↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
47/77

第47話 留守のあいだ

朝、いつもの刻に目が覚めた。


敷物の位置も、天井の梁の影も、出る前と同じところにある。


顔を洗って、板の間へ行った。


いつもの場所に、束が積んであった。


三つに分けて、紐で括ってある。いつも置かれているものより厚い。いちばん上の一つだけ、こちらへ寄せてある。


与三郎はもう座っている。硯も出ている。


「寺から、届いたと申してきた」


「はあ」


与三郎はそれきり自分の束の紐を解いて、上から順に開いていく。


悠人は硯を出した。水を差して、墨を磨る。


指が固い。六日、筆を持っていなかった。


一枚目を開く。


見たことのある名が二つ、知らない名が二つ。知らない方は形だけ写して、端へ寄せておく。


墨の乗りが悪い。磨り足りないらしい。もう少し磨ってから、また筆を下ろした。


二枚目、三枚目と進むうちに、手の速さが戻ってくる。


四枚目で止まった。


「与三郎殿」


「なんだ」


紙の端を指す。


「ここが、読めません」


与三郎が首を伸ばして、そこを見る。


「同じ名だ。二つ前の紙にもある」


戻って見ると、確かに同じ形があった。前は読めていた字だ。今日は、一度で取れなかった。


墨をつけ直して、続きを写す。


束の下の方に、出る前の日に途中まで写したものが混じっていた。行の途中で切れている。そこから先を、そのまま続けた。


自分の字だ。並べてみると、今日書いている分より少し詰まっている。急いでいたわけではない。ただ、そう見えた。


端へ寄せた紙が、三枚になった。読めない名は、あとで与三郎がまとめて見る。


外は明るい。渡りの向こうで、水を撒く音がしている。誰かが桶を置いて、また持ち上げた。


昼までに、寄せてあった束が半分になる。


椀が来て、食べて、また座った。板の間の空気が、朝より重い。日が入って、床が温くなっている。


肩を回すと、背中が一つ鳴った。歩いた分が、まだ残っているらしい。


午後になって、別の者が束を運んできた。


いつも与三郎が置く場所ではなく、その隣へ積んでいく。積み終えると、そのまま出ていく。


与三郎はそちらを先に開いた。


紙の色が違う。折り目の入り方も違う。前に一度、同じものを見たことがある。


三河から来るものだ。


与三郎は上から三枚を抜いて、脇へ寄せる。残りはそのまま束へ戻した。


悠人は自分の分へ目を戻す。


戸を開けたままの向こうを、人が通った。


奥の方から、渡りの方へ。


千代だった。


包みを胸の前で持っている。そのまま通り過ぎて、渡りの角で見えなくなった。


板の間には、筆の音と、紙を送る音だけが残る。


日が傾きはじめたころ、写し終えた分を与三郎がまとめた。


端をそろえて、紐を掛ける。


床の色が変わりはじめている。


しばらくして、足音が来た。


源左衛門だ。


「高瀬、参れ」


「はあ」


筆を置いて、立つ。与三郎は手を止めない。


廊下を進んだ。角を二つ曲がる。前に通されたことのある部屋だった。


この刻の廊下は、朝より暗い。板の継ぎ目が見えにくくなっていて、足が少し慎重になる。すれ違った者が一人いて、脇へ寄って通した。


戸の前で源左衛門が止まり、一度、中へ声をかけた。それから開ける。


灯りはまだ入っていない。障子越しの明るさだけで足りている。


氏真は紙を見ていた。膝の前に何枚か重ねてあった。


悠人は戸のそばに座る。


板の音が止まって、部屋が静かになる。外の鳥の声が、ここまで届いていた。


氏真が顔を上げる。


「戻ったか」


「はあ」


「見てきたか」


「はあ」


「分かったか」


すぐには答えられなかった。


「……だいたいのところは」


「だいたい」


「家のあった場所は、分かりませんでした」


「何ゆえ」


「おれの知っている道が、ありませんでした」


少し間が空いた。


「前には、道はあると申したな」


「……はあ」


あのときは、まだ行っていなかった。


「あると、思っていました」


氏真は紙へ目を戻さなかった。


「おれのいたころは、家の前に道があって、家が並んでいました。曲がるところで、何軒目かを覚えていました」


「今は」


「田と、畦と、林でした」


氏真は何も言わない。


「覚えているものが、何もありませんでした」


「そなたのころは、田はなかったか」


「おれの家の前は、道でした。向かいにも家がありました」


戸の外を誰かが通っていく。足音が遠ざかるまで、部屋は静かだった。


「富士は」


「富士は、同じでした」


氏真の目が、少しだけ動く。


「同じか」


「はあ。見え方が、覚えているのと近かったです」


それきりだった。


氏真は一度うなずいて、目を紙へ戻す。一枚めくって、その端を指で押さえる。


源左衛門が戸を開ける。悠人も立って、そのあとに続いた。


廊下を戻る。角を二つ、来たときと逆に曲がる。


渡りの手前で源左衛門が別の方へ折れて、そこからは一人で戻る。


板の間へ戻ると、中はもう薄暗かった。


与三郎は顔を近づけて書いていた。悠人も座って、残りの分を写す。知らない名は、今日も端へ寄せたままだ。


暗くなる前に、硯を洗った。筆を揃えて、水を捨てに出る。


外の空気が、朝より冷たくなっている。庭の隅は、もう形がぼやけていた。


朝、水を撒いていたあたりの土が、まだ濃い色をしている。


戻ると、与三郎が束を一つ、机の端へ寄せていた。


「これは、明日だ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。