第8話 連盟 最恐テクニカルコントローラーと襲いくる暴風
沈んだ顔で黙り込んでいる尾堂の肩を、デリクは肉付きの良い手のひらで軽く叩いた。
そして勢いよく椅子から立ち上がり、再びおやつ満載のコンビニ袋を手に取った。
「じゃ、この件について開発チームと話し合ってくるわ。
とりあえず今回は助かったぜ。
またな、真犯人」
「それはもういいって……」
尾堂は苦笑いを浮かべて、のしのしと部屋から歩き去って行くデリクを見送った。
「……さて、おれも戻るか」
尾堂がデスクに置いたままだったスマホを手に取った瞬間、着信音が鳴りだした。
画面を見ると、『大庭祐美子』と表示されている。
「あ、電話してたんだったな」
先程、何故ブライアンのセカンド3Aの出来映え点の減点がなされたのか? という疑問を人間のジャッジの基準について知れば何か参考になる意見が聞けるかもと知人に電話をした。
その技術審判の女性からの折り返し連絡だった。
(でももういいな、解決した)
そう思いながらも尾堂は通話ボタンを押した。
折り返しの礼を言って、オリンピックの帰還報告でもしよう。
「あ、もしもし、お疲れさまです。
大庭先生。尾堂稜で……」
『来なさい』
断固とした女の声だった。
尾堂は言葉を遮られて固まった。
一拍置いて、慎重に話し始めた。
「……お疲れさまです。
オリンピックからの帰還の報告と、ご質問したいことがあったのですが、たった今別口で解決したところでして」
何とか気を取り直そうとした彼の言葉を電話口の大庭は再び被せて言い放った。
『いいから来なさい。
わたし、明日からは出張で対応できませんから、今日中に』
「はい」
尾堂は大人しく了承した。
逆らえない、怖い。
別に何をされたというわけでもないのだが、幼少期から試合の厳格な審判の先生には未だに反抗できない。何となく。
尾堂はタクシーからゆっくりと降りた。
彼は足が悪いので当然、自分では車の運転ができない。
一応、会社の仕事での移動なら誰かに運転してもらっているのだが、今回は微妙なところだ。
なので、自腹でアプリを使ってタクシーを手配した。
空車のタクシーがなかなか掴まらないことが多くてもどかしいのだが、今日は運良くすぐに乗車することができた。
尾堂は大きな建物内に入ると、エントランスの受付に身分証を示して通過し、エレベーターに乗った。
目的の階に到着し、日本スケート連盟のフロア内にやって来た。
尾堂がゆっくりと歩いて来たのに気づいたらしい壮年の男が棚の向こうで屈んだまま、ひょいと顔を上げて彼のほうを伺った。
少し笑顔になって男は尾堂に言う。
「おー、尾堂くん、悪いんだけどさ、荷物運ぶの頼める?」
これ、と一抱えはある段ボールがいくつか積み上げられた山を示した。
「すみません、いちおう怪我人です」
尾堂は苦笑して杖を持ってるのとは逆の手で不自由な足を指さした。
「あ、そうだった。
せっかく良いところに若い男手が来たと思ったのに」
「ちょっとひどくないですか?」
「ごめんごめん。
で、どうかした?
来るってのは聞いてなかったけど」
不思議そうな男に尾堂は答えた。
「大庭さんに呼ばれてるんですよ。
今日中にって」
「あ、そうなの。大庭さんなら多分技術部にいるよ。
……え、なに尾堂くん、叱られに来たの?
ご愁傷様」
「いや、そんな。わざわざ呼び出してまで怒るなんてさすがに」
電話の断固とした口調を思い出した。
尾堂は軽く遠い眼になった。
いや、絶対怒られるな。
スケート連盟とは言っても、別にフィギュアスケート専門の機関ではない。
ほかの部門の競技、スピードスケートやアイスホッケーなどと合同の連盟だ。
だがやはりフィギュアの部門はどうしても目立つものがある。
具体的に何かというと、やはり色とりどりの衣装や髪飾りだの華麗さだ。
みな思い思いのデザインの衣装を身に纏った男女のフィギュア選手たちのポスターが廊下の壁の至る所に貼られている。
尾堂はそれを何となく見ながらゆっくりと進んで行く。
というか、土屋、お前のポスターでかいな。
お前だけみんなの倍なの何なんだ?
つい先日に終わったオリンピック男子シングル銅メダリストの土屋智史のほぼ等身大のポスターに突っ込みながら、尾堂は目的地の前まで到着した。
技術部。
技術審判や技術委員たちが詰めている部屋だ。
ジャンプの回転数やエッジ判定で日々頭を抱えているテクニカルジャッジたちの巣窟である。
彼らには大会によってさまざまな役職があるが、尾堂を呼び出し大庭祐美子は、その中でも責任者の一人であるテクニカルコントローラーを務めることが多い存在だ。
技術判定全体の責任者であり、試合中は技術審判たちの判断をまとめる役割である。
Trace-Σ、AI判定の正式導入が四年前。
その時から彼らの負担は大きな試合では減ったようでいて、実際には強い協力関係を持っている。
尾堂は軽く磨りガラスと木の扉を軽くノックして、返事を待たずに扉を開けた。
「失礼します……」
「だから。コンビネーション二本目の4回転なんて想定してないんだって」
尾堂が部屋に入った瞬間、少し強い調子の男の声が耳に飛び込んできた。
並ぶデスクに数人の男女が座りながらわいわいと意見を交わしている。
みな三十代の尾堂よりも余程年配のベテランばかりだ。
「これまではね。
でも彼、ブライアン・ライルズくん。
やっちゃったからねー。もー仕方ない。
みんなきっとすごく意識してる」
腕を組んだ白髪頭も男が頷く。
「一人できたら何でかみんなできるようになるもんだ」
「いくらなんでも、4A+4Aなんてすぐ真似できるわけないだろー」
「4Aは無理でも4T+4Tは? って思うかもね」
そもそも、と混ぜっ返すような声が返る。
「本人がやりたいって言っても周りが止めるだろ。 難易度とリスクの割にコスパが悪すぎだ」
大きな溜め息をついた女がやれやれと首を振った。
「子どものやる気を舐めちゃ駄目よ。
奴ら、やるなと言われてることほどやる気満々、全身全霊で取り組むわ」
「うーん……まあ、それはなあ……」
誰も反論できない説得力があったのか、言葉を失ったようにみなが黙って考えこんだ。
その時、何となく彼らを見守っていた尾堂に一人の男が気づいた。
「お、稜。来たのか。
オリンピックお疲れー。大変だったな」
「あら尾堂くんおかえりー。
で。ちょうどいいから聞きたいんだけど」
他の技術部のメンバーが尾堂を手招きして、自分の隣に座れ、と手で示した、
尾堂は大人しくその空いた席に腰を降ろした。
「はい」
「で、ちょっと聞くけど、ジュニアがクワドのコンビを練習し始めたらどう思う?」
顔をじっと見て問いかけられて、尾堂は額に手で触れて眉を顰めた。
「あー、いや、そうか。
そういう流れになりますよね……。今後」
今までの試合では、4A二本どころか四回転のコンビそのものがほとんどありえない構成だった。
過去には挑んだ選手も何人かいたがそれが重要な試合での勝敗を左右したことはなかったと思う。
尾堂の隣の女はうんうんと頷いた。
「そういうことよねー。
まだこっちまで聞こえるレベルの動きは出てないけど、ジュニア男子連中なんか色めき立つでしょ。
オリンピックでクワド二本、それも4Aコンビなんて」
「ブライアンのは認定されてないんですが……」
一応、と尾堂が突っこむと、技術員たちはみな無言で顔見合わせた。
やれやれ、と頭を掻いた男が言う。
「一人やったら、みんなやる。
みんなが持ってる武器がないと勝てない、そう思えばクワド二本コンビは当然習得する前提という認識になるだろう」
「ブライアンはいいの。大人だから。
彼にはしっかり彼自身のチームの管理もあるしね。
問題は、それを見た十四歳、十五歳の子どもたち。
特にシングルの男子よ。
連中、何をしでかすか」
「怪我のリスクが大幅に上がるぞ」
「またルール改訂くるか?
跳びすぎ制限」
雑談のようでどこか真剣な色を持つ彼らの会話に、尾堂は少し考えこんだ。
うーん、と唸りつつ腕を組んだ。
「それはそうなんですけど……。
本人がやりたいならやらせてあげたいです。
いや、もちろん不可抗力で仕方なくなら駄目ですけど。
というか、やる奴はどんなに止めてもやると思いますよ。
注意されて大人しく諦める子ならそもそもある程度以上のレベルまで伸びるか? ってのもありますし」
身も蓋もないですけど、と尾堂が締めると、技術員たちがどよ、ざわめき、からかうような空気に変わった。
「そりゃお前はそう言うよな。
ノービスの頃から将来は4回転全種跳ぶとか豪語して」
「いや、ほんともう勘弁してください……」
降参、と尾堂が座ったまま軽く両手を上げると、何故か軽い歓声が巻き起こった。
完全に子ども扱いだ。
「いつまで待たせるの?
早く来なさい」
部屋の奥にある扉が開いて、大庭が顔を出した。 盛り上がっていた技術員たちが口をつぐんで、みなが面白そうな笑みを浮かべた。
尾堂は椅子から杖を頼りに立ち上がった。
軽く手を上げて彼に挨拶する技術員たちに軽く会釈すると、今度こそ大庭のいる部屋へと向かった。
「わたしがどうしてあなたをここに呼んだのかわかる?」
部屋の中は簡素な応接室になっている。
尾堂は椅子に腰掛け、軽く手を組んでじっと彼を見つめる大庭と低いテーブル越しに向き合った。
「ブライアン・ライルズのオリンピックの判定でのこと、でしょうか?
それについてはほぼ解決しました。
何故、あのような判定が出たのか、その原因が分かったので。
Trace-Σの誤認です。
ブライアンのセカンド4Aは降りています。
おれの眼から見ても、そう思いました。
だからこれからシステムの改修に向けて……」
「知ってる」
「えっと、知ってる、とは」
大庭は当然、という顔をしていた。
「ブライアン・ライルズが4回転アクセルコンビネーションを二本、確かに成立させたのは知っています。
わたしは審判です。見ればわかります。
あなたが話していた技術員たちも、みな恐らくそう言うでしょう。
だから、それを競技として証明しなさい」
「証明、ですか。いやそれはもちろんです。
でも、実際問題として奴はセカンド4Aを降りて……」
「降りてると思う? 見える?
それでは競技になりません」
大庭は強い口調で話し始めた。
「フィギュアスケートの歴史上、疑惑の判定と呼ばれているものは数多くあります。
それらは、悪意や欺瞞によるものであったかもしれません。
人間の感覚の限界で、競技者である彼らの努力を、その結果をきちんと見極めてあげられなかったこともまた、一切ないとは言えません。
それらは結局、同じことです」
尾堂は頷き、低い声で同意した。
「……そうですね。
競技者にとってはジャッジ側の事情なんて、どうでもいい。
ただの言い訳でしかない」
「尾堂くん、あなたたちはAIで判定を極めて厳格にしました。
ジャッジのステージをかえたのなら、そのステージの上で正しい判定をしなさい。
人間の欺瞞も限界も通じない、冷酷なシステムで彼らの全てを見て。
わたしたちジャッジの、元競技者であるあなたの見えた、思った、の感想だけでは足りません。
誰が見ても同じ結論になる形で示さなくては意味がありません。
確実な証拠を持って採点するシステムを今度こそ完成させなさい」
「……はい」
「言いたいことはそれだけです。もう帰っていいですよ。お疲れさま」
その結びで、一気に緩んだ空気に尾堂は拍子抜けしつつも複雑な想いを抱いた。
「あ、はい。
…………本当に怒られるために来たんだな」
「言っとくけど、別に説教するために呼んだんじゃないから。
あなた、よっぽどの用がないとここまで来ないでしょ。
外の部屋の彼らがやたら心配してたの。
Trace-Σの不備のせいでオリンピックでひどい吊し上げにでもあったんじゃないかって。
たまには顔くらい見せなさい」
尾堂の呟きを聞き止めたらしい大庭の言葉に彼は少し居心地が悪い気がしながらも頷いた。
「あ、はい……」
「あと、小谷野があなたに用があるってさっき電話で言ってたから連絡しときなさい」
そういえば、二人は友人だった気がする。
そう広くはないフィギュアスケート界隈、意外な人同士が親しい関係であったりするものだ。
小谷野は有名な衣装デザイナーだ。
シングル、ペア、アイスダンス。部門を問わずトップ選手の衣装を数多く担当し、日本のみならず海外選手の間でも人気が高い。
尾堂が現役の時はほぼ毎回、彼の衣装を制作していた。
ジュニアの途中からシニアの最後まで、彼の体型のほぼ全てをミリレベルで熟知していた存在である。
下手をしたら医者やトレーナーよりも余程詳細に尾堂の状態を彼の体型変化によって読み取ることができた人物でもある。
かなり怖い。
ものすごく世話にはなっていたのは事実なのだが。
「連絡します……」
とりあえず、無視するわけにはいかない。
多少気持ちは乗らないながらもあとで小谷野に連絡する、と決めた。
尾堂は謎の疲労を感じつつ大庭に礼を言い、応接室の外で仕事をしていた技術員たちに謎のからかいを受けながら連盟を出た。
そして再びタクシーで自分の会社まで向かった。
目的地である会社の通用口付近の道路に停車してもらい、尾堂はタクシーを降りて歩き始めた。
何となく、大庭の言葉を頭の中で反芻してぼんやり道を進んでいると、背後から大きな声の呼びかけがあった。
「尾堂さん!!」
「うわ」
反射的にすぐ横にあった自社のパネルに掴まった。
危なかった。
すぐ隣でビュンという風を切るような音が鮮明に聞こえた。
もしや、咄嗟に避けなかったら衝突していたのではないだろうか。
なんだ、と周りを見てぎょっとした。
足元に大柄な男がうずくまっている。
完全に土下座の態勢で地面に顔を向けたまま、その男は大きな声で叫んだ。
「お久しぶりです!
「オリンピックでは、その節では、
本当に、
本当に、
申し訳ありませんでした!!」
そのまま、男は地面に這いつくばってぴしりと停止した。
尾堂はものすごく混乱した。当たり前だろ。
「は……?
え、なに? というか、誰?」
恐る恐る、というように男が顔を上げた。
人の良さそうな顔、その額に土がついている。
尾堂は見覚えのあるその顔を見て一気に思い出した。
ブライアンのフリーの直後に尾堂にぶつかってきた、杖を吹き飛ばした奴。
さらに翌日、記者会見で爆弾発言、というか爆弾質問した男。
尾堂は、大きく深呼吸をして怒鳴った。
「またお前か!」




