第55話 四つの字
板の間の隅に、火桶が置かれるようになった。
近づけるのは、手が動かなくなったときだけだ。紙のそばへ持っていくわけにはいかない。
写しはいつもの分だった。名と、日と、品。行の頭を詰めて、上から順に埋めていく。
与三郎は自分の束を開いている。時々、紙を持ち上げて透かして見る。折り目の裏に何か書いてあることがあるらしい。
指が固くなってきたので、膝で寄って、しばらく手をかざした。
戻ると、硯の墨が濃くなっている。水を足して、また磨る。
昼を過ぎたころ、足音が来た。
源左衛門だ。
「高瀬、参れ」
「はあ」
筆を置いて、立つ。
与三郎は顔を上げなかった。
廊下は昼でも暗い。角を一つ曲がったところで、足が止まりかけた。
上へ行く道ではない。前に通されたことのある方でもない。
源左衛門は何も言わずに先を歩く。悠人はそのまま後についていった。
聞いてもよかった。聞いたところで、この人は答えない。
通されたのは、狭い一間だ。
戸口が近く、外の板敷きが見える。三河から来た者の名を聞いた部屋に似ているが、あのときより奥行きがない。人が二人座れば、それで埋まる。
男が一人、先にいた。
紙と硯を前に置いて、膝の上で手をそろえている。書き役らしい。顔に見覚えはなかった。
源左衛門はそこで下がる。
悠人は戸のそばへ膝をついた。
板の冷たさが、すぐ上がってくる。
男はしばらく何も言わなかった。硯の縁を布で拭いて、紙の位置を二度直す。
外の板敷きを、荷を負った者が通っていった。
「高瀬か」
「はあ」
男が紙を一枚、手前へ引いた。硯へ筆を入れて、穂先をならす。
「先日、御屋形様に申した名を、もう一度申せ」
「……徳川家康、です」
男の筆が止まった。
「もう一度」
「とくがわ、いえやす」
「字は」
「書きます」
男が小さい紙を一枚、こちらへ回した。筆も添えて置く。
四つ書いた。
【徳川家康】
男がそれを引き寄せて、しばらく見ている。指で一字ずつ押さえていった。
それから、自分の紙へ写しはじめる。
こちらからは、筆の先だけが見えている。動き方は速い。写しのときの与三郎と似ていた。
崩してある。何と書いてあるかは読めない。写しているのが今の四つであることだけは分かる。
男が筆を置く。
自分で書いた四つの字が、別の紙へ移った。
この先のことも、言おうと思えば言える。
言えば、それも残る。
悠人は何も言わなかった。
男は自分の紙に息をかけて、二つに折った。折り目を指でならして、もう一度折る。
悠人の書いた小さい紙は、その下へ重ねられた。
両方を持って、立つ。
戸口を出ていった。板敷きを上がる音が、そのまま遠ざかっていく。
一間には悠人だけが残された。
戸の外の板敷きは、昼の光で白い。誰も通らない。
膝が冷えたので、位置を一度変えた。硯はまだそこにある。使わずに済んだ。
しばらくして源左衛門が来て、板の間の前まで送ってくれた。
戻ると、束は石の下でそのままになっている。
火桶の炭が、行くときより減っていた。
続きを写す。行の頭は詰まっている。手つきは、朝と変わらない。
途中で一度、筆が紙から離れた。何を書いていたか、すぐには出てこない。上の行から追い直して、また下ろした。
与三郎が顔を上げないまま言った。
「終わったか」
「はあ」
それきりだった。
夕方、写し終えた分を与三郎の脇へ置いた。石は載せない。今日はもう風が入らない。
次の日は、朝から雨だった。
渡りの縁から吹き込むらしく、板の間の入り口のあたりが濡れている。石を一つ、内側へ寄せる。
紙が湿ると墨が滲む。今日の分は、いつもより上に置いて写すことにした。
与三郎は火桶を紙から遠いところへ動かした。
昼前に、奥から千代が来る。
包みを二つと、細い紙を一枚持っていた。
「奥より、お届けにござります」
与三郎が受け取って、板の上へ並べる。
一つを持ち上げたところで、手が止まった。
「濡れておる」
包みの下側の色が変わっている。持ち上げたあとの板に、跡が残っていた。
与三郎が結び目をほどいて、中を出す。布が三枚。いちばん下の一枚だけ、端が湿っていた。
「このままでは置けぬ」
与三郎は湿った一枚を抱えて立った。
「乾かす。残りは数えておけ」
「はあ」
戸を開けたまま、板敷きの方へ出ていく。
千代は膝をついたまま残った。確かめが済むまでは帰れない。
悠人は布を手前へ引いて、角をそろえた。二枚。細い紙にある数と合っている。
板敷きの向こうで、与三郎が誰かに何か言っている。言葉までは取れない。
千代が細い紙を見たまま、少しだけ身を寄せた。
悠人も声を落とす。
「この前、御屋形様に、徳川家康って言っちゃって」
千代の手が止まった。
「……え、大丈夫なの?」
「話してたら、名前がつい口から出て。でも、家康のことはそれ以上は話してないです」
「なんか言われました?」
「いや、特には」
雨の音が、戸の外で続いている。板の間の入り口の色が、さっきより広がっていた。
悠人は二枚目の布を重ねた。
「でも、そのあと別の日に呼ばれて、もう一度言わされて。字も聞かれて、おれが書いたのを、書き役の人が写してて」
千代がこちらを見る。
「じゃあ、残っちゃうのかな」
「たぶん」
「高瀬さん、そういうの気をつけないと」
「気をつけてたんだけど」
「出ちゃったんだ」
「出ちゃった」
千代が少し笑った。
外で戸の開く音がした。二人とも手元へ戻る。
通り過ぎる足音は、板の間の前で止まらなかった。
聞きたいことは、こちらにもあった。
「そういえば、庵原殿って、おれのことも知ってるの?」
「うん。話してあります」
「そっか」
布をそろえ直して、細い紙の脇へ置いた。数はもう分かっている。
板敷きの方で、板を踏む音がした。
千代が背を伸ばす。
与三郎が戻ってくる。手には何も持っていなかった。
「乾いたら戻す」
「はい」
千代がそう答えて、細い紙を差し出す。
与三郎が受け取って、端に一行書き足した。筆が二度動いて、止まる。それで済む書き方だ。
「たしかに、受けた。一枚は預かる」
「はい」
千代は空になった包みをたたんで、膝を引く。
来た方へ戻っていった。渡りの手前で、衿を寄せたのが見える。
雨は弱くなっていた。渡りの板は、まだ黒い。
板の間には、布が二枚残っている。
与三郎がそれを脇へ寄せて、自分の束へ戻った。
「今日は暗いな」
「はあ」
戸を半分だけ閉める。それでも、板の目は見えた。
写しかけの束が、石の下でそのままになっている。
悠人は筆を取り、途中の行から続きを写した。




