第54話 竹千代
桶の水に手を入れると、指の先が痺れた。
汲んでから、しばらく手を袖の中へ入れておく。
墨がなかなか下りない。手のひらで包んで、温めた。
紙も冷えている。指で送ると、端が硬く鳴った。
束を開く。上から三枚目に、色の違う紙が入っていた。開かなくても分かる。先に抜いて、脇へ置く。
板の間はまだ暗い。戸を開けても、光は入り口の板を少し明るくするだけだった。
与三郎は自分の束をもう解いている。こちらより早い。
奥から人が来たのは、まだ朝のうちだった。
常だ。包みを一つ提げている。
「奥より、お届けにござります」
与三郎が受け取って、中を開いた。布が何枚か入っている。数えてから、脇に置いてあった控えへ書き足す。
筆はすぐ動いた。品も数も、いつもと同じらしい。
「たしかに、受けた」
常は膝を引いて、来た方へ戻っていく。足音は、渡りの角で聞こえなくなった。
与三郎が、その控えをこちらへ回してきた。折り目がついて、端が毛羽立っている。
「白紙へ、写せ」
「はあ」
奥との受け渡しの控えだった。日付があって、その下に品と数、受けた者と渡した者の名が並んでいる。
十日ぶんほどか。一行に名が二つ入っているところもある。
上から順に写していく。行の頭を詰めて、日付だけ少し上へ出した。
読めない名は形だけなぞって、行を空けずに続ける。布、椀、糸、また布。同じ品が何度も出てくるので、途中から手が覚えた。
読める名もいくつかある。前にも写した形だ。
次の行へ移る。品が二つ、数が二つ。その下に、また読めない名があった。
四行目で、数が合わなくなる。戻って数え直した。控えの方が一つ多い。もう一度見ると、同じ行に二つ書いてあるものを、一つに読んでいる。
書き足して、次へ進んだ。
墨が濃くなりすぎたので、水を少し足す。朝に汲んだ分は、まだ冷たい。
指が動かなくなってきた。息をかけてから、筆を持ち直す。
昼の椀が来て、食べて、また座った。
昼を過ぎたころから、渡りの向こうが動きはじめる。
呼ばれた者が出ていって、しばらくして別の者が呼ばれる。廊下を行き来する音が、途切れずに続いた。
一度、大きく戸の開く音がする。返事があって、板を踏む音が遠ざかっていく。
与三郎が束を一つ抱えて立った。いつも板の間で開いている方ではない。紐の色も違う。
「今日は、こちらへは戻らぬ」
「はあ」
出ていったきり、戻らなかった。
板の間に一人になった。
自分の分を続けた。写し終えたものは端をそろえて、紐を掛けずに重ねておく。与三郎が戻ったとき、そのまま渡せる。
戸を半分閉めた。風はないが、開けたままだと足元から冷える。
外の音だけが入ってくる。桶を置く音。何かを引きずる音。それから、また足音。
床の色が変わりはじめている。
夕方近く、板敷きの前を人が通っていった。
旅装のままだ。草鞋の紐が濡れて、色が変わっている。前に二人、後ろにも一人ついていた。
板敷きを上がって、廊下の方へ折れる。話し声はしない。
悠人は写しへ目を戻す。
しばらくして、また誰かが同じ方へ歩いていく。今度は戻ってこなかった。
写しは、思っていたより早く終わる。
写し終えた分を、与三郎の硯の脇へ置いた。上に石を一つ載せる。戻ってきたとき、いちばん先に目に入る場所だ。
置いてから、もう一度上から見た。行の頭は詰まっている。数も合っている。
残りの束を開いて、いつもの分を続けた。
朝に脇へ寄せた紙も、そこで開いた。折り目が深くて、手を離すとまた閉じる。石を載せて押さえてから、写しはじめた。
指の先が冷えてきた。袖口から入ってくる。
日が落ちてから、足音が来た。
源左衛門だ。
「高瀬、参れ」
「はあ」
筆を置いて、立つ。
氏真に呼ばれるのは、久しぶりだった。
源左衛門のあとについて歩く。角を二つ曲がった。足元はほとんど見えない。板を探るようにして進む。
昼のあいだ人が通っていた方とは、別の廊下だ。こちらは静かだった。
灯りを持った者が一人、向こうから来る。脇へ寄って通した。過ぎたあとしばらく、板の目が見えている。
源左衛門が戸の前で止まった。中へ声をかけてから、開ける。
灯りが入っていた。皿の火が一つ、紙の上を照らしている。部屋の隅までは届かない。
氏真は紙を一枚ずつ見ていた。膝の脇に、片づけた分が積んである。
悠人は戸のそばへ座る。膝から下が、すぐに冷たくなった。
板の音が止まって、部屋が静かになる。
氏真が一枚を抜いて、膝の前へ置く。
「この印は、そなたが入れたか」
大宮の図だ。角のところに、小さな丸が並んでいる。
「はあ」
「見たところか」
「見た分だけです。聞いただけの分は、脇に書いてあります」
氏真は紙を少し傾けて、火の方へ寄せた。それから、一度うなずく。
紙は下へ入った。
すぐには次を取らなかった。
皿の火が細くなって、また戻る。
「そなたの世でも、夜は火を灯すか」
「いえ。家の明かりには、火は使いません」
氏真の目が上がった。
「では、何を」
「雷に似たものを使います」
「雷を」
「あの雷そのものではありません。似たものです。おれも、詳しくは分かりません」
氏真が指で皿の縁を押さえた。火の高さが少し変わる。
「それで、明るうなるか」
「はあ。壁のところを押すと、天井のものが明るくなります」
「夜も、字が読めるか」
「読めます。家の中なら、どこでも」
「油はいらぬか」
「いりません」
氏真の目が、皿の火へ移った。
「それは、便利なものだな」
外は静かだ。廊下を通る者もいない。
「そなたの世では、子はみな同じところで習うのか」
「小さいころは、近くに住む者が、同じところへ通っていました」
「家とは別か」
「はあ。習うための場所が、別にあります」
「子らが、そこへ通うのか」
「はあ。学校といいます」
「学校か」
氏真は紙へ目を戻さなかった。
少し黙ってから、言った。
「昔、三河から来た子がおった」
灯りが一度揺れる。
「たけちよと申した」
「ここで習うて、ここで元服した」
三河から来て、ここで元服した。
家康だ。
たけちよ。
「徳川……」
氏真の目が、こちらへ戻った。
「徳川とは」
口に出していた。
「……いえ、あの。おれのいたところでは、徳川家康と呼ばれていました」
言葉を探した。
「たぶん、その方です」
氏真はしばらく悠人を見ていた。
「そなたの世では、その名で知られておるのか」
「はあ」
「そうか」
それだけだった。氏真は紙を引き寄せて、上から一枚めくる。
源左衛門が先に立った。悠人も膝を引いて、あとに続く。
廊下は暗い。
たけちよ。
聞いたのは、今日が初めてだった。




