内界諸国見聞紀行 第七章 大瀑布の内界
狩り手や採り手のあいだには、彼らにしか通じない挨拶がいくつもある。王国歴1608年のはじめごろから、北の街道筋でそれに新しいものが加わった。「滝は見たか」である。見た、と答えた者は、決まって少し得意げな顔をする。まだだ、と答えた者は、そのうち必ず行く、と付け足す。私が大瀑布の内界の名を知ったのは、そんなやりとりを酒場で三度も聞かされたからだった。
その内界は、見つかってまだ三年ほどしかたっていない。北の辺境、深い森の奥で、猟師が大木の幹に開いた門を見つけた。中はどこまでも続く森で、採れるものといえば薬草がいくらか。鉱石も宝石も出ない。帳面の上では、取り立てて書くことのない内界である。機構の出先も、門の脇の小屋に職員が二人いるきりだった。それなのに、訪ねる者が絶えない。狩り手も採り手も、仕事のついでにわざわざ何日も足を延ばして、この内界に立ち寄っていく。目当ては儲けではない。滝である。
青葉の月、私も門をくぐった。森の中はしっとりと暗く、苔の匂いがした。歩き出してほどなく、遠くから低い音が聞こえてくる。雷かと思ったが、鳴りやまない。音は近づくにつれて地鳴りになり、足の裏に伝わるようになり、やがて木々の先が白く煙っているのが見えた。森を抜けた瞬間のことは、順を追って書くのが難しい。大地がそこで終わっていた。目の前を巨大な川が横切り、その全部が、轟音とともに落ちていた。対岸は水煙の向こうに霞んで見えない。落ちる水は途中から白い霧に変わり、風に乗って森に降りかかる。滝のまわりの木々が一段と青々としているのは、この絶えない霧雨のせいだった。
そして、消えない虹が目に飛び込んできた。この内界の太陽は動かないため、水煙にかかる虹も消えることなく常にあり続ける。朝も昼もなく、同じ場所に、同じ虹が架かりつづけている。崖っぷちにはご丁寧に見物用の焚き火の跡がいくつも残っていて、先客たちがここで何をして過ごしたのか、よく分かった。私も半日、座って滝を見ていた。薬草しか採れない内界に人が通う理由として、これ以上のものはない。
さて、この内界の話を続ける前に、言葉をひとつ紹介しておかなければならない。界物である。内界に現れる生き物を、ひっくるめてこう呼ぶ。誰が言い出したのかは分からない。狩り手たちのあいだでいつの間にか使われていて、いまでは機構の帳面にも載る正式な言葉になっている。そして、界物にまつわる知識の集まりを界物学という。学とはいうが、学舎の学者が打ち立てたものではない。内界と関わってきた人たちが、出会った界物をどう倒すか、どこまで使えるかをあれこれ試し、確かめてきた知見の寄せ集め、つまりは膨大な経験知の集合である。どの界物がどう動き、どこが弱いのか。爪は何に使え、内臓はどの薬の材料になるのか。一つ一つの答えの後ろに、それを命懸けで確かめた誰かがいる。第四章で触れた機構の講義も、等級の段階付けも、元をたどればこの経験知の山から出ているものだ。私のような学徒にできるのは、せいぜいその山裾を整理して書き留めることくらいで、本書でもここまでは内界の生き物と書いてきたが、以後は界物と書かせてもらう。
その界物学において、この滝の内界は帳面の上の評判とは裏腹に、ちょっとした大物を抱えている。狩り手たちがイクサドメと呼ぶ魚である。戦止め、と書く。魚のくせに物騒な名だと思われるだろうが、由来にはれっきとした逸話がある。それは後で書くとして、まずはこの魚がどんなものかから話したい。
イクサドメは、川や湖のある内界にごくまれに現れる魚型の界物である。細身の白い魚体をしていて、全長は子供の背丈ほどである。この内界では、滝を登ろうと宙に躍る一瞬、光の筋のように閃くのが見られる。何がそれほどの大物なのかといえば、味である。身は白く、見た目はいかにも淡白そうで、正直なところ美味そうには見えない。ところが一口食べると、その見た目からは想像もつかないうまみが口いっぱいに広がる。煮てよし、蒸してよし、だが狩り手たちに言わせれば、絶妙の火加減で焼き上げた塩焼きこそが別格で、あれを食わずに死ぬのは損だとまで言う。
そして、その名の逸話がある。ある宮廷の晩餐で、この魚が出された。それも、戦を終えたばかりの隣国同士が、協定の裁定のために顔を突き合わせていた席である。協議は当然のように進まず、お互いの利権を求めったあとであり、食卓も冷えきっていたそうだが、この魚の塩焼きが運ばれてくると、席がしんと静まり雰囲気が変わった。皆、食うのに忙しくなったのである。そしてあまりのうまさに、昨日までいがみ合っていたことがなんだかばからしくなり、翌日からの教義はとんとん拍子にまとまったという。どこの国とどこの国の話かは、書かぬのが行儀というものだろう。ともかくこの一件が知れ渡ってからというもの、誰もがこの魚を戦止めと呼ぶようになった。それより前に何と呼ばれていたか、覚えている者はもうほとんどいない。魚が名を上書きしてしまったのである。
だから、イクサドメの湧く内界が新しく見つかると、狩り手のあいだではお祭り騒ぎになる。この滝の内界が評判になったのも、半分は滝、もう半分はこれだ。数が限られているから、狩る権利は機構の立ち会いのもと競りにかけられる。薬草しか採れないはずの内界の狩り場権が、そこらの鉱脈内界より高くつくのだから、界物学とは面白いものである。
もっとも、権利を競り落とせば食えるというものでもない。イクサドメは水の中では鉄等級に数えられる。生半可な狩り手では歯が立たない強さだが、本当の難しさはそこではない。食材として狩るとなると、話が一段むずかしくなるのである。追い回して仕留めたのでは、暴れた身が落ちて、あの味にならないらしい。傷も少ないほどいい。となると、狙いどころはただ一つ、滝を登ろうと宙に躍り出た、あの光る一瞬である。岩場に立ち、水しぶきを浴びながら、飛んだ魚を一撃で仕留める。権利を持つ一団の頭に言わせれば、「水ん中のあいつと戦うのは度胸の話だが、飛んだあいつを獲るのは腕の話」なのだそうだ。
その一団の焚き火に、私はまんまと相伴した。元狩り手というのはこういうとき都合のいい身分で、昔話をいくつか語る代わりに、焼きたてを一尾わけてもらえたのである。味について、ここで気の利いたことを書けたらよいのだが、書くことができない。手帳には書きかけて消した文句が三行分残っているだけだ。ひとつ言えるのは、食べ終わったあと、あの晩餐の使節たちの気持ちが心底よく分かったということである。あれを口にしながら憎み合える人間は、たぶんいない。名付けた誰かは、実にいい仕事をしたと思う。
帰り道、滝の音が聞こえなくなるあたりで一度だけ振り返った。木々の上に、水煙がまだ白く立ちのぼっていた。特徴のない内界、というのが帳面の上でのこの内界の扱いである。だが内界の興味深さは、そういったところにない、人の思いを掻き立てるところにある。イクサドメの価値を誰かが見出さなければ、この内界は価値もなく、あの瀑布の素晴らしさに心を打たれるものがなければ、淡々と管理されるだけの内界になったであろう。内界の価値を決めるのは人であるが、そこには人の飽くなき探求心と好奇心、未知なるものを楽しむ冒険心が、内界をより一層魅力的なものにしていると私は思うのである。この瀑布の内界は人と内界の営みの本質を端的に教えてくれる。




