内界諸国見聞紀行 第十二章 天井の海
海から遠い土地に生まれた人にとって、塩は買うもので、海は話に聞くものである。この章の舞台は、そういう土地のただなかにある。どちらを向いても山と畑ばかりで、いちばん近い海岸まで、荷馬車で一月はかかる。ところがこの地方の人々は、旅人にこう言って笑うのである。海なら、うちにもありますよ。地の底に。
王国歴1609年の花冠の月、私はその門をくぐった。丘の中腹に開いた門の先は、地の底へ下る長い石段である。下りはじめてしばらくすると、まず匂いが変わった。土と苔の匂いに、覚えのある匂いが混ざってくる。潮の匂いである。次に、音が来た。石段の壁にこだまして、遠く、規則正しく、何かが打ち寄せている。そして最後の角を曲がったとき、目の前が開けた。海である。波が白く崩れ、浜が弧を描き、水平線の彼方は霞んでいる。ここまではどこの海岸とも変わらない。だが顔を上げると、空のあるべき場所に、はるか高く、岩の天井が広がっているのである。天井そのものがほのかに光っていて、曇りの日の昼ほどの明るさが、海の果てまで続いている。波の音がやけに大きく聞こえるのは、この岩の空に響くからだ。私は世の海をいくつも見てきたが、天井のある海は、ここだけである。
門の外の丘の上には村があって、人々は自分たちの村を、地の底の漁師町と呼んでいる。浜に並ぶのは船着き場と塩の小屋と作業場ばかりで、村人は毎朝石段を下りて海へ通い、日が暮れる前に石段を上って帰る。もっとも、この海に魚はいない。内界であるから、いるのは界物だけである。それでも村人は自分たちを漁師と名乗り、舟を漕ぎ、銛を打つ。正体を言ってしまえば、漁師という名の狩り手であり、彼らの漁とは、魚を獲ることではなく、水棲の界物を間引くことである。それでいて、海のない山国に三代四代と続く漁師の家系がずらりと並んでいるのだから、この村の名乗りを笑える者はいない。
稼ぎの柱は、塩と貝である。浜の一角に塩田が切ってあり、汲み上げた海水を天井の光で干して塩を採る。内陸の塩は、本来なら一月かけて運ばれてくる貴重品だ。それがこの地方では、地の底から毎日上がってくる。底塩と呼ばれるこの塩は荷馬車で諸国へ出ていき、塩の道と呼ばれる街道筋を潤している。
貝のほうは、正しくは界物である。大人の手のひらほどの貝の形をしていて、浅瀬の岩に張り付いて湧く。界物としてはめっぽう弱く、暴れもしないので、塩焚きの合間に浜の者が鉈で剥がして狩ってしまう。間引きと漁を兼ねた、世にも呑気な狩りである。この貝がまた、美味い。浜の小屋で網に載せて焼き、殻が開いたところへ底塩をひとつまみ。見物客はみなこれを目当てに浜で昼を過ごすので、いまや塩と並ぶ名物になっている。そしてこの貝には、もう一つの楽しみがある。千に一つ、殻の中から真珠が出るのである。さらに万に一つには大粒が出て、これを当てれば、ひと財産になる。昨年大粒を当てた塩焚きの男は、村を出るでもなく、塩田をもう一枚買い増したそうだ。底真珠と呼ばれるこの真珠は、天井の光を映したような鈍い銀色をしていて、月の色だと言って好む貴婦人が多いという。
海には波があるのに、潮の満ち引きがない。浜の線は年中同じところにあって、塩田を営む村としては、これほどありがたいことはない。その塩田の敵が、沖の界物である。湧くのは貝ばかりではなく、時折り、魚や蛇の形をした物騒なものが現れる。放っておけば数を増やし、やがて浅瀬へ寄って来て、塩田や浜の小屋を荒らしにかかる。だから村の舟は、決まった日ごとに沖へ出て、銛でこれを間引く。網の代わりに銛を積むのが、この村の漁船である。仕留めた大物は浜へ曳いて帰り、肉や骨や皮を素材として売るから、獲物がまるで銭にならないわけでもない。ついでに書いておくと、第七章のイクサドメがここに湧かないかと、村の者は長年ひそかに期待しているのだが、いまのところ湧いたためしはないという。沖を半日も走ると、灰色の大壁が海から立ち上がり、天井へと繋がっているのが見える。あの壁の際で測り縄を下ろした者によれば、底は知れなかったそうである。
この海には、稼ぎのほかにもう一つの顔がある。見物である。海を見たことのない内陸の民が、生まれて初めての海を、ここで見るのだ。石段を下りきったところの浜は、いつからか初見の浜と呼ばれていて、季節のいい時分には、山国の村々から来た見物人が立ち尽くしている。私が居合わせた日には、孫に手を引かれた老婆がいた。若いころから海を見るのが望みだったが、海岸まで出る路銀と暇は、とうとう工面できなかったのだという。老婆は波打ち際まで進み、屈んで海水に手を浸し、それきり長いこと動かなかった。孫が気を揉んで顔を覗き込むと、笑っていたそうである。しょっぱいねえ、と一言だけ言って。
一方で、この村の子供たちにとっては、海とはもともと天井のあるものである。村の宿で夕餉をよばれていたとき、宿の息子に真顔で訊かれた。本物の海には天井がないというのは、本当か。落ちてくるものが何もない空の下で、みんな怖くないのか。私は、怖くない、と答えかけて、少し考え直した。この子がいつか本物の海岸に立ったら、頭上に何もない青空を、きっと心細く見上げるのだろう。村には実際、若いころ海岸の町まで出て、本物の海を見て帰ってきた老いた漁師がいた。どうだったかと訊ねると、彼はしばらく考えて、こう言った。「広いには広いがね。うちの海のほうが、落ち着く。空があんまり高いのは、どうも」。
帰りの石段を上りながら、私は初見の浜の老婆と、宿の息子のことを考えていた。あの老婆にとって本物の海は地の底にあり、あの子にとって本物の海には天井がある。どちらも間違っているとは、私にはどうしても思えない。波の音は石段の途中まで追いかけてきて、ふっと消えた。門を出ると、山国の乾いた風が吹いていて、袖からかすかに潮の匂いがした。海のない国の漁師町は、今日も地の底に海を持っている。




