第65話 今いかに見ゆる
年が改まった。
朝の束を解くと、いつもの通行の書付に、見慣れない紙が三枚混じっていた。紙が厚く、字の並びも違う。
「上から下りてきた分だ。戦で働いた者の名だ。写しを取れ」
「はあ」
開くと、名が並んでいた。名の下に、どこで、どう働いたかを記した短い言葉が添えてある。細かい言い回しまでは追えないが、何を書いた紙なのかは分かる。上の方は侍の名で、下へ行くほど言葉は短くなり、供の者や使いの者の名が混じりはじめる。誰に付いていた者か、が名の脇に小さく入っている分もあった。終わりの言い回しはどの名でもよく似ていて、書く形が決まっているのだろう。
上で作られた紙が板の間まで下りてくるのは初めてだ。写しが済めば、原本はその日のうちに返す。書かれたのは、暮れの戦のあとということになる。
墨を磨り直して、上から順に写す。知らない名は形をそのまま写す。写しているうちに、名を目で追うようになっていた。
板の端には、暮れに残したままの控えがある。
一枚目を写し終えたところで、その控えを膝の前へ引き寄せた。紐を解いて、名のある分から順に見ていく。人足の割り当ての分には名がないから、そちらは置く。数の合わない村は、数のまま残っている。
控えの方には、出た日と、行き先と、戻る見込みの日がある。書き上げの方にあるのは、名と、短い言葉だ。重なるところは名しかない。
一枚ずつ、書き上げの側へ目を移して探す。
控えの四枚目で、目が止まった。
同じ名が、書き上げの方にもあった。
字の形は違う。書いた者が違うのだから、そこは当たり前だ。二度、見比べた。同じ名だと思う。
その控えは、自分の字だ。出た日は暮れの初めで、戻る見込みは年内になっている。見込みの日は、とうに過ぎた。
書き上げの方には、戻った日も、通ってきた道も書いていない。
印は付けない。合ったわけではない。
残りの控えも、同じように見ていった。書き上げは三枚とも目を通した。ほかに重なる名はなかった。
「戻らない控えと同じ名が、この紙にあります。控えは、どうしますか」
与三郎が筆を止めて、こちらの手元を見た。
「合うたわけではない。そのままにしておけ」
控えを元の重なりへ戻して、紐を掛け直す。重なりの厚みは、朝と同じだ。
この紙にも、この名があった。
書き上げの写しは、二枚残った。それは後へ回して、昼前に通行の分へ移る。遠江の地名が続く。見付。二俣。懸川。引馬の分は、今日もない。
紙の数そのものは、暮れのいちばん多かったころより減っている。日のあるうちに片づく日が、また出るようになった。
三河から来る者の紙は、朝の束に二枚あったきりだった。一時はこちらが主だったのに、いまは開いてもなかなか出てこない。
束の残りへ戻ると、東へ行く分がまとまって出てきた。
方角ごとに分けていくと、東の山が高くなる。秋から冬にかけては、分けるまでもなく西ばかりだった。
中身は人足の割り当てと、馬だ。村の名の下に数があって、馬の数はその下へ行を変えて立ててある。
「このところ、東へ出す分が多いですね」
「北条の、すけごろう殿が、国へ戻られるそうだ」
与三郎は手を止めずに言った。
「長く駿府におられた方だ。北条の、さきょうのだいぶ殿の御子よ」
「長く、ですか」
「わしが来るより前からだ、と聞いておる」
「……さきょうのだいぶ殿、とは」
与三郎が筆を置いた。脇にあった反故の端を引き寄せ、空いたところへ四つの字を書く。
【左京大夫】
「この方よ。北条では、御本城様と呼ぶそうだ」
「ごほんじょうさま、ですか」
「今の御屋形の父御だ」
北条の、すけごろう殿。今の当主の弟で、その前の当主の息子ということになる。
そんな人が、こんなに長く駿府にいたのか。
紙の方に、その名は出てこない。村の名と、人の数と、馬の数が並んでいるきりだ。
午後になって、源左衛門が戸口に立った。中へは入らず、悠人を見て言う。
「高瀬、参れ」
「はあ」
筆を置いて立つ。与三郎は手を止めない。控えの束は板の上へ置いたままにした。持ってこいとは言われていない。
源左衛門が先に立つ。廊下を進んで角を二つ曲がると、見覚えのある戸の前に出た。
廊下は冷えている。足の裏から上がってくる冷たさで、歩くうちに肩が縮まる。
戸の前で源左衛門が止まり、一度、中へ声をかけてから開けた。
氏真は膝の前の紙を見ていた。何枚か、端をそろえて重ねてある。
悠人は戸のそばに座った。戸が閉まると、廊下の音が遠くなった。部屋は寒くない。氏真の座の脇に、火桶が一つ置かれていた。
上の一枚は、行の割り方に見覚えがあった。朝に写した書き上げと同じ紙だ。下に重なっている分は、端しか見えない。色の違う紙も混じっている。
氏真が顔を上げる。
「そなたには、今いかに見ゆる」
「遠江へ出す紙は、先の月より減りました」
氏真の目は、こちらへ向いたままだった。
「引馬へ出す分は、来なくなりました」
「三河から来る紙も、減っています」
「それは、今日の紙のみで知れることか」
「いえ。前の分と、並べてです」
「減るのと、来ぬのとは、同じか」
「違うと思います。三河は減っていますが、まだ来ます。引馬へ出す分は、来なくなりました。岡崎の方は、この先――」
そこで口が止まった。
「……いえ」
氏真はすぐには何も言わなかった。膝の前の紙を、一枚めくる。
「よい。おおよそは心得ておる。そなたは先に、蔵人佐の名は、後代まで残ると申したな」
「はあ」
「ならば、この後、何事かをなすのであろう」
氏真は紙を見たまま言った。
「されど、いつ何が起こるかまでは知らぬ。いかにすべきかも、知らぬのであろう」
悠人は少し迷ってから、うなずいた。
「はい」
「それも心得ておる。ゆえに、先のことは尋ねぬ」
しばらくおいて、氏真は悠人の方を見て、少し笑った。
「なれど、申すな、とも言うておらぬ」
悠人は、未来の出来事をところどころ知っている。
けれど、それをどう避けるか、どう変えるかという答えまでは持っていない。
未来のことだけをいくら聞いても、今川がどうすればいいかという答えは出てこない。氏真は、そこまで分かっている。
そのうえで、こちらから話す分には止めない、ということなのだ。
そこまで、読まれていた。
氏真が再び紙へ目を落とした。
「いずこが残っておる」
「見付、二俣、懸川は、まだあります。引馬が、ありません」
「戻らぬ者は」
「合わない控えは、まだ残っています。ただ、その先は、紙では分かりません」
「さようか」
氏真はしばらく紙を見ていた。それから、紙の端を指で押さえる。
「そなたは、日々それを見ておるのだな」
「はあ」
氏真は次の一枚へ手を伸ばした。紙の音が二度した。
少し間があって、氏真がまた口を開いた。
「そうじゃ。そなたのふたつ輪に似せて、いま一つ作らせておる」
「……ふたつ輪、ですか」
「うむ。難儀しておると聞く。されど、いずれ形にはなろう」
氏真は紙から目を上げた。
「細工人どもも、そなたに尋ねたきことがあろう。その折は、知る限り答えてやれ」
「はあ」
源左衛門が戸を開ける。悠人は立って、廊下へ出た。
来た廊下を戻る。渡りの手前で源左衛門と別れた。
渡りの板は、来たときより冷たい。日が傾きはじめている。
板の間の戸口まで来ると、中から筆の音がしていた。
与三郎は自分の束を開いている。悠人も座って、朝からの続きへ戻った。
書き上げの残りの二枚を写す。写しは、通行の控えとは別にして重ねた。上で使うのは原本の方だ。写しの分は、硯の向こうへ寄せておく。
通行の控えの残りも、日のあるうちに片づける。
写し終えた分は、方角ごとの山へ足していく。西の山は、暮れのころより低い。
外が暗くなりかけたころ、原本の端をそろえて紐を掛けた。
取次まで持っていく。渡りは静かで、誰ともすれ違わなかった。取次の前には、ほかの部屋から上がってきた束がいくつか積んである。原本を渡すと、取次の者はそれを脇の束の上へ置いた。近ごろ、与三郎が朝のうちにここへ来ていることがある。戻るのは昼近い。
板の間へ戻ると、与三郎はまだ筆を動かしている。
上へ戻した紙には、暮れに戻らなかった者と同じ名が、一つあった。
戻ったことにはならない。
けれど、その名は、戦で働いた者の中にあった。




