17話 季節は巡り、音は結ぶ
ホールの空調が静かに唸り、
まだ誰もいない客席が
二人の息遣いだけを受け止めていた。
「まずは――《Wizard》からいきましょう」
雪乃が鍵盤に手を置く。
千秋も深く息を吸った。
合図もなし。
ただ、視線が交わった瞬間に――演奏が始まった。
《Wizard》
少年少女の小さな物語。
淡い光、新しい希望――
春、憂の音。
まだ世界を知らず、恋も痛みも、未来の輪郭さえ曖昧だった頃。
(あの頃の憂……無知で、無垢で、ただ音を楽しんでいたわたくし)
雪乃の音が、憂の小さな夢を優しく包む。
(でも――今は違う)
千秋は未来を掴む音を選ぶ。
希望は芽吹く。
憂の世界は、春でできている。
「次、《Hazard》」
空気が一変する。
雪乃の瞳がわずかに鋭くなり――音が放たれた。
《Hazard》
夏、葉月の音。
灼けるように熱く、
迷いすら焦がしてしまうほどの情。
(あの子はいつだって……憂のために怒り、泣き、戦ってきた)
雪乃の指が叫びを描き、葉月の強さと脆さを暴く。
終盤、二人の音がぶつかり合うように絡み合い――
沈黙。
余韻は、焼け跡の痛みを残した。
「そして――《Blizzard》」
雪乃の声に、千秋は生唾を呑む。
譜面へそっと手を伸ばし、深く息を吸って――奏でる。
《Blizzard》
冬、雪乃の音。
触れたら砕けるガラスの幸福。
残されるのは凍える恋の残響。
(これは……お姉様の涙……氷になった愛)
吹雪のような旋律。
閉じ込めた想い。
届かぬ恋の痛み。
(この恋は届かない。でも、この音で……届けたい)
最後の一音が響き終わると、千秋の頬に、知らぬ間に涙が伝っていた。
最後の一音が響き終えた瞬間――
雪乃は立ち上がり、胸の前で拳をぎゅっと握りしめた。
「……すごい……! 生きてた頃もこんな……いい演奏、できなかった……!」
紅潮した頬。
熱を帯びた吐息。
千秋は息を呑む。
「お姉様……」
「千秋、ありがとう。私、久しぶりに――本気で震えてる」
その言葉が、千秋の心臓を一気に熱くした。
時計を見る。
パーティーの開始まで――残りわずか。
「そろそろ……お時間ですわ」
千秋は姿勢を整える。
「ええ。練習は完璧。後は美しく仕上げるだけね」
雪乃は静かに頷いた。
「お姉様。本日の演奏用に――
わたくし、とびきり素敵なお衣装をご用意しておりますの」
「まあ。楽しみだわ」
「石田さん。――雪乃さんのご支度を」
「はい、ただいま!」
メイド長・石田が静かに駆け寄る。
「雪乃さんの着替えを。最高の舞台にふさわしい装いで」
「承知いたしました」
雪乃は胸元にそっと手を置き、千秋へ振り返った。
「千秋。今日の私たちを……必ず成功させましょう」
「もちろんですわ、お姉様」
その笑顔は、心臓が止まりそうになるほど眩しい。
――舞台は整った。
あとは、奇跡を響かせるだけ。




