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第52話 当分のこと

朝のうちに、その日の分を写してしまうことにしている。昼を過ぎると、板の間の空気が動かなくなる。


戸は開けてあるが、風は入らない。紙が浮かないのは助かる。そのかわり、背中がすぐ濡れた。


硯の水がぬるい。汲み直しても、すぐ同じになる。


墨は朝のうちなら濃く出る。日が回ると、下ろすのに時間がかかるようになった。


与三郎は自分の束をもう解いている。


日が高くなる前に、奥から人が来た。


千代だ。包みを二つと、細い紙を一枚持っている。


「奥より、お届けにござります」


与三郎が受け取って、板の上へ並べた。包みを解いて、中を出していく。


布が何枚か。糸が一巻き。それと、蓋つきの箱が二つ。


細い紙が控えだった。日付があって、その下に品と数と、受けた者と渡した者の名が並んでいる。字は与三郎のものではない。右へ流れる癖があった。


与三郎はそれを脇へ広げて、指で押さえながら数えていく。


途中で、指が止まった。


「数が合わぬ」


もう一度、上から追い直している。それでも同じらしかった。


「両人で、数え直せ」


「はあ」


「はい」


与三郎が立つ。


「前の控えを見てくる」


戸口を出て、板敷きの方へ折れていった。戸は開いたままだ。


外は明るい。板敷きの向こうで、与三郎が誰かに声をかけているのが聞こえる。すぐには戻らないらしい。


千代が板の上へ膝をついた。悠人はその向かいではなく、同じ側へ寄って座る。


布は同じ大きさに畳んであった。角をそろえてから、一枚ずつ持ち上げて重ねていく。数えているあいだ、目は手元にある。


板敷きの与三郎の声は、聞こえてはいる。何を言っているかまでは取れない。こちらの声も、たぶん同じだけしか届かない。


千代が声を落とした。


「そういえば、私たち、ちゃんと自己紹介してませんでしたね」


悠人も同じくらいの声で返した。


「たしかに」


「高瀬さん、来たとき何歳でしたか」


「十九です。浪人してて、大学に入るために勉強してました」


千代の手は止まらない。


「私は、来たとき十七でした」


「じゃあ、高校生だったんですね」


「はい」


布を数え終えて、糸へ移る。一巻きしかないので、すぐ済んだ。


ここまでは合っている。合わないのは、この先のどこかだ。


悠人は戸口の方を見た。


「……ここでは、やっぱり千代さんって呼んだ方がいいですかね。誰かに聞かれるかもしれないし」


「その方がいいと思います」


千代が箱の一つを手前へ引いた。


「来たとき十七で、二年くらいなら……今は十九くらいですか」


「たぶん、十九です。こっちは暦が違うし、今がいつなのか、ちゃんとは分からないので」


「おれも、もう二十くらいです。来たときは二つ違ったのに、今だと一つ違いくらいなんですね」


千代が少し笑った。


「私の方が先に来ましたから」


「なんか、変な感じですね」


板敷きの方で、与三郎の声がした。誰かに何か聞いている。返事は聞き取れない。


二人とも手元へ戻った。箱の蓋を開けて、中を数える。


「高瀬さんは、いつも何してるんですか」


「紙を写してます。あとは、人の話を聞いて書いたり、図を描いたり」


「図」


「どこに何があるとか、誰から誰に何が渡ったとか。そういうのを」


千代が少し笑った。


「ちゃんと仕事なんですね」


「最初は写すだけだったけど、今はなんとかやってます」


読めない字は、今も形だけなぞって端へ寄せる。そこは変わっていない。ただ、寄せる紙の数は減った。


箱を閉じて、脇へ置く。


「千代さんは」


「奥です。お仕えしてる方の身の回りとか、運んだり、受け取ったり。今日みたいなのが多いです。たまに、お使いで町へ出ることもあります。お寺へ参られるときは、お供で」


「誰に仕えてるんですか」


「庵原殿です」


「いはらどの」


「はい。私がこっちに来たとき、助けてくれた家の娘さんです。今は御屋形様の側室で、私はそのお側にいます」


「じゃあ、その庵原殿は、千代さんが未来から来たってことは」


「はい。知ってます」


千代が戸口の方を見た。


「でも、ほかの人には秘密です」


もう一つの箱を開ける。中は同じものだった。


「持ってた物は、どうなりましたか」


「庵原殿の実家に置いてあります」


「そうですか」


それ以上は聞かなかった。自分のスマートフォンも、財布も、鍵も、預かると言われたきり、まだ戻っていない。聞いてどうなるものでもなかった。


渡りの方で、足音がした。


板の間の前で止まる。


「まだか」


千代が背を伸ばした。


「はい。ただいま、数えております」


声が変わっていた。


足音はまた動き出して、遠ざかっていく。


千代が息を吐いた。


「高瀬さん、これからどうするつもりですか」


すぐには答えられなかった。


布の端をそろえて、もう一度重ねる。


「……言葉が、もっと分かるようになりたいです」


「言葉」


「聞き取れないことが、まだ多くて。あと、字。読めないのがたくさんあるので」


千代が糸の巻きを箱の脇へ置いた。


「今やってる仕事も、半分くらいしか分かってないです。覚えたいです」


そこで一度切って、続けた。


「ここで、食べていけるようにしたいです」


言ってから、少し黙った。誰かに言ったのは初めてだった。


「千代さんは」


「私は、今いるところを失いたくないです」


「今いるところ」


「置いてもらってるので。怪しまれないで、このまま続けられたらいいなって」


少し置いてから、付け足した。


「あとは、分からないことを知りたいです。ここのこと」


数えた分を控えと突き合わせる。やはり一つ足りない。


控えの行を上から追ってみた。似た形が二つある。同じ字なのか、似ているだけなのかは、自分には分からなかった。


「あの」


「はい」


「何か分かったら、また話せるときに話しませんか」


千代が顔を上げた。


「何かって」


「雷とか。急に出てきた人がいたとか。こっちにあるはずのない物とか」


「……ありそうですね」


「おれは表にいるので、紙とか、来た人の話は入ってきます。千代さんは奥だから、たぶん違うものが入ると思う」


「はい」


箱を並べ直した。


「あと、名前とか、あった出来事で分かることがあったら、教えてほしいです。おれ、そういうの弱くて」


千代が少し考えてから言った。


「学校でやったところなら、たぶん」


「それで十分です」


蝉が鳴きはじめた。塀の外の方だ。


「高瀬さんは、まだ帰りたいですか」


手が止まった。


布の角をそろえて、また持ち上げる。


「……前ほど、そればかり考えてないです」


「そうなんですね」


「帰れるなら、帰りたいとは思います。でも、方法がないので。一回試して、何も起きなかったし」


「それで、今は」


「帰る方法だけ探してても、たぶん食べていけないと思うんです。だからまず、こっちで生きられるようにしたいです」


千代は、しばらく箱の中を見ていた。


「私は、帰れるなら帰りたいです」


言い方がはっきりしていた。


「でも、私もまずはここで生活しないといけないし、ここでお世話になった人のために、何かしたいって考えるようにもなってて」


悠人は布を一枚重ねた。


「でも、このままだと、今川家は……」


「はい。分かってます」


千代の手が止まった。


「だから、何かできたらって思うんですけど……何をしたらいいのか、分からなくて」


布を数える音だけになった。


外の蝉が一度弱くなって、また戻る。


「一つだけ、いいですか」


「はい」


「何か見つけても、すぐ一人で動かないでほしいです。話せるなら、先に話してほしい」


千代がうなずいた。


「高瀬さんもです」


「はい」


板敷きの方から、足音が戻ってくる。


千代が膝をそろえた。


与三郎が紙を一枚持って入ってくる。


「同じ物だ」


「はあ」


「前の控えでは、別の名で書いてある。物が違うのではない。名が違う」


数えた分と、控えの数が、それで合った。


与三郎が控えの端へ一行書き足す。


それから、千代へ目を向けた。


「たしかに、受けた」


「はい」


千代が答えた。


千代は空になった包みをたたんで、両手で持ち直した。膝を引いて、来た方へ戻っていく。


渡りへ入ると、そのまま見えなくなった。


与三郎は控えを畳んで、束の脇へ置いた。


「暑いな」


「はあ」


石を一つ、紙の上へ載せる。風は入らないのに、いつもと同じ手つきだった。


悠人は自分の紙へ戻る。


朝の分は、まだ途中だった。


次の紙に、読めない字が二つある。


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