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第45話 同じ川原

熱が抜けてから三日、外へは出ていない。


朝になれば板の間へ行って、紙を写す。日が暮れたら戻る。熱の前と同じだ。


四日目の朝、墨を磨る手が止まった。


言おうとして、一度やめている。昨日も同じところでやめた。


隣へ目をやる。


「与三郎殿」


「なんだ」


「水口へ、行きたいです」


与三郎の筆が止まった。顔は上げない。


「何をしに」


「はじめに、目が覚めたところを、もう一度見たいです」


与三郎はしばらく何も言わなかった。それから筆を置いて、穂先を硯の縁へ当てた。


「わしでは決められぬ」


「はあ」


「上へ申す」


「お願いします」


与三郎はまた筆を取って、続きを書きはじめた。


自分の用で、行きたい場所を言ったのは初めてだった。


これまでは、行けと言われて行った。大宮も、水口も、善得寺もそうだ。どこへ行くかを自分で言ったことは、一度もない。


与三郎が、誰へ申すのかも知らなかった。その先、誰を通るのかも分からない。


分からないものへ向けて、言葉だけが先に行った。


三日、何も言われなかった。


朝になれば板の間へ行って、束の上から順に写す。読めない字は端へ避けておいて、与三郎の手が空いたときに聞く。昼を挟んで、また写す。暮れる前に硯を洗い、筆を揃えて置く。


二日目も、三日目も同じだった。与三郎の様子も変わらない。束を分けて、こちらへ回す。読み方を聞けば、前と同じ短さで答える。


こちらからできることは、何もない。言ったのは自分だが、そのあとは自分の手を離れている。


四日目の朝に、呼ばれた。


渡りを抜けて、上へ上がる。通されたのは、紙の多い部屋だった。前と同じで、人は三人いる。二人は自分の手元を見たままだ。


水口へ行けと言った男が、束を膝に置いて顔を上げた。名は今も知らない。


「高瀬。明日、善得寺へ参れ」


「はあ」


男が、そばに置いてある包みへ目をやった。


「これを善得寺へ届けよ」


「はあ」


「明日の朝、藤次郎が大宮へ発つ。道の分かれるところまでは、ともに行け」


「はあ」


「寺の用が済めば、水口へ寄ってよい」


「……はあ」


「用が済めば、藤次郎が中村の家へ寄る。そこから一緒に帰れ」


「はあ」


「六日で戻れ」


どれも短かった。大宮へ行けと言われたときと、同じ長さだ。


男が脇の者へ、続けて何か言った。


書き役が控えを開いて、一行書き足す。何と書いたのかは、こちらからは見えなかった。


礼を言おうとして、口の中で止まった。男はもう膝の束へ目を戻している。


板の間へ戻ると、与三郎はいつもの場所で束を開いていた。悠人が座っても、手を止めない。


その日も、暮れるまで紙を写す。


翌朝、渡りで包みを渡された。


昨日そばに置いてあったときより、厚く見えた。括った紙の束が二つ、布で巻いて縄を掛けてある。背負うと、いつもの荷より重かった。


門に藤次郎が立っていた。藤次郎の荷も前より大きい。


「六日だな」


「はあ」


藤次郎は頷いて、歩き出した。


道は二日かかる。


前から来る者と何度もすれ違った。荷を負った者。牛を引く者。空の籠を担いだ者。脇へ寄って行き過ぎるのに、もう間が要らない。縄が肩へ食い込むので、時々、位置を直した。


昼を過ぎて、左に山が迫り、右が海になった。道が細くなって、波の音が近い。


前に、初めてこの道を通ったときは、どこを歩いているのかも分からなかった。今は、次の曲がりの先に何があるかが分かる。


日が落ちる前に、道が下って家並みへ入った。見覚えのある一軒が、道の先にある。


藤次郎が足を止めるより先に、悠人はそちらへ体を向けていた。前に泊まった家だ。


藤次郎は先に草鞋を脱いで、板へ座り、荷を解く。悠人は包みを板の上へ置いて、その脇に座った。土間には下ろさない。飯が出るまで、二人ともそこにいた。


次の日は、暗いうちに出る。


川を渡る舟では、水の面がすぐそばにあった。前に渡ったときは、舟縁から手を離さなかった。今度は、乗る前から手を掛けるところを見ていた。包みは膝へ乗せて、両手で押さえた。


昼過ぎに、道が分かれるところへ来た。


藤次郎が足を止める。


「ここからは、別だ」


「はあ」


「明後日、中村の家へ寄る。そこで落ち合う」


「はあ」


藤次郎は荷を背負い直して、北の道へ入っていった。


その足で、善得寺へ回る。


門をくぐって、前に通された建物の脇で待った。しばらくして、若い僧が出てくる。


縄をほどいて、布を開く。束を二つ、板の上へ並べた。


僧は上の束の端をめくり、下の束も同じようにする。それから短く何か言って、二つとも抱えて中へ入っていく。


用は、それで終わった。


何が書いてあったのかは、知らない。


外へ出るころには、日はもう低い。


その夜は、寺に泊まった。


翌朝、水口へ向かった。


畦の草が伸びている。田には水が入って、苗の先が水の上へ出ていた。前に来たときは、まだ乾いていたところだ。


歩いている者は少ない。この刻限は、みな田にいる。


道が二つに分かれて、右が上の田へ上がっていく。中村の家は左だ。考えるより先に、足がそちらへ向いた。


中村の家の垣は、崩れているところが前と同じ形で残っている。


門をくぐると、弥兵衛が縁へ出てきて、悠人を上から下まで一度見た。


「痩せたな」


「はあ」


「今宵は泊まっていけ」


それだけ言って、奥へ戻った。


家の裏で新六に会った。籠を担いでいる。


「また戻ったのか」


「うん」


新六が籠を下ろして、紐から手を離した。


「今度は、幾日いる」


「二日」


「短いな」


「うん」


「駿府の者は、忙しいのだな」


新六が笑った。悠人も少し笑って、それから言った。


「川原へ行きたい」


新六が顔を上げる。


「川原」


「うん。はじめに、目が覚めたところ」


新六はしばらく籠を見ていた。それから、道の方を顎で示した。


「行くか」


新六が先を歩いた。悠人がついていく。


田の縁を抜けて、林の切れ目を回る。道に見えないところを、何度か通った。草の中に踏まれた跡があるのは、通ったあとで振り返って分かる。新六の足は、そこで速くも遅くもならない。


「そっちは、水が出る」


新六が左を指した。指した先は、悠人には草地にしか見えない。


「今もか」


「雨のあとだ」


水口にいたころ、この道を歩いた覚えはなかった。あのときは、たぶん反対の側から連れて来られたのだと思う。


水の音が先に来た。


草を分けたところで、川原に出た。


土手は草が生えたまま、崩れた形で水際まで続いている。護岸はない。橋もない。そこは、覚えているとおりだ。


草の丈が違った。腰の高さまで伸びて、先の方が乾いた色をしている。水も少ない。石の出ているところが増えていた。


晴れていた。あのときは、霧が出ていた。


悠人は草を分けて、水際の手前まで出る。


このあたりだ。


ただ、草の伸び方が変わっているせいで、どこに寝ていたのかは、はっきりしない。石の並びを見て、たぶんこのあたりだと思うだけだ。


それでも、もう、このあたりだとしか言えない。


ここで目を覚ました。


だが、倒れたのは、家の手前の道だ。


目が覚めたのが、ここだった。


立ったまま、しばらくそうしていた。


川の音がしている。上の方で鳥が鳴いて、それきり静かになった。風が来て、草が一度に傾く。足の下は乾いた土だ。


二歩、水際へ寄る。それから戻って、また同じところへ立った。


何も起きなかった。


自分が何をすればいいのかは、来る前から分かっていない。ここへ立てば何かが分かるのかもしれないと思っていた。立ってみると、ただの川原だ。


水が石の周りを回っている。同じ石で、同じ形に割れて、同じところで合わさる。それがずっと続いていた。


対岸の草が、風の来る順に倒れて、戻る。しばらくしてまた来て、また戻る。


川上から枝が一本流れてきて、石に当たって向きを変え、そのまま下っていく。


腕を組んで、ほどいた。もう一度組んだ。片足に寄っていた体重を、もう片方へ移す。


遠くで、田を打つ音がしている。人の声も混じるが、言葉までは届かない。


日が動いて、足元の影が少しずつ伸びる。


振り返ると、さっきまで立っていた新六が、草の上に座っている。


「何をしている」


新六の声だった。


「待ってる」


「何を」


「……分からない」


新六は「そうか」と言って、足元の草をむしりはじめた。


日が傾く。


土手の草の影が、川の方へ長く伸びている。水の光る場所が、さっきより川上へ寄っていた。


悠人は空を見上げた。


つられたのか、新六も顔を上げる。それから、腰を伸ばす。


「今日は降らぬ」


あの夜は、雷が鳴っていた。


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