第58話 一枚もない
朝、日が出る前に外へ出た。
この時間なら、まだ歩きやすい。日が上がれば、また暑くなる。
門の見えるところまで行って、塀の内側を回る。角を二つ曲がるあいだだけ走った。
戻って、肩を回す。腕を上げて、下ろす。脚を前へ出して、後ろへ引く。
渡りの近くを通る道で帰った。
前から千代が来る。浅い箱を両手で持っている。
こちらに気づいて、一度足が止まる。それから、板敷きの方と渡りの向こうを順に見た。
「高瀬さん」
小声だった。
悠人は寄っていった。
「うん」
「表の方、最近何か新しい話ない?」
少し考えた。
「三河から来る人は、まだ多いよ。あと、最近は遠江の方から来た人の分も混じるようになった」
「遠江から?」
「うん。いつ来たとか、どの道を通ったとか、どこに泊まってるとか。そういう紙」
「前からあったの?」
「少しはあったと思う。でも、このごろ前より見る」
「何しに来てるかは分かる?」
「そこまでは書いてない。おれが見るのは、来た人のことだけだから」
「そっか。もう少し詳しいこと分かったら、教えてくれる?」
「うん。分かったよ」
千代が箱を片腕で支え直した。
「あ、そうだ。ところでさ」
「何?」
「アイスの作り方って知ってる?」
「アイス」
「昨日、夢で見て。起きたら食べたくなっちゃって」
「なんでおれに聞くんだよ」
「知ってるかなと思って」
「牛乳と砂糖じゃない?」
「やっぱり?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「確か、氷に塩を混ぜて、牛乳と砂糖を入れた器を、その中で冷やしながらかき混ぜるんじゃなかったかな」
「なんで塩?」
「氷に塩を入れると、もっと温度が下がるんだよ」
「へえ」
少し間が空いた。
「氷って、どうやって手に入れるの?」
「それをおれに聞かないでよ」
千代が笑った。声は抑えている。それから箱を持ち直した。
「ちょっと考えてみる。これ、置いてこないと」
「うん」
膝を軽く折って、渡りの方へ行く。角を曲がって、見えなくなった。
板の間へ入ると、古い束が二つ、いつもの場所に積んである。
三河から来た者の分だ。先ごろ十二人と数えられたうちの、まだ突き合わせていない十一人。上でそう決まって、翌日には下へ回ってきた。
朝の写しは後回しでよい、と与三郎が言った。先にこちらを片づけろということだ。
やり方は決まっている。前に駿府へ来たことがある者には、そのときのことも書かせてある。いつ来たか、どの道を通ったか、どこに泊まったか、誰を請人に立てたか。それを、実際に残っている古い記録と突き合わせる。
前に来たことはないと言う者についても、古い束は繰る。同じ名の紙が出てくれば、そこで話が変わるからだ。
一人分ずつ、新しい申し立てを開いて手前へ置く。古い束は膝の右だ。名が見つかったら、二枚を並べて石を載せる。先だって一人分やったのと、同じ手順だった。
名を鍵にして、古い束を繰った。
一人目は三枚目に見つかった。去年の春の分だ。道は二つとも同じ。泊まった家も同じ。請人の名だけが違っていた。前は別の者を立てている。
合わないところを書いた。それだけだ。どちらが本当かは、こちらで決めない。
二人目はすぐ出てきた。四つとも合う。
古い束は、去年の分と一昨年の分が別々に括ってある。紐の色も違う。書いた者が一人ではないので、同じ地名でも字の大きさがそろっていない。
三人目は、日付の書き方が前と違っていた。同じ日だと分かるまでに、二度見た。
四人目は、探しているつもりだった束にはなかった。もう一つの束の、いちばん下の紙に出てきた。日付の順に括ってあるが、後から足された分は末尾へ入るらしい。
そういうこともある、と覚えておく。
五人目は、道が一つ多かった。前は三つ、今度は四つ通っている。回った先が増えただけかもしれないし、そうでないかもしれない。合わないところとして、そのまま書く。
六人目は四つとも合った。
「進んでおるか」
与三郎が自分の束から目を上げずに言った。
「六人目までです」
「早いな」
「探すところは決まっていますから」
「そうか」
それきり、また紙の音になる。
七人目で、手が止まった。
名がない。
古い束を上から下まで繰った。一枚に四人、五人と載っている紙もあって、行の頭を追うだけでも目が滑る。もう一度、頭から繰り直した。
念のため、一昨年の分も繰った。三河から来る者が増えたのは去年からだが、それより前に来ていた者がいてもおかしくはなかった。
やはり、その名の載った紙が一枚もない。
分かるのは、そこまでだ。前に来ていないのか、書かれなかったのか、別の名で書かれているのか、別の束にあるのか、失われたのか。どれとも決められない。
「与三郎殿」
「なんだ」
「前の分が見つかりません」
与三郎が顔を上げた。
「探したか」
「二度、繰りました」
「そうか」
しばらく、紙をめくる音だけになる。悠人は待ってから、聞いた。
「どうしますか」
「本人に聞くほかない」
渡りの先の一間へ移った。戸は開けたままだ。与三郎が先に座って、悠人はその斜め後ろに膝をつく。
入ってきたのは、三十くらいの男だった。裾に泥の跡がある。乾いてから落としたらしく、輪の形だけが残っていた。
与三郎が名を聞く。男が答えた。悠人は聞こえたまま書く。
行の間は広く取ってある。このごろ、そう書くようになった。ただ、答えが短いので、余りの方が目立った。
「いつ、着いた」
「二十日ほどになります」
「どこにおる」
「川の手前の、船を出す家に置いていただいております」
「その家の主は」
「名は存じませぬ。船を出しておられます」
「請け合う者は」
「おりませぬ」
与三郎が一度、間を置いた。
「前に、こちらへ来たことは」
「ございませぬ」
「三河のどのあたりから来た」
「川を二つ渡って参りました」
与三郎は先へ進んだ。
「もとは、どこの者だ」
男は膝の上へ目を落とした。
「……申せませぬ」
「言えぬのか」
「分かりませぬ」
声は変わらなかった。答え方も、それまでと同じだった。
「その名は、前から使っておるのか」
「そう呼ばれております」
悠人の筆が、一度止まった。それだけだ。すぐ続きを下ろした。
与三郎はそれ以上聞かなかった。膝の前の紙を閉じて、男の方へ言う。
「下がってよい」
男が頭を下げて、出ていった。板敷きを下りる音が、そのまま遠ざかっていく。
与三郎が手元の紙をそろえて立った。
「戻る」
「はあ」
板の間へ戻る。
書くことは、そう多くなかった。
上に日を入れて、名を書いた。聞こえたとおりの音を、ひらがなで置く。字を知らない名に、当てずっぽうの漢字は当てない。
名。着いた日。泊まっている家。ここまでは、本人が言ったとおりに書けばいい。
問題はその下だった。
筆を持ったまま、少し考えた。
古い記録は見つからなかった。それは自分たちが探した結果だ。ただ、見つからなかった、と、ない、は違う。探し方が足りないだけかもしれない。同じように書いてしまえば、あとで読む者には、その違いが分からなくなる。
請人がいないというのは、男がそう言ったというだけのことだ。こちらで確かめたわけではない。
もとの在所は、聞けていない。
同じ紙に並べるとしても、書き方は分けられる。
【前の分、見つからず】
【請人、なしと申す】
【申し立てのほか、未確認】
三行で足りた。
与三郎が手を出す。
「見せよ」
紙を回した。与三郎は上から下へ目を通していく。
「請人は、おらぬと申したのだな」
「はあ」
「よい」
二つ折りにして、束の中へ入れた。前の分がある者の紙と、同じところだ。分けて置かれるかどうかは、ここでは決まらない。
「今日も暑くなりそうだな」
与三郎が自分の束を開きながら言った。
「そうですね」
「昼を過ぎたら、戸を開けても変わらん」
残りは四人分だ。
後回しにした朝の束が、脇に積んである。いちばん上は、遠江から来た者の分だった。
八人目の名を、古い束から探しはじめた。一枚目の頭にはない。二枚目にもない。
三枚目の下の方に、同じ形の名があった。石を取って、二枚を並べる。
日は板の間の奥まで入っている。まだ昼にもならない。




