第57話 三度目の夏
こちらへ来て、三度目の夏になる。
戸を開けても風は入らない。汗が紙に落ちないよう、腕の下へ布を一枚敷く。それくらいは、言われなくても自分でやるようになった。
町へ出る用も、ときどきある。それでも、たいていの日は板の間で終わる。
朝から写しているのは、いつもの控えだ。名と、日と、品。行の頭をそろえて、上から埋めていく。
このごろ、束の中に三河の紙が増えた。日によっては半分がそれだ。
二年前、桶狭間で義元が討たれた。岡崎へ戻った松平元康は、そのまま駿府へ戻らず、今川方の城を攻めるようになった。三河では、元康方と今川方が、いまも争っている。屋敷では、元康を恩知らずと言う。
そのあいだにも、三河から駿府へ来る者は増えている。縁のある者、逃げてきた者、用があって来た者。誰がどれなのかは、来た本人の言うことを聞いて書くしかない。
だから表では、以前より細かく記録を取るようになった。名。いつ着いたか。どの道を通ったか。どこに泊まっているか。誰が請け合うか。
その記録を取ったり写したりするのが、いまの悠人の仕事だ。
読めない字はまだある。崩し方の強い字や、初めて見る地名では手が止まる。それでも、同じ種類の書付を一年以上扱っていれば、大意を取るのに困ることはない。その紙が何の紙で、誰について何を書いたものかは分かる。
話す方も聞く方も、普段の仕事で困ることはほとんどなくなった。与三郎の言うことなら、たいてい一度で分かる。分からないのは、改まった言い回しと、初めて聞く名と、上の人の古い言葉だ。
昼を過ぎたころ、与三郎が束を二つ、板の上へ並べた。
一つは新しい。もう一つは、紐の色が変わっている。
「三河から来た者の申し立てだ」
新しい方を指で押さえて、それから古い方へ手を移した。
「これが、前に取った分。前の分と、突き合わせよ」
「はあ」
「合わぬところがあれば、そこを書け」
「はあ」
申し立てというのは、来た者が自分について申し出た内容の控えだ。本人が言ったとおりに書いてある。裏を取ったものではない。
ただ、この申し立てには、今度のことだけでなく、前に駿府へ来たときのことも書かせてある。いつ来たか。どの道を通ったか。どこに泊まったか。誰を請人に立てたか。
本人がそう言っているだけなら、本当かどうかは分からない。けれど、そのときの記録がこちらに残っていれば、確かめられる。言っていることと残っているものが食い違えば、そこに何かがある。
それを突き合わせるのが、今日の仕事だった。
新しい方を開いた。一人分だ。今度の分の下に、前に来たときのことが四つ並んでいる。前に来た時期。通った道。泊まった家。請人。
古い方の紐を解いて、上から繰った。十枚ほどある。一枚に三人か四人。日付の古いものが上だ。
三枚目に、同じ名があった。去年の秋の分だ。
二枚を並べて、石を載せる。左に古い方、右に新しい方。
上から順に見ていく。
申し立てには、前に来たのは去年の秋とある。古い方の日付も、去年の秋だった。
道は、川を渡ってから三つの土地を通ったとある。古い方も同じ三つで、順も同じだ。三つのうち一つは読めない字が混じっているが、どちらの紙にも同じ形で入っている。
泊まった家も同じ。請人も、同じ名前だった。
四つとも、前の記録と合っている。
一度見終えてから、もう一度上へ戻った。二度目も同じだ。
前の分と合う、と書いた。行はそれで足りた。
与三郎が手を出す。
「見せよ」
紙を回した。与三郎は上から下へ目を通して、二つ折りにする。
「上へ持っていく」
立って、戸口を出ていった。
紙が上へ行くのは珍しくない。ただ、書いたその日のうちに持っていくのは、あまりないことだった。
板の間に一人になる。悠人はいつもの控えへ戻る。
与三郎はしばらく戻らなかった。
外の板敷きを、誰かが二度、行き来する。二度目は足が速い。
写しの束が半分になったころ、床の色が動いた。日が回っている。
戸口に足音がして、与三郎が入ってきた。手には何も持っていない。
いつもの場所へ座って、束の紐を解く。それから、こちらへ目を上げた。
「先ほどの三河のことは、ほかの者には申すな」
「はあ」
言ってから、聞いた。
「何かありましたか」
与三郎は手元へ目を戻していた。
「知らぬ」
「はあ」
「そう申せと言われた。それより先は、聞いておらぬ」
上が、三河から来た者について何かを警戒している。それは分かった。
ただ、何を疑っているのかは分からない。与三郎も聞かされていない。
千代も、このごろは三河から来る者の話を奥でもよく聞くと言っていた。何をしに来ているのかまでは、千代にも言えないそうだ。
その日の分は、日が傾く前に終わった。
次の日も、その次の日も、三河の紙は来た。突き合わせよとは言われない。写せと言われるだけだ。
「また三河か」
束を解きながら、与三郎が言った。
「多いですね」
「まったくだ」
三河のことで呼ばれたのは、その三日か四日あとだった。
朝の分を写している途中で、足音が来た。戸の前で止まる。源左衛門だ。
「高瀬、参れ」
「はあ」
筆を置いて立つ。与三郎は手を止めない。
渡りを抜けて、上へ上がった。通されたのは、紙の多い部屋だ。
人は三人いる。水口へ行けと言った男が、板の上へ紙を広げていた。
この男は平右衛門という。何度もここへ呼ばれるうちに、与三郎に名を聞いた。字も教わっている。
その脇にもう一人。少し下がったところに、書き役が座っている。
悠人は戸のそばに膝をつく。
広げてある紙には、名が並んでいた。行が詰まっている。数えると十二ある。上から四つ目が、先日突き合わせた名だった。
行の長さがそろっていない。短いものが三つか四つある。書くところが空いたままなのだろう。
平右衛門が、脇に置いてあった紙を開いて、こちらへ向けた。二つに折られていたものだ。自分の字だった。
「これを書いたのは、そのほうか」
「はあ」
平右衛門は紙を戻して、広げてある方へ目を落とした。
「三河より参りし者、この十日で十二人になります」
脇の者が言った。手元の紙を指で押さえている。
「宿の知れぬ者がおります。請け人の当たらぬ者もおります」
「うむ」
「一人ずつ当たっておっては、間に合いませぬ。三河より参りし者は、みな一つに扱うほかござりませぬ」
三河から来たというだけで、十二人をまとめて扱おうとしている。そこまでは分かった。
捕らえるのか、追い返すのか、もう一度調べ直すのか。何をするのかは分からない。
平右衛門は答えなかった。指で行を上から追っている。
指が止まって、顔が上がった。
「高瀬。そのほうの突き合わせは、どこまでだ」
問われているのは、自分の書いた一行がどこまでを言えるか、だ。
書いたのは一行だけで、その一行は一人分のことしか言っていない。
「おれが見たのは、この者の分だけです」
平右衛門は黙っている。
「前の分と合っていたのは、この者の分です。ほかの方の分は、突き合わせていません」
「ほかも合うか」
「見ていないので、分かりません」
平右衛門は、しばらく紙を見ていた。
脇の者が何か言いかけて、やめる。
平右衛門が、広げてある紙の一行へ指を置いた。それから、書き役へ目をやる。
「この一人は、別に書け」
書き役が筆を取った。
脇の者が平右衛門を見る。
「ほかの者は」
「同じく、前の分と突き合わせよ」
「……はっ」
平右衛門が悠人へ目を戻した。
「高瀬、下がってよい」
「はあ」
膝を引いて、戸口を出た。
渡りは日が入らない。板が足の裏から冷たい。
残りの十一人についても、前の記録がないか一人ずつ当たることになる。あれば、今度の申し立てと突き合わせる。その仕事が下へ回ってくるのは、目に見えていた。早ければ明日だ。
板の間へ戻ると、与三郎は次の束を開いていた。
「済んだか」
「はあ」
「残りは、前の記録があるか当たるそうです。あれば、今度の分と突き合わせると」
与三郎が手を止めた。
「残りは十一人か」
「はあ」
「……初めから、そう申せばよいものを」
それきり、束へ目を戻す。
「今日も暑いな。その写しが終わったら少し休め」
「はあ」
朝の分は途中で止まっている。悠人は続きの行から写しはじめた。
日が傾くまでに、その分は終わった。




