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「あれ、クライスさん」


 ウラナの家に牛乳を運び終えた帰り道、シエトは村の広場で行商人のクライスを見かけて声をかける。


「今月は少し早くないですか? こないだ来たばっかりですよね」


 クライスはこの国で商業の中核を担うブリッツ商会に所属する商人で、ちょうど半年ほど前からこの地域の担当に就任し、よく村にやってくるようになった。


 トンカ村のような田舎の村では、彼らの存在は生命線とも言えるほど重要だった。村では手に入らない物資や食材は、ほとんど行商人の手を通してこの村に運ばれてくる。逆に、村で採れた魔法石を売るにも、村の人間が直接隣町へ持っていくのは難しいため、彼らが物流の役割を担ってくれることで産業として成り立っているのだった。


 よく言えば社交的(悪く言えば口が上手い)クライスは、前任の行商人よりも村の住人たちとよい関係を築いていた。みんな個人的な買い物を頼んだり、逆に村人が気に入りそうなものをクライスが仕入れてきたりしていて、以前よりも村の経済活動が活発になっていた。


 彼ら行商人は常に決まったルートで周辺の町や村を行き来していて、物を運んで売り歩くことを生業としている。そのため、大抵は決まったペース(トンカ村ではひと月に一度くらい)でやってくることが多いのだが、今回はまだ前回やってきてから十日も経っていなかった。


「おや、シエトくんですか。それが困ったことになりましてね……」

 仕入れてきた商品の整理をしていたクライスは、シエトの声に気付いて振り返ると、立ち上がってわざとらしく頭を抱えながら言う。


「困ったこと?」

「はい。実はここから北に行ったスールという街で、少し前に魔族との大きな戦闘が起こったんです。街はほとんど壊滅状態、魔族に占拠されてしまったらしく、そのせいで僕らもあの辺りに近付けなくなっていましてね……。今はルートを変えて何とか仕事を続けている状況なんですよ」


 人の行き来が多くない田舎では、行商人は地域ごとの情報網の役割も担っていた。クライスもスール陥落の話を聞き、得意先の町や村を急いで回って警戒を促しているようだった。


「スールは商業的に力を持っている街だったので、この辺りの景気が悪くなるかもしれませんね。ボクらもしばらくは派手な動きができなくなりそうです。すでに騎士団が動いているという話ですので、ここまで魔王軍がやってくることはないと思いますが……」


 かなり言葉を選びながら話していることからも、かなり状況が芳しくないということは伝わってきた。シエトは森で出くわした魔族兵のことを思い出し、つい悪い想像をしてしまう。


「ところで、そのお嬢さんは? 見かけない顔ですが」


 シエトと一緒に付いてきていたヴィラリアを見つけ、クライスは彼女の顔を覗き込むように身をかがめて尋ねる。


「あ、えーっと、この子は森で家族とはぐれているのを見つけて、一緒に住むことになったんだ。名前は……」

「リーゼじゃ」

 突然シエトの言葉を遮って、ヴィラリアは素知らぬ顔で偽名を告げた。


「ほう、リーゼちゃんですか。シエトくんに拾ってもらうなんて、ラッキーでしたね」

 優しく微笑みかけるクライスに対し、ヴィラリアは反抗期の娘のようにそっぽを向いてシエトの後ろに隠れた。


「あらー。ボクって、何だか小さい子に嫌われがちなんですよね」


 クライスはすぐに引き下がってヴィラリアから離れると、彼女から拒絶されたことを照れ臭そうに自嘲する。


 幼い子というわけではないが、ヨミリも彼のことが苦手だと語っていたのをシエトは思い出した。シエト自身はクライスを接しやすく感じていたし、誰とでもそつなく接している印象だったが、こうして苦手に思う人もいるということが意外だった。


「どうして嘘の名前を言ったの? もう村のみんなには『ヴィラリア』って名乗っちゃったんだから、今さら偽名を使ったって遅いでしょ。それに、その名前だけでまさか君が魔王だなんて誰も思わないよ」


 クライスと別れた後、シエトは気になってヴィラリアに偽名のことを尋ねた。


「なんとなく、あやつは警戒すべきな気がしたんじゃ」

「警戒って大袈裟な……。クライスさんはただの行商人だよ。確かにちょっと胡散臭いところはあるけど」

「ともかくあやつは気に食わん。儂のことを値踏みするような目で見ておった。二度と儂の視界にあやつを入れるな」


 よほどクライスのことが気に入らなかったらしく、ヴィラリアは眉間に皺を寄せて不機嫌そうに腕を組む。機嫌を損ねて余計なことをされても面倒なので、シエトは言われた通り、今後は彼女とクライスを会わせないよう気を付けることにした。


「そんなことよりも、おぬしこの村を出た方がよいぞ。北の方から大きな魔力を感じる。それなりに力を持った魔族じゃろう。もちろん儂には遠く及ばんがな」

「それって、クライスが言ってたスールを占拠してるっていう……」

「ああ、おそらくそやつであろうな。そして、低級兵らしき魔力の群れがこちらにも向かってきておる。この村も近々戦いに巻き込まれることになろうぞ」

「そんな……」


 騎士団のいないトンカ村には魔族兵と戦える人間はいない。普通の人間がどうこうできる相手ではないのだ。それは先日実際に相対してシエトが確信したことだった。


 すでにクライスの話を聞き、ツツが騎士団に派兵の依頼を出していたが、受理される可能性は極めて低い。戦況が悪いということは、騎士団の手も足りていない状況であり、トンカ村のような人口も少なく地理的な価値もない場所をわざわざ守る理由がなかった。


「儂としては、まだおぬしに死なれては困るからのう。この村を出て安全なところまで逃げてはどうじゃ。おぬしのような若い男手なら、どこへ行こうと仕事に困ることはなかろう」


 本当にトンカ村へ魔族兵が攻めてくるとすれば、ヴィラリアの言う通り避難するのが最善の策だった。もっと首都に近い大きな街へ行けば、安全を約束された裕福な暮らしができるのは間違いない。


「無理だよ」

 しかし、シエトは考える間もなくそう答える。


「ここを出ても、行く場所なんてない。ヨミリや村の人たちを置いていくわけにもいかないし、何より僕はこの村が好きなんだ。ここを出たら、きっと僕が僕でいられる場所なんてもうどこにもない」

「よく言うわ。おぬし、あの大男の言葉を受け入れておらんかったではないか」


 ヴィラリアは暇つぶしにこの間のシエトとヤッカの会話を盗み聞きしていたのだった。『家族』だと告げたヤッカに対し、曖昧に誤魔化していたシエトを見て、ヴィラリアはシエトがこの村に居心地の悪さを感じているのだと勘違いしていた。


「……そうだよ。でも、この村が好きだからこそ、この村しかないからこそ、僕はヤッカや村のみんなの優しさを受け入れられないんだ」


 その矛盾した感情こそ、シエトの本質的な部分だった。そしてあまりに人間染みたその心をヴィラリアが理解できるはずもなかった。


「じゃから村と心中するというのか。実に馬鹿らしいのう。後悔しても知らんぞ」


 ヴィラリアは興味を失ったように、シエトを置いて前を歩き出した。


「もう後悔するのが嫌だから、この村にいたいんだ」


 澄み切った空を見上げて、小さくそう呟く。それはシエトの覚悟がこもった言葉だったが、どこにも届かないまま、静かに宙を舞って消えていった。

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