20話 《Wizard & Hazard》
視界が、一気に開ける。
光。
シャンデリア。
観客の顔。
二台のグランドピアノ。
千秋のドレスが、照明を受けてひらりと揺れる。
千秋はほんの一瞬、客席を見た。
両親が並んで座っている。
サンタ衣装で照れている母と、
その肩を抱き寄せて笑う父。
その少し後ろ、
葉月と、他のメイドたち。
そして――石田。
千秋は席に背を向け、
二台のピアノのうち、客席から見て右側の席に座った。
左側――誰も座っていないはずの席の前に、
雪乃が立っている。
客席からは見えない。
けれど千秋には、はっきりと見えていた。
指先が震える。
鍵盤が、やけに遠く感じられる。
そのとき、そっと隣から声がした。
「千秋」
振り向かなくても分かる。
「お姉様。
……春から、いきますね」
雪乃は余裕に満ちた微笑を浮かべ、軽く頷く。
「ええ、よくってよ」
千秋は、ウィザードの譜面を開いた。
雪乃が生前、書き残した“春の曲”。
初めて見たときから、
この楽譜には、どこか柔らかな風の匂いがしていた。
(これは、憂さんへの贈り物であり――
わたくしの心が、初めて触れた出会いでもありますの)
指を鍵盤に置く。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
そして――
最初の一音を、響かせた。
高音部で弾かれたその音は、
ほんのりとした春の日差しのようだった。
軽やかな三連符が、花びらのように舞い上がる。
左手は、まだ冷たい土の中から顔を出した芽のように、
小さく、優しい和音を刻む。
千秋の身体から、緊張が少しずつ解けていく。
(あ……やっぱり、好きですわ、この曲)
ウィザードは“喜”の曲だ。
雪解けの川。
新しい学期。
初めてできた友達。
誰かを好きになる、その一歩手前の、甘い予感。
客席に、ほんのりと笑顔が広がっていくのが分かった。
音が、空気を撫でていく。
千秋は、その流れに身を委ねながらも、
一音たりとも取りこぼさない集中で弾き続けた。
右手が、少しだけ強く鍵盤を叩く。
春風が、柔らかな突風に変わる。
そっと隣を見ると、雪乃が目を細めて頷いていた。
(千秋。
あなたの春、ちゃんとここにあるよ)
その表情に背中を押され、
千秋は最後まで迷いなく弾き切った。
最後の和音が静かにホールに溶けていく。
春の匂いが、音の尾を引いて消えていく。
拍手が起こる。
でもこれは、まだ“序章”に過ぎなかった。
(……暑い)
照明の熱と、緊張と、
胸の奥で燃える何かのせいで、
憂は騎士風の礼装の中に汗を感じていた。
今、表に立っているのは雪乃だけど、
身体は確かに自分のものだ。
客席の気配が遠のいていく。
代わりに、
自分の鼓動と、胸のエメラルドの脈動だけが近づく。
雪乃が静かに息を吸う。
その気配が影のように伝わってくる。
(……次は“Hazard”。
葉月のために作られた――あの怪談曲)
譜面を開いた瞬間、
ページから熱と冷気が一緒に噴き出したように思えた。
乱れた筆跡。
鋭いアクセント。
複雑なリズム。
ストンと落ちるような、不安定な休符。
黒い音符が並ぶ度に、
背筋を撫でる影が濃くなっていく。
(これ、初めて聴いたとき、怖かった)
文化祭で、体育館に響いたあの音。
雷みたいな和音。
聴いているだけで胸が苦しくなった。
(でも今は分かる。
この“恐怖”と“怒り”がなかったら、
たぶんお姉様は……どこにも行けなかったんだ)
雪乃の指が鍵盤に触れる。
憂の指も同時に震えた。
――トン。
冷たい墓石に水滴が落ちたような音が、闇を叩く。
その直後、
ガンッ、と。
ウィザードとは違う、重たい打鍵が弾けた。
高音が鋭く突き刺さる。
低音が地鳴りのように迫ってくる。
ホールの空気が、ぎゅっと縮む。
観客はみんな、何かが始まったのを悟った。
雪乃の“夏”は、灼けるように熱く――
けれどその奥には底なしの闇が潜む。
許されなかった過去。
六地蔵事件。
救いの届かなかった孤独。
助けを求めても届かなかった声。
鍵盤を叩く度、
それらが罅割れた刃のように飛び散る。
(怒ってる……でも、それだけじゃない。
これは“助けて”って叫んでる音)
雪乃は涙を堪えながら、
指から視線を逸らせなかった。
千秋も横で必死に支えている。
額に汗を浮かべ、
一音一音を“受け止めるように”弾いていた。
(お姉様……やはり、わたくしの誇りですわ)
リズムが乱れ、また整う。
不協和音がぶつかり合い、
やがて吸い込まれていくハーモニー。
誰かの足音が後ろから追ってくるような低音。
ひゅっと耳元をかすめる高音。
音に触れるたび、
観客の背中に見えない手が触れる。
――クライマックス。
激しいパッセージ。
駆け抜ける旋律。
闇の底から吹き上がる叫び。
そして突然音が――途切れた。
一瞬の静寂。
誰もが息を詰める。
その闇を、最後の一撃が突き破った。
叫び声のような和音が、
ホールに突き刺さる。
熱が一気に引く。
代わりに、重たい息だけが残る。
客席はすぐに拍手を打てなかった。
あまりにも生々しい“怒り”と“恐怖”に、
心が追いつかなかったのだ。
やがて――
ぽつり、ぽつりと震えた拍手が広がっていく。
まるで、
帰ってきた命を確認するみたいに。




