第47話 留守のあいだ
朝、いつもの刻に目が覚めた。
敷物の位置も、天井の梁の影も、出る前と同じところにある。
顔を洗って、板の間へ行った。
いつもの場所に、束が積んであった。
三つに分けて、紐で括ってある。いつも置かれているものより厚い。いちばん上の一つだけ、こちらへ寄せてある。
与三郎はもう座っている。硯も出ている。
「寺から、届いたと申してきた」
「はあ」
与三郎はそれきり自分の束の紐を解いて、上から順に開いていく。
悠人は硯を出した。水を差して、墨を磨る。
指が固い。六日、筆を持っていなかった。
一枚目を開く。
見たことのある名が二つ、知らない名が二つ。知らない方は形だけ写して、端へ寄せておく。
墨の乗りが悪い。磨り足りないらしい。もう少し磨ってから、また筆を下ろした。
二枚目、三枚目と進むうちに、手の速さが戻ってくる。
四枚目で止まった。
「与三郎殿」
「なんだ」
紙の端を指す。
「ここが、読めません」
与三郎が首を伸ばして、そこを見る。
「同じ名だ。二つ前の紙にもある」
戻って見ると、確かに同じ形があった。前は読めていた字だ。今日は、一度で取れなかった。
墨をつけ直して、続きを写す。
束の下の方に、出る前の日に途中まで写したものが混じっていた。行の途中で切れている。そこから先を、そのまま続けた。
自分の字だ。並べてみると、今日書いている分より少し詰まっている。急いでいたわけではない。ただ、そう見えた。
端へ寄せた紙が、三枚になった。読めない名は、あとで与三郎がまとめて見る。
外は明るい。渡りの向こうで、水を撒く音がしている。誰かが桶を置いて、また持ち上げた。
昼までに、寄せてあった束が半分になる。
椀が来て、食べて、また座った。板の間の空気が、朝より重い。日が入って、床が温くなっている。
肩を回すと、背中が一つ鳴った。歩いた分が、まだ残っているらしい。
午後になって、別の者が束を運んできた。
いつも与三郎が置く場所ではなく、その隣へ積んでいく。積み終えると、そのまま出ていく。
与三郎はそちらを先に開いた。
紙の色が違う。折り目の入り方も違う。前に一度、同じものを見たことがある。
三河から来るものだ。
与三郎は上から三枚を抜いて、脇へ寄せる。残りはそのまま束へ戻した。
悠人は自分の分へ目を戻す。
戸を開けたままの向こうを、人が通った。
奥の方から、渡りの方へ。
千代だった。
包みを胸の前で持っている。そのまま通り過ぎて、渡りの角で見えなくなった。
板の間には、筆の音と、紙を送る音だけが残る。
日が傾きはじめたころ、写し終えた分を与三郎がまとめた。
端をそろえて、紐を掛ける。
床の色が変わりはじめている。
しばらくして、足音が来た。
源左衛門だ。
「高瀬、参れ」
「はあ」
筆を置いて、立つ。与三郎は手を止めない。
廊下を進んだ。角を二つ曲がる。前に通されたことのある部屋だった。
この刻の廊下は、朝より暗い。板の継ぎ目が見えにくくなっていて、足が少し慎重になる。すれ違った者が一人いて、脇へ寄って通した。
戸の前で源左衛門が止まり、一度、中へ声をかけた。それから開ける。
灯りはまだ入っていない。障子越しの明るさだけで足りている。
氏真は紙を見ていた。膝の前に何枚か重ねてあった。
悠人は戸のそばに座る。
板の音が止まって、部屋が静かになる。外の鳥の声が、ここまで届いていた。
氏真が顔を上げる。
「戻ったか」
「はあ」
「見てきたか」
「はあ」
「分かったか」
すぐには答えられなかった。
「……だいたいのところは」
「だいたい」
「家のあった場所は、分かりませんでした」
「何ゆえ」
「おれの知っている道が、ありませんでした」
少し間が空いた。
「前には、道はあると申したな」
「……はあ」
あのときは、まだ行っていなかった。
「あると、思っていました」
氏真は紙へ目を戻さなかった。
「おれのいたころは、家の前に道があって、家が並んでいました。曲がるところで、何軒目かを覚えていました」
「今は」
「田と、畦と、林でした」
氏真は何も言わない。
「覚えているものが、何もありませんでした」
「そなたのころは、田はなかったか」
「おれの家の前は、道でした。向かいにも家がありました」
戸の外を誰かが通っていく。足音が遠ざかるまで、部屋は静かだった。
「富士は」
「富士は、同じでした」
氏真の目が、少しだけ動く。
「同じか」
「はあ。見え方が、覚えているのと近かったです」
それきりだった。
氏真は一度うなずいて、目を紙へ戻す。一枚めくって、その端を指で押さえる。
源左衛門が戸を開ける。悠人も立って、そのあとに続いた。
廊下を戻る。角を二つ、来たときと逆に曲がる。
渡りの手前で源左衛門が別の方へ折れて、そこからは一人で戻る。
板の間へ戻ると、中はもう薄暗かった。
与三郎は顔を近づけて書いていた。悠人も座って、残りの分を写す。知らない名は、今日も端へ寄せたままだ。
暗くなる前に、硯を洗った。筆を揃えて、水を捨てに出る。
外の空気が、朝より冷たくなっている。庭の隅は、もう形がぼやけていた。
朝、水を撒いていたあたりの土が、まだ濃い色をしている。
戻ると、与三郎が束を一つ、机の端へ寄せていた。
「これは、明日だ」




