちる。爪先の角度が、当たる前に決まっている。考えていない。考える前に、脚の方が動いている。
落とす。拾う。また蹴った。
そのうち、落とした球を追うのも面倒でなくなった。落ちる先へ、先に体が動く。
数えるのはやめておいた。数えると、続かなかったときに落ち込む。そういうところも、昔と変わっていない。
落とさないことだけを考えているうちに、日が傾いていた。
物置の向こうから、人の足音がした。
顔を上げると、下女が二人、桶を提げて立っている。こちらを見ていた。いつからいたのかは分からない。
二人が顔を寄せて、何か言い合っている。
「高瀬殿、何をしておられるの」
「さあ……」
聞こえてしまった。少し決まりが悪い。それでも、やめて隠すほどのことでもなかった。
目が合うと、二人は袖を引き合って、歩いていった。角を曲がるところで、また二人の頭が寄った。
足元の球を拾い上げて、また蹴る。
うまくなったのではない。球の方が、来るべきところへ来るようになった。
落とさない。まだ落とさない。
次はうまく当たらず、横へ転がった。
西日が、草の先だけを赤く染めている。
球は草のあいだへ入り込み、音も立てずに止まった。
拾いに、歩き出した。




