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第60話 西へ

火桶が片づけられて、板の間の隅が空いた。


代わりに、戸を開けておくようになった。紙が浮くので、石を一つ足す。去年の同じころにも、同じことをしていた。


朝から写しているのは、通行の書付の控えだ。


誰がどこへ行くのか。何を持っていくのか。いつ出て、いつ戻る見込みか。この屋敷では、人や荷が出るときに、そういうものが先に作られる。


写した控えは、屋敷に残る分だ。もとの書付は行く者が持っていく。戻ってきたときに、出たときの分と突き合わせる。写しが要るのは、そのためだ。


このごろ、その数が増えている。


行き先が偏っていた。西だ。


去年の分を思い出せば、行き先はもっとばらけていた。東へ行く分も、山の方へ行く分もあった。いまは、開いても開いても西の地名が出てくる。


しかも、同じ地名が何度も出る。


懸川は分かる。冬に井伊肥後守のことで聞いた。掛川だ、と気づいたのもそのときだ。


引馬も前に聞いている。


分からないのは、その間に混じる地名だった。形で覚えてから、与三郎に聞く。


「これは」


「見付だ。その下が二俣」


「こっちは」


「犬居」


「はあ」


「みな遠江だ」


朝のうちに十枚写した。七枚が西で、そのうち五枚が、いまの五つのどれかだ。残りの三枚のうち二枚は、屋敷の中で済む分だった。


去年の夏に扱っていたのは、三河から来る者の分が主だった。来る側の紙だ。いまは、出ていく側の紙が増えている。


西ばかりになる理由は、書いていない。書付は行き先と品と人数を書くものだ。理由を書くところがない。


控えは行き先ごとに分けて重ねる。そうしておくと、あとで数えるときに早い。これは誰にも言われていないが、去年からそうしている。


分けた束のうち、いちばん高くなるのが西の分だった。先の月より高い。


量そのものも増えていた。前は昼までに片づく日があった。このごろは、日のあるうちに終わらない日が出る。残りは翌朝へ回す。


昼前に、別の控えが回ってきた。


人足を出す割り当てだった。村の名が並んで、その下に人数がある。三人、五人、二人。多いところで八人。


いつもの束には入らないものだ。今日は通行の分と一緒に来た。まとめて上へ出すのだろう。


名前はない。どこから何人、だけが書いてある。


その八人が誰なのかは、この紙には出てこない。出す側の村で決めるのだろう。


写しながら、村の数を数えた。二枚で二十四。人数を足していくと、百を超えた。


出す先の欄は、通行の分と同じ地名だった。


「また遠江か」


与三郎が自分の束から目を上げずに言った。


「多いですね」


「引馬の方だ」


「はあ」


字は二人分あった。前半と後半で、跳ねの向きが違う。急いで作ったのだろう。日付だけは同じだった。


「人が足りぬらしい」


与三郎が言った。


一枚めくる間があって、続ける。


「庭を掃く者まで駆り出されたと聞いた。人を出すたび、紙も要る」


「出す方の村も、同じでしょうね」


「だろうな」


通行の分へ戻る。品のところに出てくるのは、米が多い。次が馬だ。人だけの分もある。使いの者が二人、三人と書いてあるだけの紙だった。


米と、馬と、人。西へ出ていくのは、その三つが多い。


午後になって、与三郎が別の紙を見ながら言った。


「岡崎の子に、尾張から嫁が決まったそうだ」


「尾張」


与三郎が紙から目を上げずにうなずいた。


「織田だ」


手が止まった。


「織田?」


「そう聞いた」


岡崎の子というのは、去年こちらから返された子だろう。あのときは紙で知った。今度は与三郎の口からだ。


与三郎は紙を一枚めくって、次の行へ移った。悠人も写しへ戻った。


しばらくして、与三郎が写し終えた分をこちらへ寄せた。


「これを、取次まで持っていけ」


「はあ」


束を抱えて出た。


渡りは静かだった。この時分なら誰かが通っているのに、今日は人がいない。減っているのは、こちらも同じらしい。


角のところで、千代と行き会った。浅い箱を抱えている。


「あ」


「お疲れさま」


千代が左右を見てから、声を落とした。


「高瀬さん、忙しそうだね」


「うん。紙が全然減らない」


「こっちも。人が少なくて」


箱を持ち直して、壁の側へ寄る。悠人もそちらへ寄った。


「千代さん、遠江のことって分かる?」


「遠江」


「このごろ、引馬ってところへ行く紙が多くて。あと、見付とか、二俣とか。犬居っていうのも見る」


千代が少し考えた。


「引馬って……たぶん、浜松だよ」


「浜松」


「うん。あとで家康があそこに入って、浜松になるんだったと思う」


「家康が」


「だいぶ先の話だけどね」


悠人は束を持ち直した。


「今は、どうなってるの」


「遠江の中で、駿府のままでいるか、岡崎の方へ寄るか、揺れてるところが出てる時期だったと思う」


「みんな?」


「そこまでは分かんない。誰がとか、いつとかも覚えてない。ただ、今川から離れていくところは、これから増えていくはず」


渡りの向こうで戸の音がした。二人とも黙った。


「冬に、井伊肥後守っていう人が懸川で討たれたんだけど」


千代の目が上がった。


「それも、それだったのかな」


「分かんない。本当に岡崎と通じてたかまでは、私も知らない」


「そっか」


「あと、岡崎の子と織田の娘の縁組が決まったって」


「それ、家康の子?」


「たぶん」


「前に言ってたやつ?」


「うん。家康、織田と組むんだった」


千代が一度、口を閉じた。


「……じゃあ、もう組んでるってことか」


「そうなんだ」


千代が箱を抱え直した。


「……これ、私たちにはどうしようもないよね」


「御屋形様に、何か言った方がいいのかな」


「だめだよ」


返事が早かった。


「何が起きるか分からないから。怖いよ」


「歴史が変わる、みたいなやつ?」


「そうなるのかな。変わっても、いい方に変わる保証がない、って意味で」


「だよな」


千代が渡りの先を見た。誰も来ない。


「……あのね」


「うん」


「庵原殿も、知ってるの。これから何が起きるか」


悠人は千代を見た。


「私が持ってた荷物の中に、学校の教科書が入ってて。日本史の」


「それを見つけられた」


「うん」


「読まれた?」


「全部じゃないよ。人の名前とか、地名とか、分かる漢字を拾って見られて。年とか、読めないところは私に聞いてきた」


箱の縁を押さえ直す。


「知ってるのは、庵原殿と、お家のほんの何人かだけ。それ以上は増やしてない」


「教科書に書いてあるくらいのことなら」


「そう。大きい戦とか、有名な人とか、そのくらい。井伊肥後守なんて、たぶん載ってない」


「じゃあ、こっちの細かいことは」


「分かんないままだと思う」


一度、間があった。


「桶狭間のことも、知ってた」


「え」


「でも、言わなかったって」


悠人は束を持ち直した。指が少し滑る。


「なんで。今川家の人でしょ」


「その時はまだ、教科書も私の話も、本当かどうか分からなかったんだって。もし違ってたら大変だから、そんなことは言えなかったって」


「……でも、桶狭間は当たった」


「うん。それで信じてくれた。でも今度は、前から知ってたのに黙ってたことになるでしょ。だから、余計に言えなくなったって」


「……そうか」


「何かするとしても、自分の家を守るためだけにするって。そう言われた」


「じゃあ、御屋形様は、庵原殿が未来のことを知ってるとは知らないんだ」


「うん」


千代がこちらを見た。


「……だから、これ、誰にも言わないで」


「分かった。言わないよ」


千代が小さくうなずいて、箱を抱え直した。


「私、これ置いてこないと」


「うん」


「じゃあね」


渡りの向こうへ折れていく。悠人はしばらくその背中を見てから、先の角を曲がった。


取次へ束を置いて、板の間へ戻る。


千代の言ったことが、まだ頭に残っていた。


けれど、紙は減っていない。


写しの続きへ手をつけた。


日が傾くころ、外が騒がしくなる。


荷を担いだ者が何人も通っていく。馬もいる。米俵らしいものも見えた。


朝に写した控えに、その分があった。


人。馬。米。


行き先は、遠江だった。


紙で見ていたものが、いま門の方へ抜けていく。


しばらくして、外は静かになった。


悠人はまた筆を取った。


一枚終えるごとに、行き先ごとの山へ足していく。


西の山が、また高くなった。


日が落ちる前に、その日の分を写し終えた。


入れ替わりに、明日の分が板の間の端へ置かれていた。まだ紐が掛かったままだ。


今日のものと、厚みは変わらない。


悠人は硯に水を足した。


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