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第51話 確かめていない

朝の分を写し終えたところで、与三郎が硯を脇へ寄せた。


「今日は、こちらではない」


紙と硯と、束を一つ持たされる。与三郎が先に立って、渡りを一つ折れた。


渡りは日が入らないぶん、板の間より涼しい。硯を胸の前で持って歩くと、水が縁のところで少しだけ動く。


渡りの先に戸が並んでいる。そのうちの一つだ。前を通ったことはあるが、中へ入るのは初めてだった。


入ったのは、板の間より狭い一間だった。


戸口が近い。開けたままにしてあるので、外の板敷きがそのまま見える。奥には何も置いていない。人が座るためだけの部屋らしい。


与三郎が戸口の側を向いて座る。悠人はその斜め後ろへ、少し下がって膝をついた。


紙を広げて、硯を右に置く。ここからだと、与三郎の背中越しに、入ってくる者の膝から下が見える。


「三河から来た者だ」


与三郎はそれだけ言って、手元の束の紐をほどく。


「名と、請け合う者を書け」


「はあ」


墨を磨った。紙は右から使うことにして、上を少し空けた。一人に一行あれば足りるはずだ。


戸口の先の板敷きは、光が当たって白い。入ってきた者は、そこから上がって、戸口から三歩ほどのところへ膝をつくことになるらしかった。


そのうちに、外で人の動く気配がする。


一度に入るのではないらしい。声がかかると一人が入ってきて、しばらくして出ていく。そのあいだ、外では誰も喋らない。草履が板をこする音と、衣の擦れる音だけが、戸の向こうから届いた。


外はもう暑いはずだが、この部屋は床が冷たい。膝をついていると、そこからだけ熱が抜けていく。


蝉が鳴いている。日はもう高い。


はじめの男が入ってきた。


四十くらいだろうか。膝をついて、頭を下げる。足の甲まで日に焼けていた。


与三郎が名を聞く。男が答えた。聞いたことのない音だ。


悠人は聞こえたまま、ひらがなで書いた。知らない人名に字は当てない。


「いつ、着いた」


「三日になります」


「連れは」


「ひとりで参りました」


「請け合う者はおるか」


「おります」


「名は」


「まごじと申します」


「どこの者だ」


「川の手前で商いをしております。父の代から知っております」


悠人は紙の行を目で測った。一人に一行。名を先に置いて、そのあとへ請け合う者のことを書く。大宮のときも、水口のときも、そうしてきた。


与三郎が戸口の外へ短く言った。誰かが立って、板敷きを出ていく音がする。


そのあいだ、男は動かない。頭を下げたままでもなく、上げきってもいない。膝の上の手だけが、時々位置を変えた。


悠人は自分の紙へ目を落とす。書いた名の下は、まだ空いている。


使いは思ったより早く戻ってきた。後ろに、もう一人いる。


入ってきたのは、髪の白くなりかけた男だった。与三郎の前で膝をつく。


「まごじか」


「はい」


与三郎が、はじめの男の方へ目をやった。


「この者を、請け合うか」


「請け合います」


それだけだった。二人は同じ間にいたが、口をきかない。まごじが先に膝を引いて出ていき、少しあとで、はじめの男も出ていった。


入ってきてから出ていくまで、湯が沸くほどの間もなかったと思う。


悠人は、名を書いた行の続きへ書き足した。


【請人、まごじ。確認】


墨をつけ直した。思っていたより短く済んでいる。


一人出て、次が入るまでのあいだ、この部屋にいるのは与三郎と自分だけになる。戸口の先で、名らしいものが呼ばれた。返事があって、板が鳴る。


与三郎は自分の束から一枚抜いて、端に何か書き入れていた。目は自分の手元から動かない。


次の男が入ってくる。


若い。二十を出たばかりに見える。膝をついてから、手を膝の上で一度組み直した。


荷は持っていない。着ているものは汚れていないが、裾のあたりだけ色が変わっている。洗って乾かした跡らしい。


与三郎が同じ順で聞く。名を聞き、悠人が書く。


「いつ、着いた」


「十日ほどになります」


「どこにおる」


「宮の前の家に、置いていただいております」


「請け合う者はおるか」


「おります」


「名は」


「ごへえと申します」


「どこの者だ」


「宮の裏の方におると、聞いております」


「聞いておる、とは」


「まだ、会うてはおりませぬ」


「その者は、そのほうを知っておるか」


「知っておりましょう」


「たしかか」


男は答えない。膝の上の手が、もう一度組み直された。


与三郎が少し黙る。それから、また戸口の外へ言った。さっきと同じように、誰かが立っていく音がする。


待つことになった。


外の板敷きから、低い声が届く。二人いるらしい。途切れ途切れで、続きが取れない。


「……岡崎の……」


「……つまこは、まだこちらにおるそうな」


「さようか」


「……ならば、当分は……」


それきり、声は下がって聞き取れなくなる。


誰のことなのかは分からない。悠人は筆を持ち直した。


戸の隙間から入る光が、板の目を一つぶん動いている。日が回っている。


若い男は膝を崩さない。額のあたりが光っているが、拭わなかった。


与三郎は自分の束へ目を戻している。紙をめくる音が、時々するだけだ。


男が座ってから、もうずいぶんになる。呼びに行った者が戻れば済む話のはずだった。


蝉の声が、一度弱くなって、また戻る。


外を誰かが通った。板敷きの方ではなく、渡りの向こうだ。足音が遠ざかって、それきりになる。


墨が乾きはじめたので、筆の先だけ湿らせた。書くのは一行で足りる。けれど、その一行がまだ決まっていない。


使いが帰ってきたのは、さっきよりずいぶん遅かった。後ろには誰もいない。


「出ておるとのことにござります」


「戻りは」


「知れませぬ」


与三郎がうなずいた。


「よい」


それから、悠人の方へ首を回す。


「書け」


悠人は紙を見た。


名は分かっている。音もはっきり聞こえた。


けれど、ごへえ本人には会っていない。


まごじのときは、本人が来て、自分の口で請け合うと言った。


確かめた分と、確かめていない分は、離す。


【請人、ごへえ。未確認】


書き終えて、上から一度目で追う。


行の頭は詰まっている。墨は濃すぎない。「ごへえ」の三字は、聞こえたとおりの形になっていた。


筆を置く。それから、与三郎を見た。


「待ちますか」


「今日は、そこまでだ」


「はあ」


与三郎が手を伸ばしかけた。


その前で、男が動く。


顔を上げている。目は与三郎ではなく、悠人の手元へ向いていた。


「あの」


与三郎が男を見る。男は目を戻さない。


「なんと書かれますか」


悠人は与三郎を見た。


「読め」


紙を手前へ引いて、書いたとおりに読む。


「請人、ごへえ。未確認」


そこで口を閉じた。足すものはない。


男は、しばらく悠人の手元を見ていた。それから、膝の上へ目を戻す。


前にも、自分が答えたあとで、書き役の筆が動くのを見たことがある。あのころは、その字を一つも読めなかった。


男が頭を下げて、出ていく。


戸口の外は、まだ静かにならない。次の者がいるらしい。


悠人は指の腹を袖で拭いた。墨が薄く付いている。


与三郎が手を伸ばして、紙を引き寄せた。上から下へ目を通していく。


墨の乾きを指の背で確かめてから、二つ折りにする。


その紙が、束の中へ入っていく。


【請人、ごへえ。未確認】


与三郎は、そこを直さなかった。


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