華出井 葵(12)と願いの井戸 72
京護の足元からゆらりと影を立たせ、身を象る。
甚八は最初、平たい四つ足の姿に、イモリかヤモリを想像した。
その割に、横幅がある。
影は観察されるのも気にせず、その平たくて幅のある背中に口を一つ浮かばせた。
【いい イイ】
【おまえ ヘン あいつ ヘン】
「あいつではありません。
素晴らしき人格者であられます奥様には、華出井ミヨというお名前がございます」
今その賛辞いる? と思ったが甚八は黙っておいた。
不穏な空気を感じた京護が、影に割って入り、言葉を連ねる。
「あの、断れないんですよね。変な事言わないようにします。あの、ひいおばあ様、とも、距離も取ります」
霧子の視線は影から少し上がり、京護に変わる。
「連様についてのご心配はしておりません。故に、ご一緒されるのを、そのままお伝えしに参りました」
「なんで、おれ……」
ついさっきやらかしたけど、とわざわざ返すのはおかしいかもしれない。
躊躇う姿だけで伝わった霧子は、京護の困惑を見て一度息を吐いた。
「葵様も把握しておられます」
「え」
「先ほど、どれぐらいのお時間で戻られるかのご連絡を頂きました。
この家の当主は奥様ですが、葵様にこの家の事をご報告するのも、私には義務でございます」
特に、と続きを強調した。
「連様のお洋服選びのくだりは、入念にご説明いたしました」
「な、なな、なんで、ですか⁈」
「お洋服を選んで欲しいと葵様がご希望されました。いとこ様のご勇姿ですので。
奥様を笑顔にさせてくだすった経緯は、とかく素晴らしかったと。重ねてご報告いたしました」
「ええ……」
慌てふためく京護と表情筋が固い霧子のやりとりは、テニスのラリーを見るように、影と甚八は視線を動かして眺めていた。
分かっていたが、混乱する京護でラリーは終わった。
甚八は推察する。
素直な京護の表情から、葵に怒られるとか思っているんだろう。愚門である。
むしろ僕が怒られないかな。
甚八を見る霧子の眼差しから、想像するのが恐ろしい。
考えても今どうにもならない事は、切り替えるに限る。
「ご隠居様をこれ以上お待たせは出来ないから、行こうか連君」
甚八に促された京護は、足元の影に不安を見せたまま、足を動かした。
自分の意志ではどうにも出来ない事を、京護も理解している。
「あ、でも。途中で、目を冷やすタオルを用意しないとね。腫れちゃうから」
無言で頷く京護と、頬を緊張で固くさせている甚八と、四足生物のまま動く影。
霧子は階段を降りてから、一瞥する。
「先に連様のタオルをご用意致します」
「あ、ありがとうございます」
無言で会釈をする霧子は、キッチンに向かう。家の規模に比べるとの物だが、広さは無い。
システム化はされていないものの、手入れはされている。一角には、壁に埋め込まれる形でテーブルと椅子があった。
霧子が使う場所で、本が数冊とタブレットが置かれている。
霧子は未使用のタオルを棚から出し、水で濡らす。
受け取った京護は、促されるまま霧子が使う椅子に座った。
両目の上にタオルを載せられた京護は、視界が遮られる。
分かるのは、気配と声だけ。
「奥様に5分また遅れる事を、お伝えしてまいります」
「分かりました」
「同じ轍を踏まれませぬよう。円花医師」
「……肝に銘じます」
押し負けてるなあ先生。
目を閉じた京護が、ピザの件で怒られた様子を思い出し、ひそり同情する。
霧子が去ってから、影が耳打ちした。
正しくは、風を切った。
【【息子、あいつが何を隠しているか知りたい】】
「知りたくないわけじゃないけど、葵君に迷惑かけたくないから何もしない」
京護は、パーカーの前ポケットに入れっぱなしにしている預かりものを、布地の上から触れる。
葵が京護に渡した、影に行動の制限をかけられる物。
【【ならワシが仕掛ける】】
「したら、おれはこの家から出ない」
【【息子。知らないでいる不利を知っている】】
「しないから」
【【あのバカに、クソガキの居ないところで話した。クソガキを信じるならしない】】
「……もう黙ってよ」
【【信じるの意味をワシは理解できていない。
生き物の、ヒトの心が元になる行動の全部は分からないまま、ワシは死んだ。
アレは楽しかった】】
影の言葉に、京護は唇を結んだ。
影は、事実を語る。言わない事はあっても、嘘をつく必要性がないからだ。
影に形はない。命の有限もない。死なないが影のままでは存在を示せないので、京護に混ざる形で戻ってきている。
影に感情はない。感情を構成する物が無いからだ。
人間が住まう世界は、あるだらけ。無いだらけの影は、生物を食う事で、有る物の世界と接続して活動できる。
楽しい事と己のしたい事を優先するのも、生き物を食ってきたから身に着いた物で、生物の外側が無ければ、楽しいという事も失う。
それらの特性全てを、京護はまだ理解しきれていない。影の根本を、知らないからだ。
分かるのは、人間のフリをした影を、父親として慕っていた思い出。
両親共に愛されたのを、疑った事がない。
京護は元の生活に戻りたいだけなのに、戻るには、また誰かを影が食うしかない。
どうして、父親となった男を食う相手にしたのか。
「おとうさんは……」
躊躇いつつ声をかけたが、それは、次の影の言葉にかき消えた。
切る風の音が、耳に響く。
【【まもるはワシの知りたいに応え続けた。
おんなに惚れ続けた。息子に笑えとワシに言い続けた。
最期は、痛い死にたくないありがとうを繰り返し言い続けた。
ヒトは知った先から分からない。
息子。今度はお前が教えろ】】
影は、さも京護が知っていて当然とばかりに語り、行動を促した。
一方で、初めて聞いた事しかない京護の思考は、完全に止まった。
「は?」
今なんと言った?
いや、言われた言葉は全て聞こえた。
意味も分かっている。
一言一句、脳に届き、心を揺さぶった。
「ちょっとお父さんっ」
京護は目を冷やしていたタオルを掴み、何もない天井に向かって叫ぶ。
「なにそれ聞いてない⁈」
影が食った人間の名前は、連守だ。




