第48話 高瀬さん
朝から風が強い。
戸を開けておくと紙が動くので、板の間の戸は半分だけ閉めてある。それでも隙間から入ってきて、押さえの石を一つ足した。
束は昨日の続きだ。名を写して、折り目を数えて、読めないところは端へ寄せる。
同じ名が何度も出てくる束は、途中から手が覚える。三枚目からは、形を見ただけで筆が動いた。
昼を過ぎたころ、渡りの方から人が来て、与三郎を呼んだ。
与三郎は筆を置き、束の上へ紙を一枚かぶせてから出ていく。
「じきに戻る」
「はあ」
板の間に一人になった。
風の音のほかは、自分の筆の音だけになる。
しばらくして、また足音がした。
顔を上げると、戸口に千代が立っている。
包みを胸の前で持っていた。中を見て、こちらへ目を戻す。
悠人は筆を置かずに言った。
「与三郎殿は、じきに戻ります」
千代は小さくうなずいた。
「はい」
それから膝を折って、包みを板の上へ置いた。
そのまま、動かなかった。
渡す相手がいなければ、置いていくわけにもいかないのだろう。悠人は写しへ目を戻す。
風が鳴っている。紙の端が浮いて、石の下で止まった。
人が一人、動かずにいる気配は、背中の側でも分かる。何か言うべきかとも思ったが、言うことがない。
墨をつけ直した。次の名を書きかけて、筆先を紙へ下ろす。
「……未来に帰ろうとしたんですか」
筆が止まった。
意味が、先に入ってきた。
いつもなら、聞こえた音を頭の中でもう一度並べる。分かるところだけ拾って、抜けたところを前後から埋める。そこまでやって、やっと文になる。
その手順を使う前に、一文が丸ごと入っている。
――今、何て言った。
そう思ったのに、意味はもう分かっている。
指先が冷たくなっていた。筆を置くと、思ったより大きな音が鳴った。
顔を上げる。
千代はこちらを見ていた。目を逸らさない。
「高瀬さん」
悠人は口を開けたが、声が出なかった。
ここへ来てから、そう呼ばれたことはない。
「……今の」
千代が答えた。
「はい」
「今の、言い方」
千代は包みの端を指で押さえた。それから、戸の方を一度見る。
「私も、この時代の人じゃないんです」
言い直しも、迷いもなかった。
風がまた鳴って、紙が音を立てる。
私も。
その二文字が、少し遅れて引っかかった。
「……でも、なんで」
千代がこちらを見る。
「自転車の話を聞いてました」
その言い方も、この場所のものではなかった。屋敷では「ふたつ輪」で通っている。
「だから、高瀬さんもこの時代の人じゃないって、すぐ分かりました」
悠人は言葉を探したが、出てこない。
千代はもう一度、戸の外へ目をやった。渡りには誰もいない。
「このこと、誰にも言わないでください」
言い方は変わらないのに、そこだけ少し速かった。
「……言いません」
千代が一度うなずく。
「最初に目が覚めたところを、もう一度見に行ったって聞きました」
「どこで、それを」
「奥にも、いろいろ話は入ってくるんですよ。だから、帰ろうとしたのかなって」
言い切って、千代は少し黙った。
違ってはいなかった。
「……行きました」
千代がうなずく。それ以上は聞かなかった。
聞かないでいてくれた、というより、聞ける時間がないのだと分かった。廊下の音が一つすれば、この話は終わる。
悠人にも聞きたいことは、いくらでもあった。どこから来たのか。いつここへ来たのか。来たとき、何があったのか。
「千代さんは――」
そこまで言って、自分でその呼び方に引っかかった。
この人はさっき、この時代の人ではないと言った。
それなら、千代という名前は。
千代も、そこで一度目を伏せる。
「千代っていうのは、こっちで付けられた名前です」
千代の声は低かった。近くにいなければ、聞き取れない大きさだ。
「付けられた」
悠人は、その言葉を繰り返した。
板の上の包みを見る。
「じゃあ、本当の名前は」
悠人が聞いた。
「本当は、小林莉子っていいます」
小林莉子という名前の音が、意外なものに聞こえた。
「……え、いや、えっと」
何から聞けばいいのか分からなかった。
千代の肩が、少しだけ下がる。
「……あの」
悠人が言いかけたところで、渡りの向こうで板を踏む音がした。
千代は膝の前で手をそろえて、包みを両手で持ち直す。
「与三郎殿へ、奥よりお届けにござります」
声が、さっきまでとまるで違っていた。
高さも、間の取り方も、語尾も。切り替わったというより、元へ戻ったように聞こえた。
戸口に与三郎が現れて、板の間へ入ってくる。
「置いていけ」
「はい」
千代は包みを与三郎の前へ置き、膝を引いて、来た方へ戻っていった。
戸の外を通り過ぎる音が、渡りの角で聞こえなくなる。
与三郎は紐をほどいて、中の紙を確かめている。いつもと同じ手つきだ。
「風が入るな」
「はあ」
与三郎は石をもう一つ、紙の上へ置く。
それきり、自分の束へ戻る。
風は、まだ鳴っていた。
悠人は筆を持ち直す。
写しかけの行の、どこまで書いたのかが、すぐには分からなかった。




