第53話 恩知らず
朝の板の間は、もう冷たい。
膝をついてしばらくすると、下から順に感覚がなくなっていく。足の位置を一度変えて、また戻した。
千代とは、その後もときどき顔を合わせた。
奥との受け渡しで話せるときには、前に決めたとおり、互いに分かったことを少しずつ話す。
といっても、変わったことが見つかることはほとんどない。自分の方から、こちらの言葉や人の名を聞くことの方が多い。
千代は、こちらの言葉を話すときも、自分よりずっと迷わない。先に来たからというだけではないように思えた。
歴史のことも、千代の方が少し詳しいことが分かってきた。
年下の千代に聞くことの方が多いのは、少し情けない。
けれど、知らないままでいる方が困る。
分からないことは聞く。聞いたら覚える。
それしかなかった。
束の中に、三河から来た紙がある。紙の色が違うので、開かなくても分かる。読めない字は形だけ写す。写し終えた紙は、端へ寄せる。
与三郎が一枚を抜いて、こちらへ回してきた。
「これも写せ」
「はあ」
受け取って、手前へ引く。折り目が三つ。開いてもまだ形が残っている。
名が三つ並んでいる。二つは読めた。残りの一つは、上の字だけ見当がついて、下は分からない。
「与三郎殿」
「なんだ」
「この人たちは、どこの」
与三郎は自分の紙から目を上げずに答えた。
「岡崎の、松平の家中の者だ」
松平。
名字なら知っている。歴史で何度か見た。けれど、岡崎の松平と言われても、そこから先は何も出てこなかった。
岡崎の名も、前に耳にしている。春に、渡りの向こうが急に騒がしくなった日、走る足音のあいだに何度か飛んでいた。あのとき、もう一つ混ざっていた音は、今も何のことか分からない。
与三郎はそれ以上言わなかった。悠人も聞かなかった。用が済めば、それで終わる。
写しながら、その名だけが頭の隅に残る。行の頭を詰めて、次の名へ移った。
昼を過ぎて、奥から人が来た。
千代だった。包みを一つと、それとは別に、空の箱を提げている。
「奥より、お届けにござります。それと、下げる分を頂きに参りました」
与三郎が顔を上げた。
「そちらは、数がある」
包みの中には書付が入っていた。与三郎はそれを取り出して、板の上へ広げる。届いた分と、書付にある分を突き合わせるらしい。手元の束を脇へ寄せて、場所を作った。
いつもなら、与三郎は悠人の紙が見える位置にいる。行が空きすぎていれば、そのまま手を伸ばして指す。今は板の間の反対側、戸口寄りで、広げた書付の上に指を置いている。
「高瀬。下げる分は、そこの端のを渡せ」
「はあ」
束は板の間の端に、まとめて寄せてある。三日分ほど溜まっていた。与三郎のいるところからは、数間離れていた。
千代が箱を下へ置いて、その脇へ膝をついた。悠人も向かい合わない位置に座って、束の端をそろえる。
一つずつ持ち上げて、紐の掛かりを見てから渡す。数えているあいだ、目は手元にある。
そこへ、戸口の外から男の声がかかった。
「与三郎殿。先ほどの分は、いかがいたしましょう」
「待て。今、見ておる」
与三郎は書付を押さえたまま、戸口の方へ半分体を向けた。
悠人は束を一つ持ち上げて、千代の前へ置いた。千代がそれを箱へ入れる。手は止まらない。
戸口では、男がまだ何か言っている。与三郎がそれに答えた。
その声に重ねるように、悠人は声を落とした。
「岡崎の、松平っていう家が、今川に背いたらしくて」
千代の手が、一度だけ遅れた。
「松平……松平元康ですか?」
「元康?」
「徳川家康です。あとで徳川を名乗る人です」
悠人は次の束へ手を伸ばしたまま、指が止まりかけた。
「……家康?」
「はい」
「関ヶ原の?」
「そうです」
与三郎と男のやり取りは、まだ続いている。
束を持ち上げて、渡す。手だけが動いている。
その家中の者の名を、今朝、自分の手で写した。読めない字は形だけなぞった。
「家康って、子どものころ今川の人質だったはずです」
千代が言った。
「ここに?」
「はい。ずっと駿府にいて、ここで元服して。たしか義元から名前の字ももらって、今川の親戚の人と結婚してたと思います」
外からまた声がして、与三郎が短く返した。
束をもう一つ渡す。千代が受け取って、箱の中で位置を直した。
「じゃあ、この人は」
「桶狭間のあと、今川から離れて……このあと織田と組むんです」
「それで、今川は」
千代の指が、箱の縁で止まった。
「……もっと弱くなります」
そこは知っている。国を失う、というところまでは、前から頭にあった。
けれど、そのあとがない。あの人がどうなったのかを、自分は一度も見ていない。
「……御屋形様は?」
千代は箱の中を見たままだった。
一拍あった。
「……御屋形様は、生き残ります」
言い終えてから、箱の縁を持ち直した。指の関節が、そこだけ白い。
戸口の方で、板が鳴った。
「では、そのように」
与三郎の声が終わって、こちらへ向き直る気配がする。
千代が膝をそろえた。
「たしかに、頂戴いたしました」
同じ人の声だとは、すぐには思えなかった。
千代は箱を持って立ち、膝を引いて、来た方へ戻っていった。渡りの角で足音が聞こえなくなる。
与三郎は書付を畳んで、束の脇へ置いた。
「数は合うておる」
「はあ」
心臓が、そこで一つ大きく鳴った。
いつから聞こえていたのかは、分からない。与三郎はこちらを見ていない。書付の折り目を指でならして、いつもの場所へ戻っただけだ。
それでも、しばらく口の中が乾いていた。
墨を磨り直す。指がうまく力を入れられなくて、二度やり直した。
続きを写した。行の頭は詰まっている。手つきは、朝と同じだ。
夕方近く、板敷きの方が少し騒がしくなった。何人か来ている。
紙を届けに来た者と、それを受ける者と、そのあとに来た者がいた。用は別々らしく、順に済んで、順に出ていく。
最後の一人だけが、板敷きへ座ったまま立たなかった。草鞋の紐を直しているようにも見えたが、手は動いていない。
「三河のことは、もう聞きとうない」
低い声だ。誰かに向けているというより、そこへ置いているような言い方だった。
受けた者が何か短く返す。聞き取れない。
「去年、うちの者が二人、あちらで死んでおる」
そこで一度、間が空いた。板敷きにいる誰も、何も言わない。
「恩知らずだ」
悠人は筆を止めなかった。止めると、聞いているのが分かる。
墨をつけ直して、次の行へ移った。板敷きの方は、それきり静かになる。
与三郎は何も言わなかった。手も止めなかった。束の紐を解いて、次の一枚を開いただけだった。
しばらくして、三河から来た者が一人、与三郎の前へ通された。
若くはない。膝をついて、頭を下げる。
与三郎がいくつか聞いて、悠人が書いた。名と、請け合う者と、着いた日。
終わりかけたところで、その男が言った。
「向こうに、家の者を残しております」
与三郎は顔を上げなかった。
「聞いておく」
「いつ戻れるとも、まだ」
「それも聞いておく」
男はそこで少し黙って、それから付け足した。
「田は、置いてきたままで」
男はもう一度頭を下げて、出ていく。
向こうに家の者がいる。田を置いてきた。その二つだけだった。
与三郎は紙を引き寄せて、上から下へ目を通す。
「これは、上へ回す」
日が傾いて、板の間の奥まで光が届かなくなる。
その日の分を、もう一度上から見た。
朝に写した紙も、まだ端に寄せてある。
三つの名が並んでいる。
岡崎の松平の家中の者。
その松平の当主、松平元康が、徳川家康だった。
読めなかった一つの名は、なぞった線のままだ。
紙には、三人の名しかなかった。




