第63話 いつから
戸口の外の桶に、薄く氷が張っていた。指で押すと、縁の方から割れて、下の水が動く。
板の間に火の気はない。筆を持つ前に、手をこすり合わせた。
前の日の分から写しはじめる。二枚目で手が止まった。同じ名が、前に来たときと違う道筋で書いてある。前は海沿いで、今度は山の方を回ったことになっていた。どちらが本当なのかは、この紙からは出てこない。前の分の日付と今度の分の日付を並べて、合わないところは合わないままにしておく。
三河から来た者の紙に、遠江の分が混じる。束を解いた時点で、その日どちらを多く扱うことになるかは見当がつく。このごろは遠江の方が厚い日が続いていた。一枚に取る行が多いので、昼を過ぎても朝の分が残る。
与三郎が筆を置いて、右の指を握り直した。
「冷えると、指が動かぬ」
「おれもです。朝のうちは字が太くなります」
与三郎は指を二度ほど開いてから、また筆を取る。
昼の分に移ったころ、席を外していた与三郎が戸口の方から戻ってきた。悠人の手元を見て、それから顔を上げる。
「高瀬。源左衛門様が、おぬしに見せたい物があるそうだ。何かまでは聞いておらぬ。渡りを抜けて、角を二つ曲がった先の一間だ。行け」
「はあ」
岡崎から来た紙のことで呼ばれたとき以来だ。筆を置いて立ち、渡りを抜けて、角を二つ曲がった。
戸を開けると、源左衛門が板の前に座っていた。脇に書き役が一人いて、膝の前に綴じた控えの束を置いている。
戸のそばで膝をついた。板が冷たい。
板の上に、布の包みが一つあった。
書き役が、その端を開く。
透明な胴が出てきた。口のところだけが白い。栓は閉まったままだ。栓の縁には、指が滑らないように細かい筋が切ってある。白い天辺には、黒い印刷が残っている。胴の真ん中は少しくびれている。
擦れと、小さなへこみがいくつかある。
横に倒して置いてある。中は空だ。
ペットボトルだった。
こちらへ来てから、一度も見ていない。
それでも、布が開いたときにはもう分かっていた。
源左衛門がこちらを見る。
「浦で上がった。これを知っておるか」
「……知っています」
「何だ」
「おれのいたところの物です。水や、飲む物を入れます」
源左衛門が手に取った。
明るい方へかざす。向こう側にいる書き役の指が、胴を通して見えている。
それから、指で横を押した。
胴がへこんだ。指を離すと、少し戻る。
もう一度、手の中で上下させる。
「……これほど透けて、この軽さか。見たことがない」
また品を見る。
「おぬしの物か」
「いいえ」
「では、誰の物だ」
「分かりません」
源左衛門が品を回した。
そのとき、首の段から縄が垂れた。
麻縄だ。
首の下へ回して、抜けないように結んである。肩へ掛けられるほどの長さがある。
この屋敷で、荷を括るのに使っているものとよく似ていた。
毛羽が立っている。結び目は固く締まり、形が崩れていた。縄の当たるところだけ、容器の表面にも細い擦れが残っている。
ペットボトルに、こんな縄は付いていない。
誰かが後から付けて、肩へ提げて何度も使っていたのだろう。
千代の物かもしれない。
それなら、聞けば分かる。
源左衛門が栓の上へ目を落とした。親指で一度撫でる。
「茶、とあるな」
「はい。たぶん、茶が入っていた物です」
源左衛門は栓の縁の筋を爪で確かめて、それから顔を上げた。
「これは、いかにして口を開ける」
品がこちらへ差し出された。受け取ると、垂れた縄が手の甲に当たる。
栓を持って、左へ回す。ひと回りもしないうちに手の中で軽くなって、外れた。口は丸く開いている。中には何も入っていない。
戻して、右へ回す。止まるところまで回すと、また閉まった。
「こうして開けます。逆へ回せば、締まります」
源左衛門が受け取って、同じように回した。外れる。口の内側をのぞいてから、戻して締めた。もう一度開けて、もう一度締める。
「ほう……よく出来ておる」
しばらく品を見ていた。それから布の上へ戻す。
悠人は品を見た。
「これは、どこの浦で上がったものですか」
「由比だ。漁の者が網に掛けたそうだ」
「見つけた者は、分かりますか」
「由比の漁の者だ。名までは聞いておらぬ」
源左衛門が書き役を見る。
「包んで、上へ回せ」
書き役がうなずいた。
源左衛門が、こちらへ向き直る。
「また聞くことがあれば呼ぶ。戻れ」
「はあ」
膝を引いて、外へ出た。戸が閉まる音は、二歩ほど歩いたところで聞こえた。
翌朝、戸を開けると息が白かった。まだ暗い。門の方で人の声が二つ、短く行き来した。
外を一回りして戻る。土が固く、足の裏に小石の形が当たる。
渡りの手前に、千代が浅い箱を持って立っていた。下働きの女が畳んだ布を一枚載せて、戸口の方へ離れていく。足音は角で切れた。
近くに人はいない。
悠人は足音を抑えて近づいた。箱の中は、布と、小さい器が二つ。奥へ入れる分らしい。
「ねえ、千代さん」
「うわ、びっくりした。おどかすな」
「あ、ごめん。あのさ、昨日、源左衛門様に呼ばれたんだけどさ」
「何かあった?」
「ペットボトルが見つかったって。見せられた」
「え? ペットボトル?」
千代が箱を持ち直しかけて、その形のまま止まった。
「……もしかして千代さんの?」
「私のじゃない。持ってきてないし」
少し早口になった。
「どこで見つかったの?」
「由比。漁の人の網に掛かったらしい」
「その人が持ってたんじゃなくて?」
「うん。海から上がったって。見つけた人の名前までは聞いてない」
「いつ見つかったの?」
「それは聞いてない」
千代の目が箱の中へ落ちて、また上がった。
「縄が付いてた。首のところに。こっちの縄。ずいぶん使い込んであった」
「……誰かが、使ってたんだ」
「そう見えた」
「ペットボトルだけこっちに来て、こっちの人が拾って使ったっていうのは?」
「その可能性もあるけど……」
「私たちみたいに、誰かが持ってきて、そのまま使ってたってこともあるよね」
「そうだな」
千代が箱を抱え直した。しばらく、渡りの板の目のあたりを見ている。
「いるかもね」
「いるかもしれない」
「誰なんだろう。ちょっと話してみたい気はする。でも、怖い人だったら嫌だな」
「同じ時代から来たからって、同じこと考えてるとは限らないしな」
「歴史のこと知ってたら、もう何かしてるかもしれないよね」
門の方で、また声がした。すぐにやんだ。
「でも、もしその人が持ってきたんだったら」
「うん」
「いつからいるんだろう」
「分からない。でも、新しい感じじゃなかった。傷も結構あったし、縄もだいぶ擦れてた。しばらく使ってたんだと思う。だから、おれたちより前かもしれない」
「……私たちも、けっこういるよね」
「うん。もう何年も」
千代が渡りの奥を一度見て、視線を戻した。
「桶狭間のあとって、もっとすぐ何もかも変わっていく感じだと思ってた。信長が大きくなって、本能寺があって、秀吉で、そのあと家康って」
「そうだな。事件の名前だけ覚えてると、その間の何年かが抜けてるんだよな」
「うん。何年もたってるのに、今川家も普通にあるし、御屋形様も普通にいるし」
屋敷の中は、去年とよく似た形で動いている。同じ板の間で、同じように束を解いて、同じ順に写している。扱う紙は増えたが、一日の仕事の形はあまり変わらない。
箱の中で布の端がずれている。千代が指で戻した。
「本だと、次のページでもう別の事件なんだよね」
「こっちだと、次の朝が来るだけで、ほとんど変わらないんだもんな」
「そうだよ。考えてみたら、本能寺の変まであと二十年もあるし、江戸幕府なんか四十年も先なんだよ。信じられる?」
「四十年か……」
「そうだよ」
「そう考えると、同じ時代って言っても、全然ひとまとめにできないよな」
「そうね。四十年先なんて、私六十歳になってるもん」
「……それは遠いな」
「でしょ。私、最初は、最後に徳川が天下を取るなら、徳川につけばいいって思ってたんだけど」
千代が少し間を置いた。
「庵原殿に言われたの。この先、徳川の世になるとしても、それは四十年も先だって。そこまでに何があるかの方が、庵原家には大事だって」
「この時代を生きる人にとっては、やっぱりそうだよな。後から歴史を見るのとは、全然違うよ」
「そうだね。そこまでの間に家康にもいろいろあるし、庵原家だって何があるか分からない。最後の結果を知ってても、そこまで生き残れなきゃ意味ないんだよね」
「確かに。二十歳なのに、老後のこと考えろって言ってるようなもんだよ。四十年先のことなんて」
千代が吹き出した。
「なに、そのたとえ」
白い息が上がって、すぐ消えた。
箱を支えている千代の指の先が、赤くなっていた。
「ペットボトルのこと、庵原殿にも話すね」
「うん」
千代が一度うなずいて、渡りの方へ入っていった。
板の間へ戻ると、与三郎はもう写しはじめていた。
昨日、合わないまま書いておいた分は、もう束の中になかった。ほかの分と一緒に上がったのだろう。
前の日の途中から続きを写す。残りは、まだ半分ほどある。
浦で上がったペットボトルは、布に包まれて上へ回った。
どこに置かれたのかは、知らない。




