侯爵の屋敷1
穏やかな日差しの中、馬車は麦畑に囲まれた道をゆっくりと進んでいた。
「あの人、無事かな……」
ソフィアは馬車の窓から覗く外の景色をぼんやりと眺めながら、ぼそりと呟く。
ソフィアがダンジョンを出てから三日。王国騎士団を中心に編成されたアルバトラス討伐隊が全滅したとの噂は瞬く間にアルマン王国中に広まっていた。
100年間王族を憎み呪いを掛け続ける邪悪なる魔術師アルバトラス。その名は恐ろしさの象徴としてしばしば子供の躾に使われるほど、この国の人々には知れ渡っている。
今回100名を超える国王正規軍の討伐隊を壊滅させたことにより、その名が周辺諸国にまで広まるだろうことは日を見るより明らかだった。
ソフィアも、王都バラジルを出発するその日に討伐隊全滅の噂を耳にしていた。
王国が嗾けた討伐隊がダンジョンに突入したあの時、ソフィアは晶の指示通りアルバトラスの元へと向かっていた。しかしダンジョンを揺るがすほど凄まじい爆発音が聞こえ、急いで引き返したところを騎士団に捕らえられたのだ。
すっかりダンジョンの住人になっていたソフィアにとって始め彼らは侵略者であったが、捕まって直ぐに自分がどちら側なのかを思い出した。討伐隊の騎士たちは捕らえたソフィアを人間の少女として手厚く保護してくれたのだ。
アルバトラスに掛けられていた呪いの軛が既に解除されていたことは、討伐隊に同行していた神官に調べて貰って直ぐに判明した。
そして、ソフィアは親切な若い騎士に連れられダンジョンを脱出した。長い長い囚われの生活がようやく終わったのだ。
その後、ソフィアはその騎士に連れられ一旦王都バラジルに移送された。宿を手配してもらい一時的に王都に滞在し、その間リトナー侯爵の屋敷があるスミノフまで行けるようにと馬車の手引きをしてもらった。
ソフィアは今そのリトナー侯爵の屋敷へと向かう馬車に乗っていた。
「何か心配事でもありますか?」
暗い表情で馬車の外を眺めるソフィアに、向かいに座っている若い騎士が優しく問い掛ける。
トマル・イクリプス--有力な貴族家の嫡子であり将来の地位を約束された若き王国騎士。
本来なら農民であるソフィアが決して席を並べられるような身分ではないが、彼はソフィアを蔑視することなく、まるで来賓の姫君のように丁寧に扱ってくれていた。
トマルはアルバトラスのダンジョンからずっと同行してくれており、王都での滞在手続きや宿の手配、スミノフまでの馬車の手引きも全て彼がやってくれた。
そして今も、護衛という名目でソフィアをスミノフまで送り届けてくれているのだ。
「いえ……」
ソフィアは慌てて首を振る。
親切なトマルにこれ以上気を使わせたくはなかったが、しかしどうしても笑みを浮かべることは出来なかった。
それも、彼の仲間である討伐隊が全滅したとの噂を聞き内心ホッとしてしまったからだ。多くの仲間を失ったにも関わらず、気にかけてくれる彼に対して後ろめたさがあった。
「リトナー侯は情に厚い領主だと聞き及んでおります。何も心配することはありませんよ」
「そうですか……」
俯き、まるで能面のように動かない頬を細指でつねる。
スミノフは広い平野を活かした大規模な農地が広がる長閑な地方都市だ。リトナーの屋敷を中心に広大な麦畑が広がり、そこには沢山の従者が働いている。
馬車はその麦畑を抜け屋敷の前に停まった。
「わあ……」
目の前に聳える、まるで城のような豪邸にソフィアは感嘆の声を上げ目を輝かす。
煉瓦造りの華美な外観。屋敷の周りにはよく手入れされた花壇が広がり、同じくよく手入れされた樹木と共に季節の花を咲き誇っている。
その周りを武装した兵士たちが厳重に警備している。
王都バラジルで遠巻きに目にした王宮と比べたら小さいが、それでも生まれ育ったリボーノの村人全員が住んでも余りありそうなほど広い建物だった。
二人は使用人に案内されすぐに来賓室に通された。
これも王都の有力貴族であるイクシプス家の嫡子トマルに対しての持て成しであるが、勿論ソフィアには分かる筈も無く、来賓室を華やかに彩る意匠を凝らした調度品や天井に描かれたフレスコ画など一級の装飾品を眺めては終始唖然としていた。
「うち、こんなところで働けるかな……」
テーブルの上に置かれたティーカップを心配そうな眼差しで眺めながら、ソフィアがぽつりと零す。
金箔で縁取られた透き通るように薄い磁器のティーカップ。その中に注がれた琥珀のように美しい色合いのお茶。
出されてから随分時間が経つが、ソフィアはまだ一口も口をつけていなかった。
目の前のティーカップ一つの値段が、自分の命より遥かに高いだろうと思うと、緊張して手が震えてしまうのだ。
これから先、この屋敷で働けば今度は自分がこのティーセットを準備し客人に出さなければならないだろう。礼儀作法も知らない自分に、そんな大役が務まるとは思えなかった。
「知っていますか? ティーカップの繊細な模様はお客様を飽きさせないための工夫なのですよ。ほら、迷路みたいでしょう」
トマルがティーカップを持ち上げ言った。
「へえ、そうなんですか」
ソフィアはカップをまじまじと見直す。確かに金であしらわれた複雑な蔦と鮮やかな薔薇の模様を目で追っていると、何だか迷路をしているようで少し楽しい気分になった。
「というのは冗談ですけれどね」
トマルが朗らかに笑う。
「もう……」
「ですが、中のお茶は貴女の喉を潤すために注がれたものです。お茶もきっとただ眺められるより貴女に飲んで頂いた方が喜ぶと思いますよ」
緊張で喉が渇いているのは事実だった。ソフィアは心が見透かされたような気がして頬を染めつつも、トマルの真似をしてカップの持ち手を慎重に指先で摘んでみる。
恐る恐る口元に寄せると、上質な茶葉の芳しい香りがソフィアの緊張を優しく解きほぐしてくれるような気がした。
「美味しい……」
すっかり冷めてしまったお茶は、それでも疲れた体にじんわりと染み渡る。
「私は幼少の頃から甘やかされて育ちましたから、社会の厳しさというのを知らずに大人になってしまったのです。それでも王国騎士団に入団し何とかやってこれているのです。色々ご苦労されてきたエモリアスさんならば、どんな困難があっても乗り越えられると私は信じていますよ」
「ありがとう、ございます」
トマルは貴族だというのに気取ることなく、何処までも親切だった。スーッと抜けていく緊張感に、ソフィアは思わず頬を緩める。
それから程なくしてノックと共にリトナー侯爵がやってきた。
恰幅の良い中年の紳士だった。
その後ろにはスカート丈の短いメイド服を着た、ソフィアとそれ程歳の離れていないだろう二人の少女。二人とも目が醒めるような美少女だった。
「お待たせ致しました。私が国王陛下にこの地の統治を御拝命頂いておりますアルベルト・マルクス・リトナーで御座います。イクリプス家次期当主であられますトマル・デュク・イクリプス殿下におきましては大変ご機嫌麗しゅうございます」
リトナーはトマルの正面に座り、一回りも歳の離れた若き騎士に禿げ散らかした頭を丁寧に下げた。
「お顔をお上げくださいリトナー侯。今回は王国騎士の見習いとしてこちらのソフィア・エモリアスさんの付添人として来ただけですので」
貴族の力関係など分からないソフィアでも、リトナー侯爵の態度にトマルの地位の高さを理解する事ができた。
正直驚いた。自分をここまで連れて来てくれた親切な若い騎士が、まさか領主に頭を下げさせるほどの人物だったとは。
リトナーがトマルへ投げる世間話は暫く続いた。住む世界が違う会話にソフィアは置いてけぼりだったが、概ねリトナーがトマルの機嫌を取ろうとしていることは分かる。
トマルは適当なところでリトナーの話しを切ると本題に入った。
「本日お伺いしましたのも先ほどお伝えしました通り、こちらのソフィア・エモリアスさんについてです」
「ええ、従者からお話は伺っております。あのアルバトラスに捕らわれていたと。それは不幸でしたね」
リトナーが目を細めトマルの横で硬くなっているソフィアに微笑み掛ける。
口では憐れんでいるものの、その目の奥は人を蔑むものだった。ソフィアはそれを敏感に感じ取り唇を噛む。
「エモリアスさんは役人の推挙でリトナー侯のお屋敷で働くことになっていたそうです。道中野盗に襲われ攫われてしまい叶いませんでしたが、本人の意向としましても郷には帰らず是非リトナー侯の下で働きたいと」
「そうだったのですか。でしたらその役人から手形が渡されていると思いますが、お見せいただけますかな?」
「これを……」
ソフィアはポケットから、くしゃくしゃになった封書を出しテーブルの上に置く。
リトナーはそれを受け取ると、中身を確認し指先で顎を摩りながら値踏みするようにソフィアを眺めた。
「確かに、仰る通りのようですね。手形にはエモリアスさんを推挙されることと、お母上の同意も得ていることが書かれています。こちらとしましてもご自身のご希望とあれば構いませんよ。エモリアスさんの身元は私がお引き受けいたしましょう」
トマルは「良かった」と、ソフィアに微笑みかける。
だがソフィアは素直には喜べなかった。リトナー侯爵という人物を実際に目で見て、その狡猾さが垣間見えた気がしたからだ。
心に広がる不安を他所にトマルとリトナーの会話はそれから暫く続いた。




