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第61話 腹は立つ

朝の板の間が、少し冷えるようになった。


戸は半分だけ開ける。開けっぱなしにすると、足元から冷える。そこから入る明るさで、しばらくは足りる。


束を解いて、上から三枚を抜いた。日付の古い順に並べ直してから、写しにかかる。この束は日付がそろっていないことが多い。先に並べておくと、あとで数えるときに困らない。


その日の分は、いつもの写しだ。西へ行く分は、夏のころより少し減っている。減っただけで、なくなってはいない。


三河から来る者の分は、また来るようになった。ひと月ほど途切れていたのが、先の月から戻っている。


昼前に、新しい申し立てが二人分回ってきた。与三郎が古い束を膝の脇へ寄せる。


「前に来たと申しておる。二人ともだ」


「はあ」


やり方は変わらない。名を頼りに古い束を繰る。出てきたら二枚を並べて、四つを見る。いつ来たか。どの道を通ったか。どこに泊まったか。誰を請人に立てたか。


一人目は、去年の秋の分に出てきた。四つとも合っている。


二人目は、道が一つ多かった。前は三つ、今度は四つ通っている。合わぬところとして書いた。どちらが本当かは書かない。


「済んだか」


与三郎が言った。


「はあ。二人とも書きました」


「上へ回す」


それきり、また紙の音になった。


昼の椀が来た。


運んできたのは、土間の若い方だ。板の上へ置いて、膝を引く。


「まだ紙か」


「紙が来たので」


「また三河か」


「三河です」


食べ終えて、しばらくしてから板の間を出た。


土間の前を通りかかると、煙の匂いがした。


中では何人かが動いている。奥で薪の音がして、椀を抱えた者が脇を通っていく。


大きな鍋の前に、さっきの若い方と年かさの方がいた。前にここで、土へ二つの輪を描いたことがある。


若い方がこちらを見た。


「今日のはどうであった」


悠人は足を止めた。


「うまかったです。昨日の大根も」


年かさの方が顔を上げた。


「昨日のは、こやつが煮た」


「味噌を入れたのは、そちらです」


「なら、二人で作ったのですね」


二人がこちらを見た。


「どっちでも、うまかったです」


年かさの方が笑った。若い方も笑った。


「明日は、鰯がつくかもしれぬぞ」


「鰯」


「清水で、よう獲れたそうな」


「それ、食べたいです」


「来ればな」


年かさの方は鍋の方を向いたままだった。


「来なんだら、菜だ」


「それは今日も食べました」


「食うたな」


板の間へ戻った。


昼を過ぎて、板敷きの方から足音が来た。


源左衛門だ。


「高瀬、参れ」


「はあ」


筆を置いて、立った。与三郎は自分の束を繰っている。


廊下は明るかった。日のあるうちに呼ばれるのは、あまりない。角を二つ曲がるあいだ、板の目がずっと見えていた。


源左衛門が戸の前で声をかけて、開ける。


障子が開けてあって、庭の方から光が入っていた。氏真は紙を膝の前へ広げている。灯りはない。


悠人は戸のそばへ座った。


氏真が一枚を抜いて、膝の前へ置く。


「これは、そなたが見たものか」


三河の者の分だった。名があって、その下に、前の分と合ったところが並んでいる。自分の字だ。


「はあ」


「前の分とも合うたのだな」


「はあ。この者は四つとも」


氏真はしばらく紙を見ていた。それから、下へ入れる。


外で桶を置く音がした。それから、また静かになる。


氏真はすぐには次を取らなかった。


「前に、たけちよの話をしたな」


「はあ」


「あれが、いま岡崎におる」


「はあ」


「去年、こちらから子を返した。あれの子だ」


紙の端を指で押さえたまま、そこで止まっている。


「あやつが岡崎へ戻ったとき、その子はこちらにおった」


「はあ」


「それでも、戻らなんだ」


悠人は少し考えてから、言った。


「……戻らなかったことと、初めから戻るつもりがなかったことは、同じではないように思います」


氏真の目が上がった。


「……そなたも、そう見るか」


「はあ」


「わしも、近頃はそう思う」


光が紙の上を少し動いた。庭で誰かが歩いている音がして、遠ざかる。


「初めは、腹が立った」


氏真は紙を見ている。


「恩を忘れたと思うた。今川を捨てたのだとな」


前に板敷きで聞いた声を思い出した。恩知らずだ、と言った者がいた。


「ただ、三河のことを聞けば聞くほど、あやつ一人で決めたことでもあるまいと思うようになった」


氏真が顔を上げる。


「岡崎には、松平の者がおる。三河の者どももおる。西には織田がおる」


「蔵人佐が岡崎へ戻って、その者らを置いて、また何事もなきように駿府へ戻ると思うか」


悠人は答えを探した。


三河のことは、紙で見た分しか知らない。名と、日と、道と、請人。そこには誰の考えも書いていない。


「……戻らなかった、というより、戻れなくなった、ということでしょうか」


「わしも分からぬ」


氏真は膝の前の紙をそろえた。


「されど、岡崎との戦で討たれた者は戻らぬ」


外の音が一度切れて、また戻る。


「今も、腹は立つ」


紙へ目を落としたまま、氏真は続けた。


「あやつとて、好んで今川に背いたとは、今は思わぬ」


「あやつにも、戻れぬわけがあったのであろう」


庭を、人が二人通っていく。話し声が近づいて、そのまま行き過ぎた。


氏真が紙を一枚めくった。膝の脇の山へ、さっきの分が重なる。


源左衛門が先に立った。悠人も膝を引いて、あとに続く。


戸が閉まる。


来たときより、廊下は暗くなっていた。障子の向こうの光が、下の方だけに残っている。


途中で、灯りを持った者と行き会った。脇へ寄って通す。過ぎたあとしばらく、床の板が見えていた。


板の間へ戻ると、与三郎は束を括り終えていた。


「済んだか」


「はあ」


「残りは明日でよい」


「はあ」


朝に並べ直した三枚のうち、最後の一枚が書きかけで残っている。行の途中だ。そこへ印をつけて、伏せておいた。


筆を洗って、水を替える。


戸を閉めるころには、外はもう暗かった。夏のうちは、この時分でもまだ明るかった。


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