第49話 三河の束
朝、日が高くなる前に外へ出た。
熱を出して寝込んだあと、起きてからもしばらく体が戻らなかった。板の間まで歩いただけで膝が笑った日がある。
またあれになるのは困る。
それで、朝の仕事の前に少し歩くようになった。
屋敷の中を、門の見えるところまで行って、塀の内側を回って戻る。まだ人は少ない。すれ違うのは水を汲みに行く者くらいで、誰も何も言わない。
途中から歩幅を広げる。塀の角を二つ曲がるあいだだけ、走った。息が上がるところまでは行かない。
戻ってきて、肩を回す。腕を上げて、下ろす。脚を前へ出して、後ろへ引く。
一日座っていると、夕方には腰の下が固くなる。朝にこれだけやっておくと、少しましだった。
戻りは、渡りの近くを通る道にした。
奥へ続く方だ。人が動き出すころには、そちらから誰か出てくることがある。
千代を見かけることもあった。
けれど、一人でいるところを見たことはない。誰かと一緒だったり、何かを持って急いでいたりする。こちらを見ても、それで終わる。
奥でどんな仕事をしているのかも、まだよく知らない。誰と一緒にいて、いつなら手が空くのかも分からない。
それに、まだ何一つ聞けていない。どこから来たのかも、ここへ来たときのことも。
話したいことはいくらでもある。けれど、二人だけで話せる機会が、なかなか来ない。
今朝も、誰も出てこなかった。
井戸の脇で顔を洗って、板の間へ入る。
戸は開けたままにしてある。閉めると中の空気が動かなくなるので、風の入る側だけ開けておく。それでも背中に汗が滲んで、しばらくすると襟のあたりだけ冷たくなった。
紙が湿気を吸って、束の端が波打っている。墨の乾きも遅い。写した行の上へ手を置くと、指の腹に薄く付いた。
与三郎は自分の場所で、いつもどおり束の紐を解いている。
朝のうちに一つ目を終えて、二つ目に入った。
名を写して、折り目を数えて、読めないところは形だけ写して端へ寄せる。端の紙は、あとで与三郎がまとめて見る。
三枚になったところで、昼の椀が来た。
食べて、また座った。暑いと、椀の中身が減らない。半分ほど残して下げてもらう。
「与三郎殿。町へ、出てみたいのですが」
与三郎は顔を上げなかった。
「構わぬ。出るなら門で申せ。ひとり付けてもらえ」
「一人では、だめですか」
「まだな」
それだけだった。
客として屋敷に置かれるようになってから、飯や着る物とは別に、少しばかり銭も渡されるようになっていた。使うあてがなくて、ほとんど手をつけていない。そのうちのいくつかを懐へ入れた。
門で言うと、年かさの男が一人付いた。道を知っているらしく、先に立って歩き、角ごとに一度だけ振り返る。
日が高い。土の道は白く乾いていて、町屋の軒の下だけが暗い。並べて売っている物の前で足を止めると、男も止まった。瓜が積んである。
懐の銭を出して、一つ買った。いくつ渡せばいいのかは、横の男が教えてくれた。その場でかじると、水っぽくて、あまり甘くない。
こちらへ来てから、自分で選んで銭を払ったのは、それが初めてだった。
長くはいなかった。戻って門で男と別れ、板の間へ入る。与三郎は同じ姿勢で筆を動かしている。
しばらくして、渡りの方から足音がした。
顔を上げると、千代だった。
包みを持っている。目が合う。
「あの」
言いかけて、そこで止まった。
千代の目が、悠人から与三郎の方へ動いたからだ。
与三郎はこちらを見ていない。筆も止めていない。ただ、同じ部屋にいる。
千代は膝を折って、包みを与三郎の前へ置いた。
「奥より、お届けにござります」
「うむ」
それだけだった。
千代は膝を引いて、来た方へ戻っていく。渡りの角で、足音が聞こえなくなった。
悠人は筆を持ち直す。
与三郎が包みの紐をほどいて、中の紙を確かめている。それから、脇の別の束へ手を伸ばした。
紙の色が違う。折り目の入り方も違う。
三河から来るものだ。
与三郎は上から順に開いていく。途中で手を止めて、何枚かを抜いた。
抜いた分を、こちらへ回してくる。
「これも写せ」
「はあ」
それだけだった。何が書いてあるとも、どう扱えとも言わない。
与三郎はもう自分の紙へ目を戻している。
悠人は一枚目を手前へ引いた。
紙は薄い。折り目が三つ。畳まれていた形が、開いてもまだ残っている。
いつもの束と並べると、こちらの方が薄い。持ち上げると、向こうの光が透けた。
字も、いつもの束より小さい。
墨の色も違う。濃いところと薄いところが一枚の中で変わっていて、途中で継ぎ足したように見えるところがあった。
書いた者が違うのだから、そうなるのだろう。
名がいくつか並んでいる。読めるものと、読めないものがある。読めないものは形だけ写して、端へ寄せた。
端へ寄せた分は、あとで与三郎に聞く。
与三郎に聞くうちに、前には音しか知らなかった言葉にも字がついた。治部大輔。蔵人佐。
字が分かったところで、誰を指すのかまで分かるとは限らない。
字が小さいと、写す速さが落ちる。行の途中で目を離すと、どこまで書いたかがすぐには分からない。
一行ごとに元の紙へ目を戻して、それから自分の紙へ移した。
途中で、与三郎が手を伸ばしてきた。悠人の紙の一行を指す。
「ここは、間が空きすぎだ」
「はあ」
元の紙と見比べると、確かにこちらの方が広い。書き直そうとすると、与三郎が首を振った。
「そのままでよい。次から詰めよ」
言うだけ言って、自分の紙へ戻る。
そこから先は、行の頭を意識して置いた。
一枚目を写し終えて、二枚目を開く。
墨が薄くなってきた。磨り直しているあいだ、筆を置く。
写した分を、元の紙と並べて上から目で追った。
一つ、形が違っている。線の数は合っているが、右の払いの向きが逆になっていた。
その字だけ写し直す。書き足したところは、墨が濃く出る。
端へ寄せた紙が、四枚になっていた。
そのうちの一枚に、目が止まる。
一枚目で端へ寄せた形と、同じものだった。
紙が違う。書いた手も違うらしい。
悠人は二枚を見比べてから、与三郎を呼んだ。
「与三郎殿」
「なんだ」
「これは、何と読みますか」
与三郎が紙を見る。
「ふこうず、だ」
「ふこうず」
悠人はもう一度、その形を見た。
深い、の深。隣は、溝か。
深溝と書いて、ふこうず。
二枚を元の場所へ戻して、墨をつけ直す。
先を急がないほうがいい。急ぐと、形を写しているつもりで自分の字になる。前にそれで一度、与三郎に見せたときに首を振られた。
次の紙を開くと、紙の端が湿気で反っている。指で押さえても戻らないので、そのまま写す。
外で蝉が鳴いている。日が高い。板の間の奥まで光が入って、床の木目が白く浮いている。
汗が顎から落ちて、紙の隅に丸い染みを作る。慌てて袖で押さえたが、輪郭が残る。
与三郎の方を見た。気づいていない。
日が傾きはじめたころ、回された分を写し終えた。
端をそろえて、重ねる。
紙の色だけが、いつものものとは少し違っていた。




