第22話 《Blizzard》
――静かに降り始める、深い雪の音。
千秋は白い息を胸に押し込み、
ゆっくりと鍵盤に指を置いた。
冷たい象牙。
触れただけで胸の奥の傷がずきりと疼く。
でも、その痛みが――愛の証。
(違いますわ……これは、痛みじゃない。
わたくしが恋をした証ですもの)
隣には、憂。
けれどその身体の輪郭に、確かに雪乃が重なっている。
観客には見えない。
それでも千秋には、はっきりと見えていた。
(お姉様……どうしてそんなに
優しく微笑むのですの)
音が降る。
一音ごとに雪が広がり、
白い世界がふたりを包み込んでいく。
外界が遠ざかり、
ここにはもう、ふたりだけ。
千秋は思う。
始まりは春だった。
出会いの光。
小さな芽。
ふとした瞬間に生まれた、とても温かい何か。
気づかぬうちに芽生えた想いが、
夏に燃え、
互いを照らし合って――
その痛みが、音に滲む。
そしてこの冬――
恋は形を変えて、音になった。
雪乃も思い返す。
泣きたくて、泣けなかった夜。
名前を呼ばれるたび揺れる睫毛。
鍵盤の前で震えていた小さな背中。
(千秋……あの時から、
あなたはもう、わたしの“音の希望”だった)
鍵盤の上で、ふたりの心が重なる。
――恋していましたの、お姉様。
――ずっと、ずっと以前から。
言葉は発せられなくても
音が、すべてを語っていた。
右手が、凍えた空気を切り裂く。
高鳴る願いが震え、音へと変わる。
左手は深い低音。
まるで心臓の鼓動を刻むように。
泣き声を抑え込むみたいに。
(こんなにも苦しいのに……
どうして、こんなにも美しいのですの?)
恋ではない誰かの胸さえも、
音は容赦なく貫いていく。
メイドのひとりが目元を押さえた。
恋に破れた夜を思い出す。
「……切なすぎますわ……」
隣のメイドも頬を伝う涙を止められない。
音が、それぞれの“失った恋”を呼び覚ます。
(これは、千秋様の……真実の恋の音)
千秋の両親も、手を取り合っていた。
かつて互いを見失った夜の痛み。
でも、今は寄り添える。
夫婦でさえ、胸が締めつけられる。
拍手は起きない。
誰ひとり、息すら乱せない。
音が雪を裂き、
会場全体の鼓動が揃う。
(どうか……消えないで)
千秋の涙が鍵盤を濡らす。
でも、それも音になる。
もう、隠さない。
その想い――命より確か。
お姉様が手を伸ばす。
触れられないはずの指先が、
千秋の指と震えながら重なる。
ほんの少しでも熱が伝わった気がした。
「……千秋」
その呼びかけだけで
全ての恋が報われた気がした。
「ありがとう。
あなたは……本当に、強くなったのね」
優しい声。
甘く、そして残酷な「終わり」の音。
(本当に……これで最後なのですの?
でも――わたくしは進みますわ)
最後の和音――
凍えた愛が砕け
冷たい光へと昇華していく。
――さよならではなく。
――ありがとうで終わる冬。
響きが、しんしんとホールへ染み渡る。
(お姉様……
わたくし、お慕い申し上げていましたの)
声にならない告白が
雪の粒となり
お姉様の胸へと届いた。
大きな拍手が巻き起こる。
けれどふたりは観客を見ない。
最後まで互いだけを
恋しかった人だけを見つめ続けた。
雪乃が微笑む。
その微笑みが永遠の雪となって
千秋の心に降り積もる。
ぽたり。涙が落ちる。
(恋は終わっても、
愛した時間は消えませんわ)
――冬は静かに幕を引く。
その先で春が息を潜めている。
ふたりがまだ知らぬ新しい季節として。




