第64話 西から
板の間の隅に火桶が入って、四日ほどになる。朝のうちだけそこで指を温めて、それから筆を持つ。
年の暮れが近い。紙は先の月より増えていた。日のあるうちに片づかない日が続き、朝の束の上には前の日の残りが乗っている。
写しているのは通行の書付の控えだ。誰が、どこへ、何を持って出るか。いつ出て、いつ戻る見込みか。屋敷から人や荷が出るときには、先にこれが作られる。
持って出る物の欄は、米と馬で埋まる日が多い。名前が並んでいて、物の欄が空いたままの紙もあった。
もとの書付は、行く者が持っていく。こちらに残るのは写しの方だ。戻ってきたときに、出たときの分と合わせる。写しが要るのは、そのためだった。
束は毎朝、取次から下りてくる。紐を解いて、上から行き先を見てから写しにかかる。
控えは大きく行き先の方角ごとに分けて重ねる。去年からそうしている。板の上には、方角の数だけ小さな山ができる。西の山には、引馬、見付、二俣、懸川の控えが混じっている。
その山のうち、いちばん高いのは今も西の分だ。ただ、先の月ほどではない。見付も二俣も来ることは来るが、一日に何枚も続くことはなくなった。
引馬の紙が、ここ何日か一枚もない。
三日前に、束を全部めくり直した。昨日も見ている。今朝の分にもない。
前は毎日あった。多い日なら、西の分の半分が引馬だった。
来ない理由は、こちらの紙からは出てこない。書付に、そういう欄はない。
与三郎は朝のうちに取次へ出ていた。戻ってからは、ずっと自分の束を開いている。
「引馬へ出す分は、このごろ来ませんが」
与三郎は自分の束から目を上げなかった。
「引馬へは、もう出さぬ」
「離れたらしい」
紙を一枚めくる音がして、それから続いた。
「引馬の方で、戦になったと聞いた」
「戦になったのですか」
「戻らぬ者が、だいぶいるそうだ」
与三郎はそこで一度、筆の先を墨へ戻した。それから、行の続きへ目を落とす。
「去年は三河の話ばかりであったが、今はもう遠江だ。取次へ行っても、遠江の話ばかりよ」
「こちらも、遠江の紙ばかりでした」
「出す紙ばかり増えておったと思えば、今度は戻らぬ名を数える。嫌なものだな」
写し終えた一枚が脇へ送られる。
「奥から物を運んでくる者まで、引馬の話をしておった。奥のことまでは知らぬが」
引馬は、今年ずっと書いてきた地名だった。人が行き、馬が行き、米が行った先だ。門の方へ抜けていくのを、見たこともある。
「戻った者の分は、こちらへ来ますか」
「来る。出たときの控えと合わせよ。合うたものに印を付けよ」
「はあ」
出たときの控えは毎日作っている。戻った分と合わせるのは、向こうからまとめて上がってきたときだ。
昼前に、取次から束が下りてきた。遠江から戻った者の分だ。
紙の端が傷んで、折り目が深い。懐へ入れて持ち歩いた物から起こしたのだろう。書いた手も、この部屋のものではなかった。行の割り方が違って、日付が上ではなく下に置かれている。
一枚に、名と、戻った日と、通ってきた道がある。
悠人は自分の側の控えを出した。戻る見込みの日は控えに書いてある。その日を過ぎた分から順に、板の上へ並べていく。並べた控えは、端から端まで届かなかった。二列にして、上の列を見込みの早い順にした。
紙は、出るときに作る。戻れば合わせる。
出たときの控えは、どれも自分の字だった。
最初の一枚は、すぐに合った。出たのが先の月の頭で、戻りは見込みより二日遅い。印は、控えの端に短い線を一本引くことにした。
一枚ずつ、名を探していく。戻った側にある名は、控えの側にもある。日付を確かめて、線を引いて、脇へ重ねる。
上へ出す束には、印の付いた控えと、戻った分の紙を合わせて入れる。どれとどれが合ったのか、あとから見て分かるようにしておく。合った分は、その日のうちに手を離れる。板の上に残るのは、合わない側だ。
一度戻って、また出た者の控えもあった。同じ名で二枚ある。日付を見ないと取り違える。
見込みより早い者もいる。遅れた者もいた。遅れた分は、戻った日のところに墨が足してある。控えの見込みより半月あとになっている紙もあった。
名のない紙もある。使いの者が二人、三人とあるきりの分だ。人足の割り当ても同じで、村の名の下に数があるだけで、名前はどこにも出てこない。誰を出すかは村の側で決める。こちらの紙には、そこまでは来ない。
そういう分は、人数で見るしかない。村ごとに行が分かれていて、行の端に出した日がある。村の名を一つずつたどっていく。出したときと同じ数が戻っている村もあった。
村の名は、この一年で見慣れたものばかりだ。
与三郎も同じことをしていた。時々、こちらの控えを一枚取って、目を通してから戻してくる。
戻った分の紙は、こちらの控えより少なかった。初めは、まだ全部が上がってきていないのだろうと思った。昼を過ぎても、あとから来る束はなかった。
板の上が二つに分かれていく。線を引いた控えと、引かないままの控えだ。
戻った側を何度見ても、こちらの控えにある名が出てこない。同じ紙を二度めくって、それでも見つからない。そういう控えが、一枚ではなかった。
村の分も合わない。出したときの数と、戻った分の数がそろわないところがある。
引かないままの控えは、板の端へ寄せていく。初めのうちは数えていた。二列目へ入ったところで、数えるのをやめた。
その名の者が今どこにいるのかは、この紙からは出てこない。別の道を戻っている途中なのかもしれない。まだ向こうにいるのかもしれない。戦で死んだ者もいるのかもしれない。
ただ、ここに書いてあるのは、合うか、合わないかだけだ。それ以上のことは分からない。
合わないところが、こんなに多い日は初めてだ。
合わない分には、何も書かない。言われたのは、合うたものに印を付けることまでだった。
手は止めずに、次の一枚へ移る。並べた控えは、下の列がまだ残っている。
午後、戸口で足音が止まった。源左衛門だ。板の間へは入らず、戸口に立ったままだった。
「高瀬。引馬へ出した分の控えを、みな出せ。今年の分だ」
「はあ」
西の山を膝の前へ寄せて、上から一枚ずつ見ていく。引馬とある分を抜いて、脇へ重ねる。今年に入ってからの分だから、下の方まで行った。
上の方は薄い。下へ行くほど、引馬が続けて出てくる。三枚続けて同じ行き先という日もあった。人足の割り当てが一緒に挟まっている分もある。それも引馬行きだ。
抜いていくと、下の方は紙の色が変わっていた。今年の初めに写した分だ。
抜き終えると、脇の重なりはひと抱えになった。もとの山も残っている。見付も、二俣も、懸川もそこにある。ただ、前より低い。
紐を掛けて渡すと、源左衛門は厚みを一度見て、そのまま出ていく。足音は渡りの方へ遠ざかって、聞こえなくなった。
与三郎が自分の束へ戻りかけて、こちらを見た。
「上で、おぬしをまた外へ使う話があるらしい」
「外へ、ですか」
「今までのような道ばかりとは限らぬ、と聞いた」
与三郎が紙を一枚めくった。
「その前に、少し刀を覚えさせるそうだ」
「刀を」
「そう聞いておる」
刀、と聞いて、悠人は顔を上げた。
「わしが聞いたのは、そこまでだ」
朝の束の残りへ戻る。行の数はいつもと変わらない。上から埋めていけば、そのうち終わる。
山の並びから一つ抜けて、板の上が少し広くなっていた。
線を引いた控えは、その日のうちに上へ出した。引かなかった分は、板の端に重ねたままにしてある。
外が暗くなる前に、その日の分を写し終えた。板の間には、与三郎の筆の音が残っている。
入れ替わりに、翌日の分が板の間の端へ置かれていた。束の厚みは、今日のものとそう変わらない。
紐を解いて、上から行き先を見ていく。
見付。二俣。懸川。屋敷の中で済む分が二枚。
引馬へ出す分は、入っていなかった。




