華出井 葵(12)と願いの井戸 46
甚八はミヨにだけ頭を下げて、既に玄関にいる葵に声をかける。
「葵様」
「京護置いて見送り? 日課の稽古なだけだよ」
靴を履いた葵は、さっさと玄関扉を開ける。すると、外側からスーツを着た男性が、葵の代わりに扉を開けて支えた。
スーツの色と仕立てから艻月家の者なのは分かっているので、二人は気にせず会話を続ける。
「置き去りはしていませんよ。今週末に行われる葵様の再お披露目と、地鎮祭で舞う稽古ですよね。
今回のお披露目は、僕も出席致しますので」
「円花の代表だもんね。行ったついでに、今度こそ京護もおひろ目に連れて行けるか聞いてみる」
付いていくのが当たり前のように、甚八も靴を履いて屋敷を出る。
同じ分家でも、葵と話している為に、甚八が出るまで扉は開けてくれていた。
「連れて行けるかって、皮肉ですか。本家の許可も、連君の同意も難しいかと思いますよ」
「リベンジだよ。許可はぼくがする。連れてく方法は…………どうにかなるんじゃない?」
「ノープランなんですね」
葵が乗る車は、裏手から回っている所だ。
今日も暑いなあと、甚八は、午後の空を一度見上げる。
「すみませんが葵様が帰られた後にでも、一度病院に戻らさせて下さい」
「ばあちゃん怒ったなら客間ダメだと思うし、そのまま帰って良いよ。でも明日また来てね」
「承知致しました。僕も休まらないので外泊はご遠慮させて頂きますし、寝るのは帰ってからにしますよ」
甚八から寝るという発言を聞き、葵は門から入って来た車を見ずに、甚八の顔を覗き込む。
「ほんとーに寝るの? 京護と明日チェックしちゃうよ」
「調整する事はまだありますが、連君と約束しているので素直に寝ます」
二人と待機していた艻月の男が、到着した車の後部座席の扉を開けた。
車は土の上に止まっている。車に近づく二人分の足元の音が、玄関のコンクリートから土のそれに変わる。
その足音が、甚八よりも先に葵が止まった。
乗り込むには、まだ距離がある。
「葵様?」
忘れ物か、誰かへの用事か。葵を呼んだ甚八を、葵は一寸無言で見つめた。
甚八より日差しのある場所で立つ葵の、足元の影は濃い。
「甚八ってさ、なんで円花に戻ってきたの?」
二人の間に、一陣の小さな風が通った。
甚八には、それが残暑を和らげるものか、誰かのささやきか判別がつかない。
だけど、葵の言わんとする意味は通じていた。
黙る甚八に、葵は変わらず口角を上げる。
「ぼくが京護を甚八に任せるの、ちゃんと意味分かってるなら良いんだ」
「あの、葵様」
「でもっ」
返す言葉を持たないまま名を呼ぶ甚八を、葵はビシッと指さした。
今度は、人を指すなと甚八は言わない。
「ぼくのおひろめまでは、お前はウチの円花なだけなんだから。
大人しく、静かに、良い子にね」
指先を辿ると、葵は目を細めて甚八を見上げている。
とても楽しそうに、そして、年相応な悪ガキな風体で甚八の指した指を、自分の頬に当てた。
「お前のリードは、ぼくが持ちたいんだ」
葵は軽快に車に乗り込み、無言で男が扉を閉める。男が助手席に乗るやすぐに、車は出発してしまった。
「…………行ってらっしゃいませ」
遠ざかるエンジン音に形式を延べ、甚八は、屋敷に戻る前に考える。
最初に思い出したのは、今朝の病院で、葵が言ったものだ。
影の襲撃を回避した後のこと。
葵は言った。
『ぼくを見くびらなかったお前に聞きたいんだ』
続いたものは、影のプレッシャーで気絶した、艻月家から派遣された男女の若い双子の処遇だ。
今思い出したのがソレなら、無関係な問題なのだろうか。
甚八は、葵の言葉を繰り返す。
「ぼくを見くびらなかったお前…………」
先の葵は、艻月の前で言った。
『ぼくのおひろめまでは、お前はウチの円花なだけなんだから。
大人しく、静かに、良い子にね』
残暑の気温に晒された頭は、白旗をあげた。
分かっているのは、最初から変わらない、葵への印象だ。
京護が円花総合病院に運ばれた時、和装姿の少年は、一緒に救急車から降りて来た。それが、第一印象。
数日後。
意識の戻らない京護の様子が気がかりな中、初めて本家の招待を受ける。
影が、甚八の父親諸共の多数を殺したと、まだ知らずに初めて本家を跨いだ日が、葵との二度目の対面。
最初から今も、甚八は葵の印象を変えていない。
「変な上司を持ったな、僕」
もし甚八が哲学を好んでいたら、こう言い換えていただろう。
深淵のような少年だな、と。




