第56話 返す
年が明けてから、朝の板がいくらか楽になった。
まだ手はかじかむ。ただ、日が落ちるのが少し遅くなって、夕方に戸を閉める頃合いがずれてきた。
火桶は隅に置いたままだ。近づく回数は減っている。
朝から写しているのは、いつもの控えだ。名と、日と、品。行の頭をそろえて、上から埋めていく。
三河の紙が悠人の手元へ回るようになったのは、去年の夏からだった。
はじめは写すだけだ。今は、来た者から名を聞いて書く方も回ってくる。名と、請け合う者の名。それを束にして上へ渡す。
誰が来ているのかを、表で確かめて残しておく。それがこの仕事だ。
秋の終わりに一度、狭い部屋へ呼ばれて、書き役の前で名を書かされたことがあった。それきり、呼ばれてはいない。
そのあいだも紙は来ていた。冬のうちは数が減って、年が明けてからまた増えた。
このごろは、紙の来方が違う。
三河の紙が続けて来る。朝のうちにまとめて来るのではなく、日に何度かに分けて来るようになった。
渡りの向こうを人が行き来する回数も多い。上へ上がっていく足音が、いつもより速い。
与三郎は自分の束を二度、脇へ寄せた。先にやれと言われた分が、そのたびに割り込んでくる。
何かがあった。そこまでは分かる。何があったのかは、まだ聞いていない。
聞かないのは、聞く場がないからだ。与三郎も、朝から一度も手を止めていない。
昼の椀が下げられたころ、与三郎が筆を置いた。
「かみのごうが落ちたそうだ」
「かみのごう」
「三河だ。こちらの城だった」
手が止まった。
「また岡崎ですか」
「ほかに誰がおる」
与三郎は硯へ筆を戻して、水を足した。
「うどの殿も討たれたと聞く」
「……そうですか」
「城主だ。まわりが次々あちらへついても、あの城は残っておられた」
悠人は筆を置いた。
「遠いのですか」
「遠い。三河でも、海に近い方だ」
与三郎が筆の先を見る。
「去年から、こればかりだ」
「城にいた者たちは、どうなりますか」
「知らぬ」
少し置いてから、続けた。
「討たれた者もあろう。捕らわれた者もあろう。そこまでだ」
しばらく、紙の音だけになる。
「三河はどうなっておるのやら」
こちらを見て言ったのではなかった。
「上のことは聞いておらぬ。わしが知っておるのは、そう聞いた、というところまでだ」
岡崎、と与三郎は言う。
悠人は、その人の名を知っている。元康。
午後の束に、さっき与三郎が口にした名があった。
鵜殿。
与三郎が「うどの」と言っていたのは、この名だ。同じ紙に、上ノ郷ともある。三枚目にも、五枚目にもあった。
前に写した束を繰ってみると、去年の分にも同じ名が出てくる。そのときは、目が滑っていただけだ。
耳で覚えた音と紙の字が合うことは、このごろ増えている。
同じ束に、落ちた城のことだけでなく、鵜殿の子らが捕らえられたことを書いた行もあった。
その先をどうするのかまでは書いていない。そこは別の紙にあるのだろう。こちらへは回ってこない。
行の頭をそろえて、順に下ろしていく。手つきは、朝と変わらなかった。
夕方までに、写しは三束分になった。いつもの倍だ。
与三郎が束を抱えて立つ。
「これは今日のうちに上げる」
「はあ」
戸口を出ていって、思ったより早く戻ってきた。
「同じものを、もう一枚書け。二枚いるそうだ」
「はあ」
同じ紙を二枚。前にもあった。片方が別のところへ回るときだ。
日が落ちてからも板の間に残って、二枚目を書いた。灯りは一つしか入らない。手元が暗いと字が大きくなるので、行を数えながら下ろした。
次の日の昼前に、奥から千代が来た。
包みが二つと、細い紙が一枚。いつもの受け渡しだ。
与三郎が受け取って、板の上へ並べる。悠人は控えを引き寄せて、品と数を追った。
布が三枚。糸が二巻き。細い紙にある通りだった。
千代は膝をついたまま待っている。確かめが済むまでは帰れない。
「奥も騒がしいか」
与三郎が手を止めずに言った。
「はい。岡崎の御子をお返しになるとかで、朝から人の出入りがござります」
数える手が止まった。
「岡崎の……子ですか」
千代がこちらを見る。それから、与三郎の方へ目を戻した。
「知らなんだか」
与三郎が言った。
「蔵人佐の子だ。こちらで預かっておられた」
「ずっと、こちらに」
「わしが来る前からだと聞く」
千代は何も足さない。細い紙の端を指で押さえている。
与三郎は控えへ目を落としたままだった。
「捕らえた者と引き換えだと聞く。そこから先は知らぬ」
千代が細い紙を差し出す。
「いつお発ちになるのかは、私どもには分かりませぬ」
「よい」
与三郎が端に一行書き足して、筆を止めた。
「たしかに、受けた」
「はい」
千代は空になった包みをたたんで、膝を引く。戸口で一度こちらを見てから、渡りの方へ戻っていった。
足音が、渡りの角で聞こえなくなる。
板の間が静かになった。
与三郎はもう次の束を開いている。
悠人は控えへ目を戻したが、行が頭に入ってこない。
城が一つ落ちた。城主が討たれた。その子らが捕らえられた。捕らえられた者と引き換えに、岡崎の子が、こちらから返される。
岡崎。蔵人佐。元康。
紙に四つの字を書かされたのは、この人のことだ。
去年の秋、御屋形様が言っていた。昔、三河から来た子がいて、ここで習い、ここで元服した。
その人の子も、こちらにいた。
その子が、返される。
写しかけの行の途中で、筆を持ったまましばらく止まっていた。
与三郎が紙をめくる音がする。悠人は上の行から追い直して、続きを下ろす。
それから何日かして、渡りの向こうが静かになった。
朝の出入りが減って、上へ上がる足音も、いつもの数に戻る。
写しの量も落ち着いた。昼までに一度、手が空くようになる。
奥からの届け物は常が持ってきた。品も数も、いつもと同じだ。常は奥のことを何も言わない。控えが済むと、すぐ戻っていった。
その日の束の中に、三河への道筋を書いた紙が一枚あった。日と、通った先と、受けた者の名。それだけだ。誰を、とは書いていない。
行ったのだ、と思った。
与三郎は何も言わずに、その紙を束へ戻す。
三河の紙は、その後も減らなかった。
来た者の名を取る仕事も増えた。前より、聞くことが多い。
束の数も増えた。
「増えたな」
与三郎が一度だけ言った。
「はあ」
日が落ちるのは、少しずつ遅くなっていた。
悠人は次の紙を引き寄せた。




