第67話 載っていない
朝、戸を開けると、板の間はもう明るかった。少し前までは、同じころでも奥に薄暗さが残っていた。日が長くなっている。
紐を解き、束を膝の上に広げる。墨はもう磨ってある。引馬へ出す分は、あれからも一枚も来ない。
一枚でも戻ってくれば、少なくとも引馬へ人や物を出す流れが戻ったことは分かる。何も来ないままなら、その流れはまだ止まっている。
どうして止まっているのかまでは、紙には出てこない。
来ないものを待つ気持ちは、そろそろ薄れてきていた。
束を解き、行き先ごとに仕分けていく。見付、二俣、懸川。屋敷の中で済む分。西へ向かう分、東へ向かう分。行き先ごとに束ねて、あとで上へ回す。行き先が分からなければ、束ねようがない。そういう分は、束の外へよけておく。
遠江から回ってくる紙は、このごろ書き方が揃わない。字の癖が違うだけでなく、埋まっている欄の数も紙ごとに違う。向こうでは、書き手がたびたび変わっているのかもしれない。
控えには、名、出た日、行き先、持ち物、戻る見込みの順で欄が並んでいる。いつもなら、それらが一通り埋まっている。抜けている欄が一つあれば目立つ。
今日も、抜けているものが一枚あった。行き先だけが、欄のまま空いている。二度読み直しても、書き落としではない。もともと何も書かれていない。
前の月の分と比べてみる。同じ道筋を通った紙には、行き先まで書いてあった。今日の一枚は、途中で切れている。
書いた者が書き忘れたのか、向こうでも分からなかったのか、判じようがない。こういう欄は、このごろ珍しくなくなっていた。束の中をもう一度見ると、同じところが空いているものが、ほかにもあった。
はじめの一枚を与三郎の方へ置いて、名のところへ指を当てる。
「与三郎殿。この者は、どこへ行ったのですか」
与三郎は紙の上へ目を落として、すぐに戻した。
「そこまでは書いておらぬ」
「向こうへ、聞くことはできますか」
「聞いたところで、同じであろう」
それきり、与三郎は自分の手元へ戻った。
書いていない以上、この紙からは分からない。
控えの行き先の欄へ筆を落とした。
【不明】
空けたままにしておくと、確かめ忘れたのか、確かめても分からなかったのかが、あとで見た者に伝わらない。どれも同じように書いて、束の外へ寄せた。
よけた分が、そのあとどうなるのかは分からない。いつのまにか無くなっている日もあれば、翌日また同じところに戻っている日もある。
残りの方が、まだ分厚い。
昼を過ぎて、目が疲れてきた。同じ欄ばかり見ていると、字が形だけになる。束の合間に少し腰を上げた。
板の間を出て、土間の前を通る。竈から湯気が上がっていた。年かさの方が鍋の縁を木の匙で叩いている。
「鰯は、来ましたか」
「来ぬ」
奥で若い方が笑った。
「今日は菜だ」
「それも好きです」
渡りへ出ると、千代が柱のところに立っていた。空になった浅い箱を抱えている。奥から出す分は、もう渡し終えたのだろう。
板に落ちる日の角度が、朝とは変わっていた。屋敷のどこかで、下働きの声がしている。渡りの向こうから水を運ぶ足音が一度だけ聞こえて、すぐに消えた。
こちらに気づいて、千代が先に口を開いた。
「高瀬さん」
足を止めた。千代が箱を片腕に抱え直して、渡りの先へ目をやる。人の気配はない。話せるとしても、そう長くはない。
「この前聞いた引馬のこと、何かわかった?」
引馬で何が起こっているのか、この先どうなるのか。日本史の教科書に何か載っていないか、千代に確認を頼んでいた件だ。
「ううん」
千代は少し申し訳なさそうに答えて、渡りの奥を一度見た。
「庵原殿と、教科書から取った記録を端から見たんだけど」
声が少し落ちた。渡りに人はいないが、話の中身の方が先に低くなる。
「引馬のことは、載ってなかった」
朝に仕分けた束の、西へ向かう分が頭に浮かんだ。その中に、引馬へ出す紙はもうない。
分かってはいたはずだった。それでも、聞くと肩が落ちる。
「……なかったか」
「うん。けっこうな数があるのに、その中にはなくて」
千代の声には、悔しさよりも、拍子抜けしたような響きが混じっていた。手間をかけたわりに、何も出てこなかったということらしい。
「そのあたり、年が飛んでるんだよね。今のこの辺のことは、日本史にはほとんど出てこないんだと思う」
「そっか。日本史の教科書に載るほど大きな事件ってわけじゃないのかもな」
千代は、少しばつが悪そうに目を伏せた。
庵原家が教科書から取ったという記録は、見たことがない。どれくらいの数があるのかも、何が書いてあるのかも知らない。今回、引馬について拾えるものはなかったらしい。
去年のあいだ、引馬という字を何度書いたか分からない。毎日のように、束のどこかで見ていた。それなのに、教科書から取った記録には一度も出てこない。
言葉が途切れて、渡りに間ができた。千代は板の目のあたりを見ている。持ってきた答えを、もう出し切ってしまったという顔だった。
紙が来なくなれば、与三郎が気にする。庵原殿も知りたがる。そこへ人を出すのか、出せるのか。それだけで、屋敷の中を動く紙の量まで変わる。
ここにいる者にとっては、それだけ大きい話だった。
あとから大きな流れだけを拾ってまとめられた日本史の方には、ほとんど載っていない。
少し妙な感じがした。いま毎日気にしていることと、あとになって残ることとは、同じではないらしい。
聞きたいことは、まだいくつもある。
今、自分が関わっている人や場所は、この先どうなるのか。水口の村。弥兵衛の家や田。この屋敷と、ここにいる人たち。
頭の中で、名前と場所が一つずつ浮かんでは消えていく。日本史の教科書に、そんなものが載るはずがないのだから、聞いても仕方がないことは分かっている。
自分が毎日写している名のほとんどは、教科書には載らない。
「わざわざ、ありがとう」
「ううん。私も、気になってたし」
千代が箱の縁を指でなぞった。それから、思い出したように顔を上げる。
「そろそろ戻るね」
「うん」
千代が渡りの奥へ歩いていく。振り返らなかった。板に落ちた日だけが、さっきと同じ形で残っている。
板の間は、出たときと変わっていなかった。与三郎の前の束が、少し低くなっている。
板の端の、いつもの位置へ戻る。まだ明るい。
束の外へ寄せた分は、そのままにしておいた。行き先の欄だけが、ほかの行より白く見える。明日また同じ紙が来れば、同じ字を書くことになる。
残りの束を引き寄せて、筆先に墨を含ませ直した。
次の紙を取った。そちらには、行き先が書いてあった。




