第7話 世界王者 雨の四大陸選手権と運命の日
「いや、そもそもなんでおれの4A失敗データをあんな山のように入れちゃったんだ?
練習の時のやつだろうが」
尾堂がデリクに詰め寄ると、彼は腰掛けた椅子の背もたれに勢いよくもたれて鼻で笑った。
「別に全部じゃない。
うちの会社がお前のスポンサーだった時代にAI判定システムを作る、ていう話が出たんだろ。
その時、お前の拠点リンクに押しかけてデータ収集したやつだけだ。
最高峰の技術を持つ選手の本気の4A習得課程のデータだぞ。
それも、体に取り付けたモーションキャプチャリアルタイム観測だ。
これ以上に良質なデータはないだろ?
いや、おれはそん時いなかったんだけどさ」
デリクがこの案件に関わったのは5年前だ。
尾堂が現役だったのは8年前までなので、確かにその判断をしたのは彼ではない。
「しかもだ、お前が怪我で引退してからはその後の数年、4A習得に本気で取り組むやつも、もしや成功するか? て奴も現れなかった。
だから業界の暗黙の了解的に、お前の記録がジャンプの技術の限界だな、ていう結論だったんだよ。
そんな人類の天井ギリギリ攻めてる詳細データ、フル活用しないなんてマジでないだろ?」
じっと聞いていた尾堂はぽつりと言った。
「……ブライアンは成功したけどな、つい最近になって」
デリクは太い足を組んで椅子にふんぞり返った。
巨体を支える椅子が悲鳴のようなきしみ音を上げる。
「そうだ。
それで前提が狂った。
お前にできないなら理論上で4Aは跳べることになってても、実際の人間には不可能。
そうみんな思っていたのがひっくり返された。
Trace-Σの、人類の想定外にブライアンが飛び出しちまったんだよ。
……まあ、奴ができたってことは、お前が突然怪我なんてしなくて、地道に練習してたら成功してたんだろうな、多分」
尾堂はゆっくりと瞬きをした。
そして静かに言った。
「……多分なんて意味がない。
あれがおれの限界だったんだよ」
──8年前。
四大陸選手権、男子フリースケーティング当日。
試合開始、数時間前。
選手用待機スペースの一角に尾堂と彼のコーチは陣取っていた。
座って床に置いたリュックを検分し始めた尾堂の隣にコーチは立ち、スポンサーと電話をしている。
「はい、はい。……先日はありがとうございました。
モーションキャプチャ、でしたか? いただいた映像見て、本人が練習の参考になるって喜んでました。
フリーに4回転アクセルを?
いやそんな、まだ完成してないですからね。
入れない、って本人は言ってますよ。
じゃ、またよろしくお願いします」
通話が終わってスマホをポケットにしまったコーチは、足元にいる尾堂に視線を落とした。
大きなリュックを全開にして漁っていた彼は、上の男を見て話しかけた。
「すみません、先生」
「どうした?」
尾堂はあっけらかんと言った。
「靴ない。スケート靴」
「はあ?」
「ホテルに忘れてきました」
「……お前何しにきたんだよ」
「すみません、なんか忘れてる気したんですよ」
ウケますね。
今行って取ってきます!」
話しているうちに自分の行動が愉快になってきた尾堂は軽く笑いながら立ち上がった。
呆れたように彼を見ていたコーチは大きく溜め息をついた。
「ウケねえよ、阿呆。
もう呼び出し来るまで時間ないぞ。
マネージャーか誰か行かせるか?
おーい! ちょっと! すみません!
……駄目だ、こりゃつかまらねえな」
コーチが尾堂チームのメンバーを探したが、今は手続きか何かがあるのか、見つからない。
そのコーチ自身は、いつ大会スタッフからの連絡事項が伝えられるかわからないのでその場を離れられない。
尾堂はリュックからホテルの鍵を取りだし、コートを着て外用のブーツを履いた。
「いや、大丈夫です。
ホテル、今回めちゃ近いんで。
ちょっと行って取ってきますよ」
エレベーターホールに向かって歩き出す尾堂を数歩追いかけてコーチは眉を顰めた。
「ちょっと行ってって……。
もう本当に時間ないぞ!」
もう行く気満々の尾堂は大股で進みながら言う。
「すぐ! ほんとにすぐ取って来るんで!」
やれやれと腰に両手を当て、コーチは遠ざかる尾堂の背に向かって叫んだ。
「おい! 慌てるなよ! 走るな!」
「わかってます!」
尾堂は会場内を早足で進み、外に出た。
今回の大会用に宿泊しているホテルは信号を渡ったすぐ横にある。
氷混じりの冷たい小雨のなか、彼は試合を観戦にきた人波を縫って逆方向に進む。
(ひどくなりそうだな)
尾堂は身体を冷やさないようにコートの前を掻き合わせてチャックをしっかりと閉め、フードを深く被った。
この大会の優勝候補でもある尾堂がその場にいるということには皆気づいていないらしい。
時折尾堂の名前や彼自身の写真が掲載されたパンプレットを持つ人々の存在を感じながらも、彼は気にせず歩いて行く。
うっかりぬかるんだ足元に滑らないように、早足をやめて、一歩一歩意識してホテルまで辿り着いた。
ホテルの自動ドアから建物内に入るとブーツ野底をマットでしっかり拭う。
早足で絨毯をすすみ、自分の部屋まで到着した。 中に入るとすぐ目の前にスケート靴の入ったケースが置いてあった。
最後にリュックに入れようと用意して、そのまま忘れていったのだろう、多分。
「意外とここまで時間かかったな」
しっかりと靴のケースを抱え、時計を見るとすでに10分以上経過していた。
だが、ここで走って転んで怪我でもしたら元も子もない。
尾堂はホテルを出ると、またしっかりと足元を確認しながら会場に向かった。
「あー……いや、そうなるか」
会場に入ると、チケットを持った観客たちが集まって混雑していることに気がついた。
早くコーチたちが待っている2階の練習兼待機スペースに行きたいが、三つあるエレベーターは順番待ちをしている。
「……階段で行くか」
この会場は以前の大会でも何度か来たことがある。
会場内に入ってすぐの目立つ位置にあるこのエレベーターと正面階段の他に、離れた場所にこぢんまりとした階段があるのを彼は知っていた。
かなり遠回りになるが仕方がない。
段々と人が少なくなっていく建物内を進み、尾堂は目的の階段の下にやって来た。
尾堂は壁に囲まれるようになっている階段の手すりを持ち、片手でスケート靴ケースを抱え、ゆっくりと登る。
その彼の背後からばたばたと観客だろう人が走って追い抜いていく。
尾堂の横をすり抜けるとき、観客の電話が鳴った。
接触したら危険だと思い、尾堂は足を止めて軽く壁際によけた。
観客は止まることなく、ポケットに乱雑に手袋をしたままの手を突っこんで、スマホを取りだし電話に出る。
その拍子に、ポケットに入っていたリップクリームが床に落ち、転がる。
「ごめん! 迷った! 今、上向かってるから! ちょっと待って!」
大声で話しながら大股で階段を駆け上がって行く観客。
尾堂はその人物が行ったのを見送ると足を踏み出し──何かを踏んだ。
足の裏がごろり、と滑り、踏んだはずの段から足の支点がずれる。
「あ」
とっさに手すりを片手で強く掴むが、間に合わない。
「ちょ……!」
完全に足を踏み外した身体を、前から階段に強打した。
弾みで片手から靴のケースが零れ落ちそうになった。
それを守るため咄嗟に身体をひねった拍子に、尾堂は今度こそ空中に投げ出された。
階段に何度も打ち付けられる派手な音を立てて、なすすべなく長い階段を一番下まで落ちていく。
尾堂は身体に何度も感じる激痛に声にならない絶叫を上げ、そのまま意識が暗転した。
「意識が戻って本当に良かった……!
問題なく社会復帰できるように、我々スタッフも全力で協力します。
リハビリ、頑張りましょうね。
コツコツ努力すれば、必ず自力で歩けるようになりますから」
尾堂の眼をしっかりと見て語りかけ、力強く大きく頷く白衣を着た男。
状況が飲み込めない。
尾堂は男を見て、すぐにおかしな状況に気づいた。
広い、白い部屋。
尾堂はベッドに横になって、いくつものチューブで身体の各所を繋がれている。
意識すると、全身が鈍く痛む。
階段から落ちた、と彼は思い出した。
身体を起こそうとしたら、反対側に立っていた看護師に止められた。
先程よりも強く感じる痛みに、尾堂は大人しく再びベッドに横になる。
ふと気づいた。
片足の感覚がない。
「尾堂……」
医者の後ろにいたコーチが絞り出すように呼びかけた。
「先生……。試合は? どうなりましたか?」
目が合った一瞬、動揺の色を浮かべたコーチがゆっくり尾堂に近づき、肩に手を載せた。
「お前は棄権になった。そうするしかなかった。
わかるな? 階段から落ちて、大怪我したんだ」
尾堂はじっとコーチの顔を見た。
怪我、と呟いた。
「……それだと練習は?
いつ再開できますか?
オリンピックに向けた調整が、これだとどうなるのか……」
「尾堂……」
「……ご家族に連絡します」
看護師がそっと声をかけて、足早に病室を出て行った。
二人を黙って見守っていた医師も、穏やかな顔にわずかに固いものを浮かべて一礼し、立ち去る。 尾堂は痛みを堪えて再び身体をゆっくりと起こす。
コーチはそれを止めることなく背中を支え、彼のしたいようにさせてくれた。
上体を起こした尾堂は、ぎこちない手つきで足元の布団を除けて、それに触れる。
見慣れた、いびつに歪んでいくつもあざの浮かぶ筋肉質な両足。
肌色のテープや包帯が厳重に巻かれている片方に、ほとんど感覚がない。
膝を曲げようとしても全く力が入らない。
「嘘だ……」
思わず呟いた尾堂の肩にコーチが腕を回し、顔を深く俯けた。
耳元で聞こえる低い嗚咽を聞きながら、尾堂はただ呆然としていた。
会場の監視カメラを調査した結果、階段での事故の原因がわかった。
リップクリームだ。
尾堂が階段から落下する直前に彼を追い越して行った観客の落とし物だった。
偶然、本当に偶然、転がり落ちたリップクリームが尾堂が足を踏み出した段の縁に落ちたのだ。
気づかずに踏みつけたそれは彼の靴底の裏でベアリングのように転がった。
いくら体幹の頑健なトップスケーターとはいえ、完全に不意をつかれた状態で体勢を崩したらどうしようもない。
それでも咄嗟に手すりをつかめたところまでは良かったが、落としそうになったスケート靴を守ろうとしたことでさらに体勢が不安定になった。
結果、ほとんど空中をボールがバウンドするような状態で階段の二階付近から一番下まで落下していったのだ。
尾堂と、彼のチームは詳細な事故の情報を世間には黙っておくことにした
完全に偶然の不幸な事故だ。
その観客を探し出して責めても仕方がない。
マスコミによって社会に知らせてもどうしようもないもない事故だ。
それに下手に事情を明かせば、世界王者を大怪我させた観客をスケートファンたちが正義感から捜し出し、吊し上げることがないとは言えなかったからだ。
だから全てを黙って、尾堂は毎日、リハビリを続けている。
もしかしたら、また何事もなかったように氷の上に戻れるかもしれないと願って。
怪我当時、彼は二十六歳。
本来その年齢でのオリンピック出場をすでに決定させていたが、立ち上がることもままならずに棄権。
では、と四年後。
三十歳での、男子シングルのスケーターとしては高齢となるが、それでもと出場を心に決めた。
そして熱心なリハビリを三年と少し、続けた。
「もう無理ですね。間に合わない。必要な成績が積めない」
尾堂は復帰を諦めずに支援してくれていたコーチや、チームの面々に告げた。
自由に歩く、とまでは行かなかったが、杖を日常で使い、バリアフリーの配慮があれば何とか社会復帰できる程度には回復した。
だが当然、トップスケーターとして復帰することなどは不可能だ。
尾堂は微笑んで言った。
「終わりですね」
「おれのスケート、これで全部終わりました」
Xの垢作りました。




