11.アドリア海の月(3)
900年前、クロアチア。
有翼人の村のはずれの井戸小屋。
◇
「あーもう何往復もするのしんどいわー。」
ブツクサと文句を言いながらやってきたのは、カイラ。村のはずれの井戸小屋に着くと、戸を開けて中に入る。まだブツクサ言いながら、井戸から水を汲む。そして大きな桶へと入れる。
「喉乾いたわ。」
カイラ、汲んだ水を掬って飲む。
そして、ふと思いつく。
「……飛べばいいのよね。」
でも、桶の水が一杯だと、飛んだら溢れるわね。だったら、溢れない程度に桶の水を減らそう。一回ずつの水は減るけど、でも歩くより早く往復できるから、飛んだ方が効率的よね。
よし、そうしよう。
カイラ、桶の水を少し井戸に戻して、桶の水位を下げることにした。
「翼あるものは幸いなり、ってね。」
桶から井戸に水を戻す。
うん、これくらいなら飛んでも溢れないわね。
……………………
それきり、村でカイラの姿を見たものはいなかった。
◇
ここは現代の東京・新宿二丁目。
オカマバー「アコーリス」の店内。
あいつが店に来た。
マスターに目配せをする。マスター、にっこり笑って親指を立てる。
「いらっしゃいませ。」
マスター、今来たあいつにお冷やを出す。中身はカイラが転移した時に持っていた桶の井戸水だ。
あいつがお冷やを飲んだのを確認したカイラ、自分もお冷やの水を飲むと、マスターにこっそり作戦開始の合図を送る。
◇
「あちらのお客様からです。」
普通はこんな事しても店に断られるんだけど(笑)、今回はこういう作戦だから。ちなみに発案者はカイラちゃんよ。
驚くあいつに、手のひらでカイラちゃんの席を指し示す。カイラちゃん軽く会釈。あいつも釣られて会釈。よし、つかみはOKよ。
カイラちゃん、席を移ってあいつの横に座る。
「貴方、ネロでしょ?」
また驚くあいつに、カイラちゃんが畳み掛ける。
「花代取りに来る奴が影武者だって事くらいわかるわよ。新宿の新しい帝王にご挨拶させて。カイラっていうの。『黒松の会』の世話役よ。」
カイラちゃん、いつも通り店の中では大きな黒い翼を出したままだから、「黒松の会」の有翼人だってことは丸わかり。要は裏切り者ってことになる。
あいつは表には出ないつもりみたいだけど、でもあいつだって、今回の襲撃作戦で二丁目を手に入れたって言う証拠のトロフィーが欲しいはず。
若くて美人の有翼人の女、それも「黒松の会」のもう一人の世話役を手に入れれば、これ以上ないご褒美のトロフィーよね。乗ってこい。
「よく分かったな。あんたの言う通り、俺がネロだよ。」
乗ってきた。
そのあと暫く、あいつはカイラちゃんと話し込んだ。
◇
「いい事しましょ?」
カイラちゃん、ネロを誘ってトイレへ行く。私は見て見ぬふりをする。上手くやるのよ。
◇
カイラ、バッグから井戸水の入った小さな皮袋を取り出す。
「何だよそれ?」
「水よ。私達有翼人のお守りみたいなもの。でももう要らないから、ここに捨ててくわ。」
「いいのか?」
「いいのよ。これからはあんたがお守りになって。」
「翼あるものは幸いなり。」
カイラはそう言って、皮袋の水をトイレに流した。
……………………
カイラがトイレのドアを開けた。
「おいまだ何も…………」
そこは「アコーリス」の店内ではなかった。
夕闇の中に広がる草原。トイレはいつの間にか石造りの小屋に変わっていた。中には古い井戸があった。
小屋の向こうには、幾つかの人家の明かりが見える。空には月が出ていた。
カイラがネロの背後に回り、掌をネロの胸に回して抱きつく。
「海へ行きましょう。」
そう言うと、カイラはネロの胸に回した手を伸ばし、首の後ろに回して組むと、ネロを羽交締めにした。
バァン!
大きな音を立てて、カイラは黒い翼を羽ばたかせると、空へ舞い上がった。
西へ向かってカイラは飛ぶ。台地を降り、港を過ぎて、やがてアドリア海の上空へ差し掛かる。
「この高さから落ちれば、水はコンクリートと同じ。あんたは一瞬でバラバラになるわ。」
羽交締めされたネロは抵抗出来ない。声すら出せないまま、怯えた眼差しで眼下の海を見ていた。
「さよなら。いつかの時代に生まれ変わったらまたおいで、アドリア海へ。今度は真面目に生きるのよ。」
カイラが手を離す。
月の光に照らされて、眼下の海に、小さく水飛沫が上がるのがぼんやりと見えた。
◇
「さあ、帰らなきゃね。」
ひと気のない桟橋に降り立ったカイラは、翼を仕舞うと、港町へ出て、海沿いの道を西へと歩き始めた。




