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第50話 並べてみる

朝、塀の内側を回って戻る。肩を回して、腕を上げて、下ろす。このごろの決まりだった。


日が出て間もないうちから、空気はもう温い。土は乾いていて、足を置くたびに細かい埃が立つ。動くなら朝のうちになる。


戻りは、渡りの近くを通る道にしている。千代を見かける朝はあるが、たいてい誰かが一緒にいるか、何かを抱えて急いでいるかだった。


戻りの道で、足が止まった。


千代が一人で立っている。桶を提げていた。水場からの帰りらしい。


渡りの向こうにも、こちらにも、ほかに誰もいない。この時分は、まだ人が動き出していない。


千代が渡りの向こうへ目をやった。それから、こちら側にも目を向ける。


桶を下へ置いて、二歩ぶんだけ近づいてきた。


「高瀬さん」


「はい」


「あの、先に一ついいですか」


「はい」


「この前のこと、誰にも話してませんよね」


「言ってません」


「すみません、念のためです。私だけのことじゃないので。お仕えしてる方にも迷惑がかかります」


千代が息を吐いた。肩の高さが少し下がる。


ここへ来てから、人に何か言うときは、頭の中で一度こしらえてから口に出していた。この言い方は通らない、この語なら通る、短くする、順を入れ替える。話し終わるまで、その作業がずっと後ろで動いていた。


さっきから、それをしていない。思った順に出ている。


聞きたいことは、あの日からいくつも頭に残っている。


「千代さん。こっちに来たのは、いつですか」


「二年くらい前です」


「二年」


「じゃあ、桶狭間の前からこっちにいるんですね」


「はい、そうです」


「おれは、そのあとです。義元が討たれたって、みんなが言っていたころに」


千代の目が少し動いた。


「じゃあ、私の方が先ですね」


「みたいです」


自分が来たのは去年の夏だった。冬を越して、また夏になっている。千代は、それよりずっと前からここにいた。


そこで一度、話が切れた。


同じところにいるのだから、同じように来たのだと、どこかで思っていた。そうではないらしい。


桶の水が、朝の光を短く返している。千代は口を開かなかった。


「向こうでは、何年でしたか」


「二〇二五年です」


「……おれも」


「七月十日です。木曜日だったのを覚えてます」


音が、耳の中でもう一度鳴った。


七月十日。木曜。


その日のことなら、細かいところまで覚えている。夕方に予備校を出て、雨に降られながら帰った。日曜に模試があった。替え芯が切れていて、それを買いに出た。


ここへ来てから、あの晩のことは何度も順に思い出した。どこで曲がって、どこで水が流れていて、どのあたりで空が光ったか。並べ直すたびに、いつも同じところで途切れる。


その日付を、いま別の人間の口から聞いた。


「……同じ日だ」


千代がこちらを見た。


「同じ、ですか」


「おれもです。七月十日。木曜でした」


千代の手が、袖の端をつかんだまま止まった。


どこかで蝉が鳴きはじめた。まだ一匹だけだった。


千代が先に口を開く。


「どこにいましたか」


「富士です。富士市の、今泉ってところ」


「……名前は知ってます」


「そっちは」


「静岡です。静岡市」


千代の口元が、いつの間にか少し緩んでいた。自分も、たぶん似たような顔をしている。


同じ日に、同じところから消えたわけではなかった。


静岡市と、富士市。現代の町の名前が二つ、いま並んだ。


「その日、そっちはどんな天気でしたか」


「雨でした。夕方から降って、夜になっても止まなくて」


「雷は」


「鳴ってました。光って、すごい音がして」


「おれもです」


二人とも、雨と雷を覚えていた。


「私、学校の帰りだったんです。本屋に寄ってて」


「本屋」


「はい。参考書を買おうと思って入ったんですけど、好きな漫画もその日発売で、両方買うか迷ってて。とりあえず雑誌立ち読みしてから考えようって思ったら、思ったより時間たっちゃって。入ったときはそんなに降ってなかったのに、出たらもう、傘さしても意味ないくらいで。鞄の中まで濡れて、参考書まで濡れて、これ乾かすの大変だなって、そればっかり考えながら走ってて。そしたら道の先が急に白くなって、ちょっとして、すごい音がして。近いなって思って。でも私、それでも参考書のこと気にしてて――」


千代が止まった。


息を一つ吸う。


ずいぶん速く喋っていた。


「……すみません」


「え、何が」


「こんなふうに話すの、久しぶりで」


千代が笑おうとした。


その途中で、目の端から水が落ちた。


千代自身も気づいていなかったらしい。指で触れて、それを見てから、もう一度拭う。


「……なんで泣いてるんだろ」


悠人は、すぐには答えられなかった。


分かる気がした。


「分かります。本当に」


口にしてから、次がそのまま出た。


「おれも、こんなに何も考えないで喋るの、久しぶりで。言い方考えなくていいし、説明しなくても通じるし。そのまま言って分かってもらえるのが……なんか」


言葉を探した。


今度は、この時代の言葉を探しているわけではなかった。


「嬉しいです」


千代が、小さくうなずいた。


「はい」


少し置いてから、


「私もです」


「おれは、その日、予備校から帰って、家で勉強してたんです。浪人してて。日曜に模試があるのにシャーペンの芯が切れて、夜、コンビニに買いに出て。帰る途中でした」


千代が、今度はちゃんと笑った。


「千代さんは、どこで気がついたんですか」


悠人が聞いた。


「駿府です。この屋敷じゃなくて、お仕えしてる方の家が、駿府に持ってる屋敷の庭みたいなところで」


「庭」


「木の下で倒れてました。朝で、鳥が鳴いてて、最初は寝ぼけてるんだと思ったんです。起きようとしたら、着てるものが全部濡れてて」


「おれは水口です。ここから二日かかるところの、川原で」


「川原」


「家の前の道で倒れて、気がついたら草の上でした」


「じゃあ、遠くまで飛ばされたんですか」


「それが、遠くじゃないんです。あとで分かったんですけど、水口のあたりが、今の今泉なんです。おれが住んでたところの」


「……同じところ」


「同じ土地です。でも、同じ場所だったのかまでは分からないです」


「分からない?」


「道も川も全部違うから。家があったところが、こっちのどこなのかまでは分からなくて」


家の前の道と、あの川原。その二つが、覚えている今泉の上でどこまで重なるのかは、今も分からない。これだけ前の川と道を、そのまま重ねることはできなかった。


水口の川原へは、一度戻った。草を分けて、たぶんこのあたりだというところに立って、しばらくそうしていた。何も起きなかった。


「千代さんが参考書を買った本屋って、どのへんにあったんですか」


「静鉄の音羽町駅の近くです。本屋を出て、その辺を走ってました」


「音羽町。名前だけは」


「はい」


「じゃあ、こっちで目が覚めたところは」


「横田っていうところです」


「横田」


「今でいうと、音羽町駅のすぐ近くです。横田町ってあるんですけど」


「横田町は分からないな」


「ですよね。でも、駅の近くだから、そんなに離れてないと思います」


「じゃあ、千代さんも」


「はい。遠くへ飛ばされたわけじゃないのかも」


富士山の裾の伸び方も、左手の稜線も、覚えているものに近かった。そこまでで止まる。自分の家が建っていた場所が、あの土地のどこにあたるのかは、近くまで行って、立って、何度も見比べて、それでも分からなかった。


そこも、似ていた。けれど、どちらも、同じ場所だったのかまでは分からない。


蝉が増えた。塀の外の方でも鳴いている。日は塀の上まで上がっていた。


渡りの奥の方で、戸の開く音がした。千代がそちらへ目をやる。


千代が桶に手をかけた。すぐには持ち上げなかった。


「……もう戻らないと」


「はい」


持ち上げると、水が一度だけ揺れた。


千代が、こちらを見る。


「また、話してもいいですか」


「はい。おれも話したいです」


千代は膝を軽く折って、渡りの奥へ入っていく。土の上に、濡れた跡が短く残った。


板の間へ戻ると、まだ誰も来ていなかった。


戸を開けて、風を入れる。昨日のままの束が、石の下で少し波打っている。板の間は、まだ涼しい方だ。


膝をついて、束の端をそろえた。手は動いたが、頭の方は別のところにいる。


さっき聞いたことを、順に思い返した。


七月の十日。静岡と、富士。雨と、雷。横田の庭と、水口の川原。


並んだ。


並んだだけだった。


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