親友
今日は、あの女の人が来なかった。
朝になっても、昼になっても。
涼太くんはソファに座ったまま、ずっとスマホを見ていた。
何度も画面を開いては、閉じる。
時々、ため息をつく。
『……大丈夫?』
隣に座ってみた。
もちろん、涼太くんは気づかない。
頬に触れようとしても、私の手はすり抜けてしまう。
『ちゃんと寝なきゃ駄目だよ』
目の下には、濃い隈ができていた。
髪もぼさぼさ。
ご飯だって、ろくに食べていない。
こんなとき、前なら私が何か作ってあげられたのに。
冷蔵庫には、まだ卵が残っていたはずだ。
涼太くんの好きな卵焼き。
少し甘くしてあげると、いつも喜んでくれた。
『……食べたい?』
返事はない。
私はしばらく、涼太くんの横顔を見つめていた。
そのときだった。
ピンポーン。
玄関の呼び鈴が鳴った。
涼太くんの肩が跳ねる。
しばらく動かなかった。
もう一度、呼び鈴が鳴る。
「……はい」
涼太くんがゆっくり立ち上がった。
私も後を追う。
玄関の扉が開いた。
「あ、涼太くん。こんにちは」
『……え?』
聞き覚えのある声。
私は思わず、扉の方へ近づいた。
そこにいたのは、澪だった。
『澪……!』
嬉しかった。
とても、嬉しかった。
あの日から、知っている人に会うのは初めてだったから。
「突然ごめんね。美幸、いる?」
澪はいつもと変わらない笑顔で尋ねた。
「……美幸?」
「うん。最近、連絡しても返事が変なんだよね」
そう言って、スマホを取り出した。
「風邪引いたって聞いたんだけど、何だか心配になっちゃって」
『……澪』
やっぱり。
澪は、私のことを心配してくれていたんだ。
『ありがとう』
涼太くんは少し黙っていた。
それから、ぎこちなく笑った。
「ああ、美幸なら今、出かけてるよ」
「そうなの?」
「うん。ちょっと用事で」
「風邪はもう大丈夫なんだ?」
「あ、ああ。だいぶ良くなったみたいで」
どうして、そんな嘘をつくんだろう。
『涼太くん、違うよ』
私はここにいる。
ずっと、ここにいるのに。
澪は少しだけ首を傾げた。
「そっか。ならよかった」
そして、玄関から部屋の中を覗き込んだ。
「……ねえ、何か臭わない?」
涼太くんの表情が変わった。
「え?」
「何だろう。変な臭い」
「ああ……」
涼太くんは目を逸らした。
「風呂場の排水が調子悪くてさ」
「お風呂場?」
「うん。逆流してるみたいなんだ」
「そうなんだ。大変だね」
澪は少し考えてから、口を開いた。
「ちょっと見てもいい?」
「いや、いいよ」
「でも、部屋まで臭ってるよ?」
「知り合いの業者に相談してるから」
「そうなの?」
「ああ」
澪は困ったように笑った。
「じゃあ、見るだけ。うちも前に似たようなことがあったから」
「いや、本当に大丈夫だって」
涼太くんは何度も断った。
でも、澪は心配そうだった。
「涼太くん、顔色も悪いし。何か手伝えることがあったら言ってね」
そう言いながら、廊下へ歩き出した。
涼太くんが慌てて後を追う。
私も、2人についていった。
◇
浴室の扉が開いた。
見慣れた洗面台。
壁に掛かったタオル。
そして、浴槽。
そこには蓋がしてあった。
『……澪』
私は浴槽を見つめた。
『ここだよ』
私の身体は、そこにある。
蓋を開けてくれれば、きっと分かる。
澪は浴槽の前に立った。
「ここ?」
「あ、ああ……」
「蓋、閉めてるんだね」
「うん」
「ちょっと開けてもいい?」
澪が手を伸ばす。
指先が蓋に触れた。
『……澪』
ゆっくりと、蓋が持ち上がる。
ほんの少しだけ、隙間ができた。
あと少し。
あと少しでいいから。
「澪!」
涼太くんが大きな声を出した。
澪の肩が跳ねる。
蓋が元の位置に戻った。
「……びっくりした。どうしたの?」
「ご、ごめん」
涼太くんは額に汗を浮かべていた。
「排水が逆流してるんだ。かなり臭うから、開けないでくれ」
「……そうなの?」
「ああ。臭いから」
『……え?』
臭い。
涼太くんが、そんなことを言った。
私、毎日お風呂に入っていたよ。
ちゃんと身体を洗っていたよ。
涼太くんが好きだって言ってくれたシャンプーも使っていた。
『……そんなこと、言わないでよ』
澪は少し困ったように笑った。
「そっか。ごめんね」
「いや……」
「でも、臭いがこもってるから窓は開けた方がいいよ」
澪が浴室の窓に手を伸ばした。
ガラッ。
窓が開く。
冷たい冬の空気が流れ込んできた。
『……寒い』
もう、寒さなんて感じないのに。
そう思った。
澪は窓の外を眺めていた。
少しの間、何も言わなかった。
それから振り返った。
「じゃあ、私そろそろ帰るね」
「あ、ああ。悪かったな」
「ううん。美幸にお大事にって伝えておいて」
「……分かった」
澪が浴室を出ていく。
『……待って』
私は慌てて後を追った。
『澪、待ってよ』
玄関で、澪が靴を履く。
『行かないで』
お願い。
もう少しだけ、ここにいて。
澪が扉に手をかけた。
そのとき。
一度だけ、振り返った。
「ばいばい」
いつもの、優しい声だった。
扉が閉まる。
私はしばらく、玄関を見つめていた。
『……ばいばい、澪』
また、会えるといいな。
そう思った。




