↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
63/78

第63話 いつから

戸口の外の桶に、薄く氷が張っていた。指で押すと、縁の方から割れて、下の水が動く。


板の間に火の気はない。筆を持つ前に、手をこすり合わせた。


前の日の分から写しはじめる。二枚目で手が止まった。同じ名が、前に来たときと違う道筋で書いてある。前は海沿いで、今度は山の方を回ったことになっていた。どちらが本当なのかは、この紙からは出てこない。前の分の日付と今度の分の日付を並べて、合わないところは合わないままにしておく。


三河から来た者の紙に、遠江の分が混じる。束を解いた時点で、その日どちらを多く扱うことになるかは見当がつく。このごろは遠江の方が厚い日が続いていた。一枚に取る行が多いので、昼を過ぎても朝の分が残る。


与三郎が筆を置いて、右の指を握り直した。


「冷えると、指が動かぬ」


「おれもです。朝のうちは字が太くなります」


与三郎は指を二度ほど開いてから、また筆を取る。


昼の分に移ったころ、席を外していた与三郎が戸口の方から戻ってきた。悠人の手元を見て、それから顔を上げる。


「高瀬。源左衛門様が、おぬしに見せたい物があるそうだ。何かまでは聞いておらぬ。渡りを抜けて、角を二つ曲がった先の一間だ。行け」


「はあ」


岡崎から来た紙のことで呼ばれたとき以来だ。筆を置いて立ち、渡りを抜けて、角を二つ曲がった。


戸を開けると、源左衛門が板の前に座っていた。脇に書き役が一人いて、膝の前に綴じた控えの束を置いている。


戸のそばで膝をついた。板が冷たい。


板の上に、布の包みが一つあった。


書き役が、その端を開く。


透明な胴が出てきた。口のところだけが白い。栓は閉まったままだ。栓の縁には、指が滑らないように細かい筋が切ってある。白い天辺には、黒い印刷が残っている。胴の真ん中は少しくびれている。


擦れと、小さなへこみがいくつかある。


横に倒して置いてある。中は空だ。


ペットボトルだった。


こちらへ来てから、一度も見ていない。


それでも、布が開いたときにはもう分かっていた。


源左衛門がこちらを見る。


「浦で上がった。これを知っておるか」


「……知っています」


「何だ」


「おれのいたところの物です。水や、飲む物を入れます」


源左衛門が手に取った。


明るい方へかざす。向こう側にいる書き役の指が、胴を通して見えている。


それから、指で横を押した。


胴がへこんだ。指を離すと、少し戻る。


もう一度、手の中で上下させる。


「……これほど透けて、この軽さか。見たことがない」


また品を見る。


「おぬしの物か」


「いいえ」


「では、誰の物だ」


「分かりません」


源左衛門が品を回した。


そのとき、首の段から縄が垂れた。


麻縄だ。


首の下へ回して、抜けないように結んである。肩へ掛けられるほどの長さがある。


この屋敷で、荷を括るのに使っているものとよく似ていた。


毛羽が立っている。結び目は固く締まり、形が崩れていた。縄の当たるところだけ、容器の表面にも細い擦れが残っている。


ペットボトルに、こんな縄は付いていない。


誰かが後から付けて、肩へ提げて何度も使っていたのだろう。


千代の物かもしれない。


それなら、聞けば分かる。


源左衛門が栓の上へ目を落とした。親指で一度撫でる。


「茶、とあるな」


「はい。たぶん、茶が入っていた物です」


源左衛門は栓の縁の筋を爪で確かめて、それから顔を上げた。


「これは、いかにして口を開ける」


品がこちらへ差し出された。受け取ると、垂れた縄が手の甲に当たる。


栓を持って、左へ回す。ひと回りもしないうちに手の中で軽くなって、外れた。口は丸く開いている。中には何も入っていない。


戻して、右へ回す。止まるところまで回すと、また閉まった。


「こうして開けます。逆へ回せば、締まります」


源左衛門が受け取って、同じように回した。外れる。口の内側をのぞいてから、戻して締めた。もう一度開けて、もう一度締める。


「ほう……よく出来ておる」


しばらく品を見ていた。それから布の上へ戻す。


悠人は品を見た。


「これは、どこの浦で上がったものですか」


「由比だ。漁の者が網に掛けたそうだ」


「見つけた者は、分かりますか」


「由比の漁の者だ。名までは聞いておらぬ」


源左衛門が書き役を見る。


「包んで、上へ回せ」


書き役がうなずいた。


源左衛門が、こちらへ向き直る。


「また聞くことがあれば呼ぶ。戻れ」


「はあ」


膝を引いて、外へ出た。戸が閉まる音は、二歩ほど歩いたところで聞こえた。


翌朝、戸を開けると息が白かった。まだ暗い。門の方で人の声が二つ、短く行き来した。


外を一回りして戻る。土が固く、足の裏に小石の形が当たる。


渡りの手前に、千代が浅い箱を持って立っていた。下働きの女が畳んだ布を一枚載せて、戸口の方へ離れていく。足音は角で切れた。


近くに人はいない。


悠人は足音を抑えて近づいた。箱の中は、布と、小さい器が二つ。奥へ入れる分らしい。


「ねえ、千代さん」


「うわ、びっくりした。おどかすな」


「あ、ごめん。あのさ、昨日、源左衛門様に呼ばれたんだけどさ」


「何かあった?」


「ペットボトルが見つかったって。見せられた」


「え? ペットボトル?」


千代が箱を持ち直しかけて、その形のまま止まった。


「……もしかして千代さんの?」


「私のじゃない。持ってきてないし」


少し早口になった。


「どこで見つかったの?」


「由比。漁の人の網に掛かったらしい」


「その人が持ってたんじゃなくて?」


「うん。海から上がったって。見つけた人の名前までは聞いてない」


「いつ見つかったの?」


「それは聞いてない」


千代の目が箱の中へ落ちて、また上がった。


「縄が付いてた。首のところに。こっちの縄。ずいぶん使い込んであった」


「……誰かが、使ってたんだ」


「そう見えた」


「ペットボトルだけこっちに来て、こっちの人が拾って使ったっていうのは?」


「その可能性もあるけど……」


「私たちみたいに、誰かが持ってきて、そのまま使ってたってこともあるよね」


「そうだな」


千代が箱を抱え直した。しばらく、渡りの板の目のあたりを見ている。


「いるかもね」


「いるかもしれない」


「誰なんだろう。ちょっと話してみたい気はする。でも、怖い人だったら嫌だな」


「同じ時代から来たからって、同じこと考えてるとは限らないしな」


「歴史のこと知ってたら、もう何かしてるかもしれないよね」


門の方で、また声がした。すぐにやんだ。


「でも、もしその人が持ってきたんだったら」


「うん」


「いつからいるんだろう」


「分からない。でも、新しい感じじゃなかった。傷も結構あったし、縄もだいぶ擦れてた。しばらく使ってたんだと思う。だから、おれたちより前かもしれない」


「……私たちも、けっこういるよね」


「うん。もう何年も」


千代が渡りの奥を一度見て、視線を戻した。


「桶狭間のあとって、もっとすぐ何もかも変わっていく感じだと思ってた。信長が大きくなって、本能寺があって、秀吉で、そのあと家康って」


「そうだな。事件の名前だけ覚えてると、その間の何年かが抜けてるんだよな」


「うん。何年もたってるのに、今川家も普通にあるし、御屋形様も普通にいるし」


屋敷の中は、去年とよく似た形で動いている。同じ板の間で、同じように束を解いて、同じ順に写している。扱う紙は増えたが、一日の仕事の形はあまり変わらない。


箱の中で布の端がずれている。千代が指で戻した。


「本だと、次のページでもう別の事件なんだよね」


「こっちだと、次の朝が来るだけで、ほとんど変わらないんだもんな」


「そうだよ。考えてみたら、本能寺の変まであと二十年もあるし、江戸幕府なんか四十年も先なんだよ。信じられる?」


「四十年か……」


「そうだよ」


「そう考えると、同じ時代って言っても、全然ひとまとめにできないよな」


「そうね。四十年先なんて、私六十歳になってるもん」


「……それは遠いな」


「でしょ。私、最初は、最後に徳川が天下を取るなら、徳川につけばいいって思ってたんだけど」


千代が少し間を置いた。


「庵原殿に言われたの。この先、徳川の世になるとしても、それは四十年も先だって。そこまでに何があるかの方が、庵原家には大事だって」


「この時代を生きる人にとっては、やっぱりそうだよな。後から歴史を見るのとは、全然違うよ」


「そうだね。そこまでの間に家康にもいろいろあるし、庵原家だって何があるか分からない。最後の結果を知ってても、そこまで生き残れなきゃ意味ないんだよね」


「確かに。二十歳なのに、老後のこと考えろって言ってるようなもんだよ。四十年先のことなんて」


千代が吹き出した。


「なに、そのたとえ」


白い息が上がって、すぐ消えた。


箱を支えている千代の指の先が、赤くなっていた。


「ペットボトルのこと、庵原殿にも話すね」


「うん」


千代が一度うなずいて、渡りの方へ入っていった。


板の間へ戻ると、与三郎はもう写しはじめていた。


昨日、合わないまま書いておいた分は、もう束の中になかった。ほかの分と一緒に上がったのだろう。


前の日の途中から続きを写す。残りは、まだ半分ほどある。


浦で上がったペットボトルは、布に包まれて上へ回った。


どこに置かれたのかは、知らない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。