第21話 秋は音にならず
ホールの照明が、ゆっくりと落ちていく。
天井のシャンデリアがひとつ、またひとつと光を失い、
客席に残るのは、期待と緊張が混じり合った静けさだけだった。
先ほどまで囁き合っていた声が、
誰かの咳払いを最後に、すっと消える。
ステージ中央。
スポットライトに照らされたグランドピアノが、
黒曜石の湖のように静かに佇んでいる。
その艶やかな天板には、
今夜ここに集った人々の想いが、無数の光として映り込んでいた。
――始まる。
誰かがそう言葉にするより早く、
会場全体が同じ予感を共有した。
時間が、ほんのわずかに引き延ばされる。
音が生まれる直前の、張り詰めた空白。
舞台袖から、足音が二つ。
白い騎士礼装を纏った憂と、
深い色合いのドレスに身を包んだ千秋。
二人が姿を現した瞬間、
拍手が湧き上がる――が、それはすぐに収束した。
これは、歓声で迎える舞台ではない。
見届けるための舞台だと、誰もが無意識に理解していた。
●
ステージの上。
千秋はドレスの裾をぎゅっと握りしめ、深く息を吸っていた。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
それでも背筋は伸び、視線は真っ直ぐ前を向いている。
その隣――
白い騎士礼装の憂の身体に重なるように、
雪乃の気配が、静かにそこにあった。
ほんの少し俯いているようにも、
すでに音の世界へ踏み込んでいるようにも見える。
客席の一角で、
菊子は指先にそっと力を込めながら、拍手を続けていた。
(あの夏……)
思い出されるのは、
海の上を進む船と、強すぎる日差し。
葉月と自分が、急速に距離を縮めていく一方で、
憂は孤独を深め、すれ違い、
ついには――自分とも衝突した。
理解しているつもりだった。
守っているつもりでもあった。
けれど、その隙間に寄り添い、
憂を救い続けていたのは、雪乃だった。
夜更けのゲーム台。
明かりを落とした部屋で、
やっと本音を明かし、弱さも涙も見せてくれた少女。
菊子は、拍手のリズムを変えず、
その想いを胸の奥で噛みしめる。
その音は――
いま舞台に立つ三人すべてへのエールだった。
ウィザードの柔らかさは、
憂と千秋が育てた“春”。
ハザードの激しさは、
雪乃がたった一人で抱え続けた“夏”。
(……秋は、どこに)
そう思った瞬間、
答えは、まだ閉じられた譜面の中にあると気づく。
このあとに続く――ブリザード。
そこにはすでに、“秋の余韻”が忍ばせてある。
収穫。
手放し。
別れを受け入れる覚悟。
四季は終わりへ向かい、
そして、冬が訪れる。
●
菊子は視線をステージへ戻した。
千秋は胸元に手を置き、
ぎゅっと目を閉じている。
静かに、譜面を開く。
そこにあるのは、
かつて未完成だった最後の二小節。
クリスマスの朝。
雪乃と向かい合い、
最後の練習をした夜。
その直前――
テーマパークの、クリスマスイブ。
眩いイルミネーションの下、
憂の隣で笑った時間が、
千秋の胸に、恋という名の火を灯した。
(……でも)
翌日。
雪乃の前で、その炎は凍りついた。
『私は……憂の身体しか、居場所がないの』
想いを告げた、その瞬間。
優しく、しかし確かに拒まれた言葉。
お互いに分かっていた。
届かない恋。
震える指で、
涙で滲む譜面に書き加えた二小節。
(あれが……わたくしの“冬”)
――と、その前に。
千秋はそっと譜面を閉じ、
席の横に置かれたペットボトルへ手を伸ばす。
キャップをひねる指が、わずかに震える。
冷たい水が喉を通り、
胸の奥の熱を、静かに鎮めていく。
(大丈夫……まだ弾けますわ)
再び譜面へ視線を戻した、そのとき。
隣から、確かな視線を感じた。
顔を上げる。
そこに、雪乃がいた。
憂の身体の輪郭に重なりながら、
まっすぐで、優しい瞳で、千秋を見つめている。
声はない。
けれど、確かに伝わる。
(大丈夫。あなたは一人じゃない)
千秋は、小さく頷いた。
それだけで、雪乃は安心したように微笑む。
譜面の上、
黒い音符たちは、冬の朝のように静かに凍りついている。
「千秋」
姿は見えなくても、
雪乃は、すぐ隣にいる。
「はい、雪乃さん」
「これはね、あなたと私の曲」
寄り添うような声。
「私ひとりの冬じゃない。
あなたが越えてきた季節も全部、ここに入っている」
「でしたら……なおさら」
千秋は、静かに息を整えた。
「完璧に、弾き切ってみせますわ」
鍵盤に、指を置く。
冷たい象牙の感触が、
胸の奥の傷を、優しく撫でる。
そっと目を閉じ――
最初のコードを叩いた。
――静かに降り始める、
深く、澄んだ、雪の音。
それは、終わりではなく。
託された未来の、始まりだった。




