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沈黙のういザード  作者: サファイロス
4章 昇華のブリザード

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16話 届かなくても、恋だから

 譜面台に置かれたのは――

 銀の雪を閉じ込めたような楽譜。


《ブリザード》


 雪乃が生前、最後まで辿り着けなかった曲。

 いくつもの冬を越え、今、憂の手を借りることでようやく“完成”したその音。


 紙の上に並ぶ黒い符点が、まるで雪の結晶のように光って見える。


 千秋は譜面にそっと指を添えるだけで、背筋がぞくりと震えた。


(ここに……お姉様の想いがすべて……)


 息を呑むと同時に、胸の奥に鋭い痛みが走る。


「これが……お姉様の……」


「いいえ。わたしたちのよ」


 雪乃は穏やかに微笑む。

 しかし、その奥に揺れる影――

 千秋だけが気づく、消え入りそうな色。


「さあ、始めましょう。泣く暇なんて、今日は私たちにはないわ」


「はい……っ!」


 二人はピアノへ向き合う。

 黒と白の鍵盤が、運命を受け止めるように光っていた。


 雪乃の指先が鍵盤に触れた瞬間――

 空気が一変した。


 一音――氷の刃。

 二音――凍える祈り。

 三音――砕けた心臓の欠片。


(……呼吸が、追いつかない)


 千秋は、その背中に神に似た崇高さすら感じた。


 ――届かない。

 どれだけ追っても。


 けれど、それでも追いかけずにはいられない――


「千秋」


 雪乃の声が、凛と響く。


「その胸の乱れ、音に出ているわ」


「す、すみません……!」


「私だけを見て」


 千秋は雪乃の指先を凝視する。

 呼吸、速度、角度――

 すべてが完璧。

 すべてが恋を求める音。


(追いつきたい。追いつくだけでは足りない……隣に――立ちたい)


 何度も重ねる。


 何度も。

 何度も。

 何度でも。


「千秋」


「……はいっ……!」


「私はね。あなたと弾くために、この続きを見たかった」


 胸の防壁が崩れた。


 雪乃が自分を選んだ。

 その理由を、信じたい。


「お姉様……」


「どうしたの?」


 振り返った雪乃。

 その横顔は

 優雅で、冷たく、そして――

 遠すぎる。



「好きです」



 震える声。

 逃げ道のない告白。


「出会った日から……ずっと。わたくしの音を救ってくださった瞬間から……

 恋でした。お姉様への恋でした」


 雪乃の目が一瞬だけ大きく開く。


「千秋……」


「一人の女性として……あなたを愛しています」


 声は震えても、瞳は逸らさない。


「たとえ届かなくても。それが恋というものなら――構いません」


 雪乃は立ち上がり、音もなく千秋へ近づいた。


 距離がゼロになった瞬間――千秋は抱きしめられた。


「ありがとう。本当に……嬉しい」


 震える声。

 喜びに泣く声。


「でも……ごめんね」


「……っ……!」


「私はもう生きていない。憂の体を借りて、ここにいるだけ。

 あなたの未来に……いる権利はないの」


 千秋の拳が震える。


「分かっています……一番……わたくしが理解していますわ……」


「あなたは、あなた自身の未来を生きるの」

 

 雪乃の瞳に、揺れる決意。


「……それでも、わたくし……」

 

 千秋は唇を噛む。


「お姉様を、諦めません」


 涙を隠さない宣言。


 雪乃の指が、千秋の涙をそっとすくった。


「あなたは私が誇る弟子。私が――大切に思う子」


(……嘘でも愛してるって言ってほしかった……?)


(どうして……未来を閉ざす笑い方をするんですの……?)


 残酷なほど優しい。


「千秋」


 雪乃は千秋に手を握らせた。

 幻でも、温度だけは本物。


「私はね。あなたが私の音を生きてくれるなら――それだけでいい」


「……っ……!」


「今日だけは……私を、愛して」


「お姉様……っ!」


 千秋はしがみつく。

 息が詰まるほど恋しい。


「好きで……苦しくて……生きているのが罪みたいで……死んでしまいそうですわ……!」


「生きて。あなたの音で、生きて。私の代わりに」


「わたくし……強くなります……絶対に……!」


「ええ。あなたを信じてる」


 二人の影が、白い床に重なりあった。


 そのとき、雪乃の視線が譜面に落ちる。


「少し……直しましょう」


「曲を、ですの……?」


「ええ。あなたの想いを音にするの」


 千秋は震える指でペンを握る。


「お姉様の願いを叶える曲にします。わたくしの願いも――そこに混ぜます」


 そして書き足す。


 雪乃の胸が、小さく震えた。


「……そんな音を重ねられたら、私……もう戻れなくなるわ」


「戻らなくていいです。だって――」


 千秋は涙をふき、凛とした瞳で言い切った。


「わたくしが、お姉様の続きを生きますから」


「千秋……」


「あなたがいなくても――想い続ける音。それが恋……わたくしの恋です」


 雪乃は震えるまつげのまま、美しく微笑む。


「こんな奇跡……望んでもいいのかしら……」


「奇跡じゃありません。これは――運命ですわ」


 雪乃はその手を強く握り返す。


「では――この音で、行きましょう」


「ええっ……!」



二人で創り直した《新しいブリザード》


それは――

凍える冬に、春の息吹を点す恋の証。


届かない恋。

終われない愛。


それでも――

未来へ響き続ける。


千秋の愛が描き足された、

もう一つの未来。


失われた師匠が、弟子の恋を背に――


今日だけの奇跡を奏でる。

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