第62話 二つだけ
戸口の前の板に、葉が吹き寄せられていた。渡りの方から入ってくるらしい。掃く者が来るまで、そこにたまっている。
板の間の仕事は変わらない。名。いつ着いたか。どの道を通ったか。どこに泊まっているか。誰が請け合うか。聞いて、書いて、前の分と突き合わせて、上へ渡す。
三河から来る者は途切れていない。多い日もあれば、一人の日もある。その束に遠江の紙が混じるようになって、このごろは半分近くを占める日もあった。
名を取るのは、与三郎が聞いて悠人が書くのが多い。一人か二人の日は、悠人だけで取ることもある。聞く順は決まっているので、迷うところがない。
朝の分を写して、昼の分を写して、間に名を取る。それで一日が埋まる。
昼前の束に、岡崎の紙が入っていた。
このごろは珍しくない。三河から来た者の紙に混じって、あちらの動きを書いたものが回ってくる。どこの城がどうなったとか、誰がどこへ移ったとか、そういうことが書いてある。悠人が写すのは、そのうちの控えだ。中身を判じる役ではない。
ただ、写していれば、書いてあることは目に入る。
その一枚は、岡崎から出た書付を写したものだった。もとの紙をそのまま写してあるらしく、行の並びが、板の間で作る控えとは違う。
上から順に下ろしていく。土地のことらしい。地名と、人の名がいくつか続いていて、そのあいだに、こちらでも見たことのある言い回しが混じる。
本文が切れて、日付があった。十月廿四日。
その下の行で、手が止まった。
【家康】
名の脇に、字ではない形が一つ写してある。もとの紙にあったものらしい。判のようなものだろう。
その二字を、もう一度見る。
家と、康。
松平元康が、家康と名乗るようになったらしい。
そのこと自体は、自分に関わりがない。写して、上へ回すだけの紙だ。
けれど、前に一度、徳川家康という名を口にした。別の日には、その四つの字を書かされている。
書いた紙は、こちらの手元にない。
これを見れば、あちらも気づく。
残りを写した。名も、その下の形も、見えるとおりに下ろす。形の方は、似せるだけで精一杯だった。
行の頭に指を当てて、上から追い直す。書いてあることは変わらない。
指を離して、次の一枚を引き寄せる。字を写すこと自体は、いつもと同じ手つきでできた。
一枚目を写し終えたところで、与三郎が言った。
「岡崎のは、写したら別にしておけ」
「はあ」
上へ回す分だ。前にもそう言われたことがある。岡崎の紙は、写しの方も一緒に上げる。板の間には残らない。
写し終えた紙を、脇へ寄せた。
その日の午後、源左衛門が板敷きの前に立った。
「高瀬、参れ」
「はあ」
やはり来た。
筆を置いて立つ。与三郎はもう次の束を解いている。
渡りを抜けて、角を二つ曲がった。通されたのは、前にも入ったことのある狭い一間だ。戸口が近く、外の板敷きが見える。書き役が一人、先に座っていた。
悠人は戸のそばへ膝をついた。
板の上に、紙が二枚並べてある。
一枚は、今朝の束に入っていたのと同じ形の紙だ。同じところから回ってきたものらしい。
もう一枚は、小さい紙だった。紙の色が、隣のものより少し濃い。端が少し反っている。ずっとどこかに入っていたのだろう。
四つの字がある。
【徳川家康】
自分の字だ。前に、これに似た部屋で書いた。
いま見ると、縦の間が広い。あのとき、一字ずつ確かめながら下ろしたからだ。
渡した紙は、そのまま持っていかれた。
それが、いま目の前にある。
源左衛門は座らない。戸口のところで、こちらを見ている。
書き役が二枚の位置を直した。上の紙を少し下げて、下の紙の四つの字と高さを合わせる。上の紙の二字と、下の紙の後ろの二字が、縦に並んだ。
それから、口を開いた。
「これは、おぬしが書いたものか」
「はあ」
「この二字は同じだな」
「……はあ」
書き役が筆を取った。手元の紙は、まだ白い。
「これを書いたとき、蔵人佐が家康と名を改めると知っておったか」
「はい」
「いつ改めるかも、知っておったか」
「それは、知りませんでした」
筆が動いた。書きながら、そのまま続ける。
「松平ではなく、徳川か」
「はい」
「いつ徳川となる」
「分かりません」
書き役の手が止まった。下の紙の、前の二字を指で押さえる。
「ならば、この二字も、後には合うのか」
すぐには答えられなかった。
合うことは知っている。自分が知っているのは、四つそろった方の名だ。けれど、それがいつなのかも、どうしてそうなるのかも、知らない。
「はい。でも、いつそうなるかは分かりません」
書き役は、それも書いた。
書き終えてから、二枚をもう一度見る。上の紙と、下の紙。二字と、四字。
源左衛門は戸口に立ったままだ。何も言わない。
しばらく、誰も動かなかった。
書き役が二枚を重ねて、袖の下へ入れる。
源左衛門が戸を引いた。
「下がってよい」
「はあ」
膝を引いて、廊下へ出た。
戸が閉まる音がして、それきりになる。二枚が並べてあったところだけは、しばらく目に残っていた。
板の間へ戻ると、奥から人が来ている。
千代だ。包みを一つと、細い紙を一枚持っている。
「奥より、お届けにござります」
与三郎が受け取って、板の上へ並べた。包みを解いて、中を数える。布が二枚と、糸が一巻き。細い紙にある通りだ。
細い紙には、日付と、品と、数と、渡した者の名がある。字は見たことのあるものだった。奥で書く者は決まっているらしい。
「たしかに、受けた」
控えの端に一行書き足して、二つに折る。それから、悠人の方へ寄せた。
「これを、上へ持っていけ」
「はあ」
千代も膝を引いて、一礼した。
戸口を出て、渡りへ折れる。悠人も控えを持って、同じ方へ出た。
渡りは日が入らない。板が足の裏から冷たい。
前を歩く千代の足が、少し遅くなる。
板敷きの方にも、渡りの向こうにも人はいなかった。
渡りは長くない。角までで、二十歩あるかどうかだ。
「高瀬さん」
「うん」
「何かあった?」
歩きながらだ。声は落としている。
「岡崎から出た文書の署名が、家康に変わってた」
千代がこちらを見た。
「いつの文書?」
「十月二十四日」
「じゃあ、そのときにはもう?」
「うん。少なくとも、その日には家康って署名してた」
千代の足が止まりかけて、また動いた。
「……呼ばれた?」
「うん」
千代は何も言わない。三歩か四歩、そのまま歩いた。
「何て聞かれた?」
「家康になるって知ってたのかとか、徳川はいつからなのかとか」
「……何て答えたの?」
「家康になることは知ってたって。でも、いつなのかは知らないって。徳川になることも知ってるけど、いつそうなるかは分からないって」
「そっか」
千代が少し考える顔になった。
「でも、やっぱり歴史通りに進んでるんだね」
「今のところは、たぶん」
「それは、ちょっと安心する」
少し間があった。
「でも、歴史通りなら、今川はこのあと弱くなるんだよね」
「……うん」
「なんか、複雑」
足の速さが戻っている。悠人もそれに合わせた。
角が近づいてくる。
渡りの角で、千代が奥の方へ折れる。
「これ、庵原殿には報告しますね」
「うん」
「じゃあ」
「うん」
紙の多い部屋へ控えを届けた。中の三人は、それぞれ自分の手元を見ている。受け取った者が、置き場所を指で示しただけだった。
板の上には、今日も紙が広げてある。名が並んでいるのが、戸口からでも分かった。誰の名かまでは見ない。
板の間へ戻る。
与三郎は自分の分を写していた。
朝の分は途中で止まっている。悠人は続きの行から写しはじめた。
岡崎の紙を写した分は、もう脇へ寄せてある。与三郎が上げるときに、ほかの分とまとめて持っていく。
一枚終えて、次を引き寄せる。
外の板敷きを、誰かが通っていく。足音は板の間の前で止まらなかった。
日が落ちるまでには、まだ間があった。




