↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/78

第48話 高瀬さん

朝から風が強い。


戸を開けておくと紙が動くので、板の間の戸は半分だけ閉めてある。それでも隙間から入ってきて、押さえの石を一つ足した。


束は昨日の続きだ。名を写して、折り目を数えて、読めないところは端へ寄せる。


同じ名が何度も出てくる束は、途中から手が覚える。三枚目からは、形を見ただけで筆が動いた。


昼を過ぎたころ、渡りの方から人が来て、与三郎を呼んだ。


与三郎は筆を置き、束の上へ紙を一枚かぶせてから出ていく。


「じきに戻る」


「はあ」


板の間に一人になった。


風の音のほかは、自分の筆の音だけになる。


しばらくして、また足音がした。


顔を上げると、戸口に千代が立っている。


包みを胸の前で持っていた。中を見て、こちらへ目を戻す。


悠人は筆を置かずに言った。


「与三郎殿は、じきに戻ります」


千代は小さくうなずいた。


「はい」


それから膝を折って、包みを板の上へ置いた。


そのまま、動かなかった。


渡す相手がいなければ、置いていくわけにもいかないのだろう。悠人は写しへ目を戻す。


風が鳴っている。紙の端が浮いて、石の下で止まった。


人が一人、動かずにいる気配は、背中の側でも分かる。何か言うべきかとも思ったが、言うことがない。


墨をつけ直した。次の名を書きかけて、筆先を紙へ下ろす。


「……未来に帰ろうとしたんですか」


筆が止まった。


意味が、先に入ってきた。


いつもなら、聞こえた音を頭の中でもう一度並べる。分かるところだけ拾って、抜けたところを前後から埋める。そこまでやって、やっと文になる。


その手順を使う前に、一文が丸ごと入っている。


――今、何て言った。


そう思ったのに、意味はもう分かっている。


指先が冷たくなっていた。筆を置くと、思ったより大きな音が鳴った。


顔を上げる。


千代はこちらを見ていた。目を逸らさない。


「高瀬さん」


悠人は口を開けたが、声が出なかった。


ここへ来てから、そう呼ばれたことはない。


「……今の」


千代が答えた。


「はい」


「今の、言い方」


千代は包みの端を指で押さえた。それから、戸の方を一度見る。


「私も、この時代の人じゃないんです」


言い直しも、迷いもなかった。


風がまた鳴って、紙が音を立てる。


私も。


その二文字が、少し遅れて引っかかった。


「……でも、なんで」


千代がこちらを見る。


「自転車の話を聞いてました」


その言い方も、この場所のものではなかった。屋敷では「ふたつ輪」で通っている。


「だから、高瀬さんもこの時代の人じゃないって、すぐ分かりました」


悠人は言葉を探したが、出てこない。


千代はもう一度、戸の外へ目をやった。渡りには誰もいない。


「このこと、誰にも言わないでください」


言い方は変わらないのに、そこだけ少し速かった。


「……言いません」


千代が一度うなずく。


「最初に目が覚めたところを、もう一度見に行ったって聞きました」


「どこで、それを」


「奥にも、いろいろ話は入ってくるんですよ。だから、帰ろうとしたのかなって」


言い切って、千代は少し黙った。


違ってはいなかった。


「……行きました」


千代がうなずく。それ以上は聞かなかった。


聞かないでいてくれた、というより、聞ける時間がないのだと分かった。廊下の音が一つすれば、この話は終わる。


悠人にも聞きたいことは、いくらでもあった。どこから来たのか。いつここへ来たのか。来たとき、何があったのか。


「千代さんは――」


そこまで言って、自分でその呼び方に引っかかった。


この人はさっき、この時代の人ではないと言った。


それなら、千代という名前は。


千代も、そこで一度目を伏せる。


「千代っていうのは、こっちで付けられた名前です」


千代の声は低かった。近くにいなければ、聞き取れない大きさだ。


「付けられた」


悠人は、その言葉を繰り返した。


板の上の包みを見る。


「じゃあ、本当の名前は」


悠人が聞いた。


「本当は、小林莉子っていいます」


小林莉子という名前の音が、意外なものに聞こえた。


「……え、いや、えっと」


何から聞けばいいのか分からなかった。


千代の肩が、少しだけ下がる。


「……あの」


悠人が言いかけたところで、渡りの向こうで板を踏む音がした。


千代は膝の前で手をそろえて、包みを両手で持ち直す。


「与三郎殿へ、奥よりお届けにござります」


声が、さっきまでとまるで違っていた。


高さも、間の取り方も、語尾も。切り替わったというより、元へ戻ったように聞こえた。


戸口に与三郎が現れて、板の間へ入ってくる。


「置いていけ」


「はい」


千代は包みを与三郎の前へ置き、膝を引いて、来た方へ戻っていった。


戸の外を通り過ぎる音が、渡りの角で聞こえなくなる。


与三郎は紐をほどいて、中の紙を確かめている。いつもと同じ手つきだ。


「風が入るな」


「はあ」


与三郎は石をもう一つ、紙の上へ置く。


それきり、自分の束へ戻る。


風は、まだ鳴っていた。


悠人は筆を持ち直す。


写しかけの行の、どこまで書いたのかが、すぐには分からなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。