第66話 言われて来た
朝、板の間の前に、見たことのない男が立っていた。与三郎より年上で、手に木刀を二本提げている。
与三郎が筆を置いて、悠人を見た。
「上の手配だ。少し覚えてこい」
「はあ」
男は何も言わずに歩き出した。庭の隅、井戸から離れた一角で足を止める。土がよく踏み固められていて、草が生えていない。ここで同じことをする者が、ほかにもいるのだろう。
燕が低く飛んで、軒に沿って抜けていった。
男が木刀の一本を差し出す。
「木太刀を持ったことは」
「ありません」
受け取ると、思っていたより重かった。握りの太さが手の中で落ち着かない。差し出してきた男の手の甲には、古い傷が横に一本入っている。
「両手で持て。右が上だ。腕で持つな」
言われたとおりに持ち直す。肘の位置を押し下げられ、足を前後へ少し動かされた。腕ではなく、腹の前に置く形になる。直しているあいだ、男の手は硬く、迷いがなかった。
「こちらへ来い」
一歩出る。もう一歩。
「そこで止まれ」
男が自分の木刀を上げた。先が、悠人の胸の前で止まっている。
近い、と思った。木の棒でも、届くところはこんなに近い。
「これより近くへ入らせるな。ここまで来られてからでは遅い」
「はあ」
男が木刀をゆっくり横から当ててきた。受け止めようとすると、手首ごと持っていかれて、体が流れる。強く打たれたわけでもないのに、手の中の物がひとりでに動いたようだった。
「真向かいから受けるな。体ごと外へ出よ」
男が木刀を返して、刃にあたる側を見せた。持って歩くときも、向きが決まっているらしい。同じ持ち方を何度かさせられて、そのあいだに手の位置だけを覚えた。立ち方は、途中で二度直された。
「危ういと思うたら、供の後ろへ下がれ。逃げられるなら逃げよ」
男が木刀を下げた。
「わしは何度も逃げた」
朝のうちで終わった。木刀を返すと、男は二本まとめて提げて、門の方へ歩いていく。
板の間へ戻ると、与三郎が三河から来た分を脇へ寄せていた。朝のうちは取次にいたらしく、解きかけの束がそのままになっている。
「与三郎殿。木太刀を覚えろというのは、何かあるのですか」
「知らぬ。外へ出す用が増えるのであろう」
外へ出る用なら、これまでにもあった。刀を持たされたことはない。
今までと同じ町中の用ではないのかもしれない。町の外か。それとも、戦の近いところまで行くことがあるのか。
さっき胸の前で止まった木刀の先を思い出した。あまり嬉しい話ではない。
墨を磨り直していると、与三郎がその束を見たまま言った。
「三河の内の騒ぎは、収まったらしい」
三河で騒ぎがあったこと自体、聞いていなかった。
「収まったのですか」
「取次でそう聞いた」
「どのような騒ぎだったのですか」
「一向一揆だ」
「一向一揆……」
「一向宗の者どもと、蔵人佐方とで争っておったそうだ。詳しくは知らぬ」
与三郎が顔を上げて、こちらを見た。
「写し終えた分は、昼のあとで取次へ持ってゆけ」
「はあ」
昼の椀が来て、下がった。朝のうちに写し終えた分を括って、渡りを抜けて取次へ回る。向こうの者は数だけ確かめて、束を脇へ置いた。
取次を出て、板の間へ戻る廊下で、千代と行き会った。
千代は取次の方から来た。手には何も持っていない。奥から出す紙でも届けてきたのだろう。昼を過ぎて、板に日が斜めに入っている。
「高瀬さん」
「うん」
千代は足を止めた。
「今日は、言われて来た。庵原殿から、聞いてくるように言われてる」
身構えた。
今日は、と千代は言った。庵原殿から、と言って来たのは、はじめてだった。
「高瀬さんが毎日見てる紙で、前と流れが変わったところを聞いてこいって」
「流れ?」
「うん。どっちへ行く人や物が増えたとか、減ったとか。来なくなったところがあるとか」
千代が手を袖の中へ入れた。
「それと、戦とか騒ぎの話を聞いてたら、それもって。何に使うのかは、私も聞いてない」
紙の数そのものではない。どっちへの流れが増え、どこが細り、どこが切れたか、その変わり方を知りたいらしい。それに、その先で何が起きていると聞いているか。二つのうち、板の間で毎日やっているのは、流れの方だ。前の月の重なりと今の重なりを並べれば、行き先の偏りも、来なくなった分も見える。その先で何が起きているかは、紙には出てこない。聞いた分があるだけだ。
氏真に答えたことと、同じことを聞かれている。
廊下の先をもう一度見た。誰も来ない。この喋り方をしていられるのは、長くない。誰か来れば、そこで口上の形へ戻す。
口に出す前に、朝の束を思い浮かべた。方角ごとに分けたときの、それぞれの高さ。千代は待っている。
「……東へ出す分は、増えてる。北条の方へ出す人足と馬が、このところ多い」
「うん」
千代の目が、こちらの口元で止まっている。覚えて帰るつもりらしい。
「ただ、北条の人が国へ戻るかららしい。ずっと増えてるのかは分からない」
千代がうなずく。
「西は逆で、遠江へ出す紙が減ってる。でも、全部なくなったわけじゃない」
「うん」
「その中で、引馬へ出す分だけは、去年の暮れから来なくなった。一枚も」
「うん」
「三河から来る紙も減ってる。でも、そっちはまだ来る」
少し間を置いた。
「三河の内の争いは、収まったらしいって聞いた」
「収まったんだ」
千代は、短く受けるほかは口を挟まずに聞いていた。こちらが言い終わると一度うなずいて、聞いた順に口の中で並べ直しているようだった。
戻らない者の名や、氏真との話は出さなかった。
「分かった。そのまま言う」
氏真は、先のことを尋ねない。庵原殿は、今のことを聞いてくる。
千代が板の間の戸口の方を一度見てから、続けた。
「それと、高瀬さんの方でも、先のことで知りたいことがあったら、私が庵原殿に聞いてくるから」
「聞いてくれるの」
「うん。私が持ってきた教科書に載ってることなら、分かるかもしれないから」
聞きたいことなら、いくつもある。ただ、日本史の教科書に載っていそうなことを選ばないと、何も返ってこない。聞くなら、毎日紙で見ている方にする。戻らない者たちのことを聞いても、名の一つずつまでは出てこないだろう。大きい戦と、有名な人と、そのくらいだと、前に千代が言っていた。
引馬は、去年のあいだ、いちばん多く書いた地名だった。その控えは、暮れにみな上へ回った。そこから先で何が転ぶかは、紙を並べても出てこない。与三郎から聞いたのも、戦になったということと、戻らぬ者がいるということまでだ。
戦なら、載っているかもしれない。
「……引馬で、いま起きてる戦。このあと、どうなるか」
千代が少し考えた。
「いま起きてるやつ……聞いてみる。載ってないかもしれないけど」
「うん」
載っていなければ、そこで終わりになる。それでも、聞かないままにはしておけない。
「今日は、これで」
千代が奥へ戻っていく。足音が、廊下の角で切れた。
板の間へ戻ると、与三郎は写しの途中だった。
自分の場所へ座った。朝に解いたままの束が、そのまま残っている。硯へ水を足して、墨を磨り直す。日はまだ高い。隣で、与三郎の筆がまた動きはじめる。
残りの束を開いて、行き先ごとに見ていく。引馬へ出す紙は、今日もない。
写した分を、その日の重なりへ入れた。




