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第46話 上りの先

川原から戻ると、日はもう落ちていた。


飯を食って、納屋の隅へ横になる。前にここにいたころ、寝ていたのと同じ場所だ。板の並びも、天井の低さも変わっていない。


歩いた分の重さが、寝る前に一度に来た。目を閉じてすぐ、音が遠くなる。


外で戸が閉まる音がして、それから静かになった。


目が覚めたのは、音のせいだった。


低いところで一度鳴って、少し置いて、もう一度。二度目は前より近い。


板の隙間が、一瞬だけ白くなる。


雨も来ていた。屋根に当たる音が、途切れずに続いている。


しばらく、そのまま聞いていた。


三度目が鳴って、体が起きる。


戸を引くと、雨が横から入ってきた。外は暗い。庭の形も分からない。


草鞋を履く。紐を締める手が、思ったより急いでいた。


出た。


雨は冷たくない。降り方が強くて、顔を上げていられない。


昼に通った方へ歩く。家の前の道までは分かる。そこから先が分からなくなった。


足の裏で探るように進んだ。土が柔らかい。水が草鞋の縁を越えて、そのまま中に入ってくる。


どこを歩いているのか、途中で分からなくなる。昼は新六の背中を見て歩いていた。曲がったところも、林を回ったところも、道として覚えていない。


足を止めて、耳を澄ませた。雨の音の下に、別の音がある。低くて、続いている。どこかで水が動いている音だ。


光った。


一瞬だけ、前が見えた。田の縁。林の黒い塊。その手前の、低いところ。


新六が指したのは、あのあたりだ。


そっちは、水が出る。雨のあとだ。


光ってから、数えた。


一、二、三、四。


音が来る。腹に響いた。


また光る。


低いところが、さっきより広く見えた。草の先だけが水の上に出ている。そこから手前へ、水が伸びてきていた。


昼に歩いた踏み跡のところまで、水が来ている。


止まった。


次に光ったとき、踏み跡の先が水の中へ消えていた。


その先が、どこへ続いているのか見えない。


草鞋の中はもう水で、足の指の感覚が鈍くなっていた。


来た道を戻った。


来た道は、行きよりも分かりにくい。暗い中を、地面の傾きだけを頼りに下った。それらしい形に出たのは、二度光ったあとだ。


軒の下に立って、雨を見る。


遠くで光って、少しして音が来た。


――今から? 雷、鳴ってるでしょう。


玄関で靴を履いていたときの、母の声だった。


屋根の端から、水が線になって落ちている。落ちたところの土がへこんで、そこにも水が溜まっている。


体が濡れて、じっとしていると寒い。それでも、そこを動かなかった。


庭の水が、少しずつ広がっていく。低いところから先に埋まって、石の頭だけが残る。


雨が細くなったころ、納屋へ戻る。


朝、雨は上がっていた。


庭に水が残っている。踏むと、下から泥が上がってきた。


弥兵衛は縁に出てきて、空を一度見上げ、それだけで奥へ入る。


朝のうちに、新六が来た。今日は籠を担いでいない。


「昨夜は降ったな」


「うん」


夜のことは言わなかった。


「新六」


「なんだ」


「今日も、連れて行ってほしいところがある」


「川原か」


「違う」


どう言えばいいのか、少し考えた。


「善得寺の方へ下りて、それから上がるところ。上がって、少し行った先」


新六が眉を寄せる。


「何がある」


「分からない。行ってみたい」


新六は一度、善得寺の方を見た。それから草鞋の紐を締め直して、先に歩き出す。


道を下って、途中で折れる。


昨夜の雨で、道はところどころ削れていた。低いところには水が残っていて、そこだけ避けて歩く。


田では、もう人が出ている。畦の崩れたところへ土を戻している者。水の口を見に行く者。誰も、こちらを見なかった。


上りに入る。


緩い。息が上がるほどではない。前に善得寺から見上げたときも、緩い上りに見えていた。


上がりきったあたりで、悠人は足を止める。


振り返った。


下の方に、寺の屋根が見えた。あそこから、こちらを見ていたことがある。あのときは、この上りの先に家があったはずだと思っただけで、来られなかった。


今は、その上りの先に立っている。


富士山が右手にあった。裾が、思っていたより長く伸びている。左の方に、愛鷹山の稜線。二つのあいだの空きが、覚えている見え方に近い。


水は、南の方へ落ちていく。


俺の家は、このあたりのはずだ。


だが、そこから先が分からない。


田がある。畦がある。林がある。


こんな景色だった覚えがない。


……どこに建っていたんだ。


自分の時代なら、迷いようがなかった。道があって、家が並んでいて、曲がる角は決まっている。どこで曲がって、そこから何軒目かも、考えずに分かった。


家の前は細い道で、向かいにも家があった。塀の高さも、郵便受けの位置も覚えている。玄関の前の一段が、ほかより高かったことも。


覚えているのは、そういうものばかりだ。


その道が、ここにはない。


地面の傾きには、どことなく覚えがある。山の見え方も近い。


それだけだった。


少し歩いてみた。


上の方は林で、木のあいだに入ると山が隠れる。戻ると、また同じ見え方になる。


覚えているものは、何も出てこない。


少し先の田に、人がいた。


腰を曲げて、水の中へ手を入れている。顔を上げて、悠人と新六を見た。


それから、また水へ手を入れる。


悠人は何も言わなかった。


林の手前で、道が曲がっている。


前に寺から見たときも、林の手前で曲がっているのが見えた。同じ曲がりだ。


それが分かったところで、何も進まなかった。


その先も、その手前も、歩いたことがない。


日が高くなってきた。新六は少し離れたところで待っている。急かしてはこない。


もう一度、あたりを見た。


田と、畦と、林。


鍵は、駿府にある。


「戻るか」


新六の声だった。


「うん」


来た道を下る。上りのときより足が出た。新六は前を歩いて、途中で二度、水の残っているところを避けた。


中村の家の前まで来ると、庭に荷が置いてあった。


見覚えのある荷だ。


縁の端に藤次郎が座って、草鞋の紐を解いている。足の裏が泥で黒い。


「済んだか」


「はあ」


「こちらも済んだ」


藤次郎は解いた紐を膝の上でそろえて、そのまま横へ置いた。


「明朝、発つ」


「はあ」


大宮で何を見てきたのかは、言わなかった。悠人も、この二日のことを言わなかった。


翌朝、まだ暗いうちに草鞋を履いた。


弥兵衛が縁へ出てくる。上から下まで一度見て、それだけだ。


「達者でな」


そう言うと、もう奥を向いていた。


道へ出たところで、畦の上に新六が立っていた。


こちらを見て、片手を上げる。


悠人も上げた。


歩き出すと、すぐに見えなくなった。


道筋は、来たときと同じだ。


低いところの水はだいぶ引いていて、通れないところはなかった。前の日の雨で崩れた畦を直している者が、あちこちにいる。


昼を過ぎて川を渡った。舟の揺れ方も、行きと変わらない。


その夜は蒲原で泊まった。行きにも泊まった家だ。


板の間の隅は、行きと同じところが空いていた。藤次郎は先に横になって、すぐ静かになる。


翌日も歩いた。


右に山、左に海。道が細くなるところも、また出てくる。次に何があるかは、もう分かっている。


藤次郎の足は変わらない。悠人も遅れなかった。


六日目の夕方、駿府へ戻った。


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