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1-6

 その日はひどく曇っていた。鉛色の分厚い雲が空を覆い尽くしていて、薄暗い影が小さなトンカ村を今にも圧し潰してしまいそうだった。

 こんなに雲が現れているのに、不思議と雨の匂いはまるで感じられない。強い風に吹かれた草木が何かに怯えるように激しく揺れていた。


 シエトはいつもよりも早く目が覚めてしまい、嵐を待つような外の景色をぼーっと眺めていた。この村は年中を通して気候が穏やかなので、こんなにも荒れた天気を見るのは初めてだった。見慣れたはずの景色がいつもとはまるで違って見える。

 がたがたと窓の揺れる音を聞いていると、村に建つ木組みの家々が強風で吹き飛ばされてしまうのではないかと少し心配になった。


「さっさと着替えた方がよいぞ。でないと、その無様な恰好で逃げることになる」

 いつの間にか起きてきたヴィラリアが部屋に入ってくるなり不穏な忠告をする。


「まさか、魔族が来てるの?」

「ああ。このスピードなら、昼過ぎにはこの村に到着するじゃろう」


 どこかでシエトは、結局魔族がこの村に来ずに平和が続く、という都合のいい想像してしまっていた。平和など何の前触れもなく崩れ去ることを誰よりも知っているはずなのに、そのことを忘れて無意識に現実逃避をしていた。


「ヨミリ、起きて」

 シエトは最初にヨミリを叩き起こした。不満そうに声を上げながら目を擦っている彼女に、「魔族が来るかもしれない」ということを説明する。


「本当なの?」

 ヨミリは「嘘であってほしい」と救いを求めるような顔でヴィラリアに尋ねる。


「儂は嘘などつかん」

 しかし、返ってきたのは無慈悲な答えだった。それを聞いて、ヨミリも険しい顔で現実を受け止める。


 二人はすぐに外へ出る準備をした。長い間ここへ戻ってこられないことも考慮して、衣服や現金、食料などを鞄に詰め込む。役に立たないとわかっていながらも、シエトは狩猟用のナイフを腰に差した。


「ヨミリは村の人たちに避難するよう伝えて。僕も村を回りながら、ツツ爺のところへ行ってくる」

「……わかった」


 当然ながら、村人たちにヴィラリアのことを説明するわけにはいかなかった。そもそも彼女が魔王だなどという突飛な話は信じてもらえるはずもない。

 だから「森の方で爆発を見た」という嘘で避難を促すしかなかった。幸い、二人とも村人たちからは信頼されていたので、狼少年となることはなかったが、逼迫した危機感を伝えることはなかなか難しい。そのため、避難の準備は遅々として進まなかった。


「ツツ爺、話があるんだ」

 シエトはツツの家に辿り着くと、前振りもなく話を始める。

「……どうかしたか」

 ツツはそんなシエトの様子を見て、すぐに異変を察する。


「もうすぐ魔族がこの村を襲いに来る」


 ここへやってくるまでに悩んだ結果、シエトはツツにすべてを伝えることにした。ヴィラリアが魔王であること、彼女の力を借りて魔族兵を倒したこと、彼女によれば魔族が近付いてきていること。これまでの経緯を簡潔に説明する。ツツならば、この話を聞いても冷静な判断を下してくれると考えたのだ。


「とにかくすぐに村の人たちを避難させないと。そのためには、ツツ爺の力が必要なんだ」


 ツツはこの村の最長老であり、かれこれ二十年近く村長を続けている。それ故に村人からは絶大な信頼と人望を集めていて、本人はすでに何度も引退を口にしているが、「村長はツツしかいない」と村人たちがそれを認めないほどだった。

 小さな村とは言え、トンカ村には三百人ほどの人間が暮らしている。その人々を一斉に避難させるとなると、ツツが指揮を執って進める以外に方法はなかった。


「なるほど。それではすぐに村会の男衆を集めてきてくれ。儂から上手く説明して、避難を進めさせよう。南の山へ入っていた先にある洞窟なら、しばらくの間隠れておくことができるはずじゃ」


 シエトの話を聞き、ツツはすぐさま立ち上がると、自身も避難の準備を始めた。


「……信じてくれるの?」

 何も疑わないツツに、シエトは少し驚く。


「もしも嘘だったならば、後でお前を叱るだけでよかろう。しかし、本当に魔族がやってくるならば、行動を起こさねば取り返しのつかないことになる」


 当然ながら、ツツとてシエトの話をすべて鵜呑みにしたわけではない。むしろ、ヴィラリアの正体についてはほとんど信じていなかった。しかし、それをあえて指摘することはせず、今はただ合理的な判断を持って村長としての役割を果たそうとしている。そんなバランス感覚こそ、彼が人望を集める所以でもあった。


「すでにシエトから聞いておろうが、どうやらこの村に魔族が迫っておるようじゃ。必ずしもこの村が襲われる確証はないが、当面の安全が確保できるまで、村を出て避難することとする」


 すぐにシエトが村を駆けずり回り、ツツの家に村会の面々が集まった。いかに村長からの言葉とは言え、明確な裏付けがないため、みな半信半疑といった様子だった。信じていないというよりも、魔族が襲ってくるという現実を理解できていない者が多かった。


「はぐれる者が出ないよう、近所の者たちで固まって移動するように。特に子どもや年寄りには気を配ってやってくれ」


 しかし、避難に対して意を唱える者はおらず、早急に準備が進められた。ツツが先頭に立ったことで、村人たちも一気に意識が変わり、ばたばたと騒がしく動き始める。


「もう村に残っている人はいないみたい。僕たちも早く追いかけよう」


 いざ本格的に避難が始まると、あっという間に村は空っぽになった。すでにツツも先に避難し、最後に残ったのはシエトと村会の男たち五人だけだった。


「お前も先に行っとけ。俺たちはこのままここに残る」


 村会のリーダーであるヤッカがそう言って地面に座り込んだ。それに続いて、他の男たちも腰を下ろし、魔族たちが来るであろう方向を一様に睨んでいる。


「まさか戦うつもりじゃないよね?」


 いつの間にか、全員の背中に猟銃や斧などの武器が携えてあった。シエトの質問に対し、五人は何も答えない。


「相手は魔族だよ? そんな武器で勝てるはずがないじゃないか!」

 あの夜、魔族兵に感じた恐怖を思い出していた。シエトは叫ぶような声で言う。しかし、誰一人ぴくりとも動かずに、ヤッカが静かに口を開いた。


「ここは俺たちの村だ。好き勝手させるわけにはいかん」

「村はいくらでもやり直せる。でも死んじゃったら終わりなんだよ」

「ああ、そうだな。だからもしも俺たちが死んじまったら、お前らがまたトンカ村を取り戻してくれ。もちろん、俺たちは死ぬつもりなんてさらさらないがな」


 どんなにシエトが説得を試みても、彼らの意志は変わらなかった。


 シエトは彼らを置いて避難することもできず、かと言って彼らとともに魔族を迎え撃つ勇気もなく、ただ物陰に隠れて蹲ることしかできなかった。

 どうすれば彼らを救うことができるかを考えるが、今も近付いてきているであろう魔族に対する恐怖がこびりついて上手く頭が働かない。


 その代わりに、まるで走馬灯のようにヤッカと初めて出会った時のことを思い出す。


 あれはまだシエトたちが村に来て間もない頃だった。


 彼はいつ村から追い出されてしまうかということが恐ろしくて、へらへらと愛想笑いばかりを浮かべながら、誰の目にも留まらぬようにひっそりと息を潜めて過ごしていた。


 面倒を見てくれていたツツが街に行く用事があって数日不在にすることになり、シエトとヨミリはしばらくの間ヤッカの家に預けられることになった。


 扉を開けた先に立っていたヤッカを目の前にして、シエトは声も出せないほどの恐怖を感じた。巨大な体躯は壁のようにシエトの視界を遮り、獣のような鋭い眼光が彼の息遣いまでもを値踏みしているようだった。


 ともに生活を始めてからも、ヤッカに対しての恐怖は拭えなかった。それどころか、日増しに彼を畏怖するようになっていく。


 ヤッカはいつも不愛想で寡黙な男だった。部外者のシエトに喋りかけることはほとんどなく、要件がある時もぶっきらぼうに一方的な言葉を投げかけるだけだった。

 シエトにとって、ヤッカは自分が住まわせてもらっている家の主であり、加えて村の有力者でもある。そのため、彼に好かれようと恐怖を押し隠して必死に愛想を振りまいていた。


 ある日、ヤッカは唐突にシエトを自分の仕事場である坑道へと連れ出した。しかし、わざわざ連れてきた割に仕事手伝わせるわけでもなく、シエトを入り口の外に座らせて、彼自身は黙々と自分の仕事を全うしているだけだった。


「あの、何か手伝わせてください」


 居心地の悪さを感じ、シエトは自ら得点を稼ぎに行こうと、恐る恐る暗い坑道の中へと入っていった。


「入ってくるな!」


 ところが、それに気付いたヤッカは怒鳴り声を上げてシエトを追い返した。その声は岩の壁に反響を重ねて、まるで雷のように大きな音に増幅される。

 それからヤッカが仕事を終えるまでの間、シエトは絶望と一緒に膝を抱えながら、木の陰に隠れていた。


 ――これでもうあの人には嫌われた。


 シエトは村から追い出されてしまうだろうと考えた。そうなれば、また当てもなく広すぎる世界を彷徨うことになる。このままもう二度と居場所など見つからず、ずっと仮住まいを転々として生きていくしかないのかもしれない。


「……こんなところにいたのか」


 突然上から野太い声が聞こえて、身体を震わせながら顔を上げる。

 すると、ヤッカの手が伸びてきて、その大きな影から逃げるようにシエトは思わずぎゅっと目を瞑った。


「そんなに怯えなくていい」


 そう言って頭に乗せられた手のひらは、あまりに温かくて優しかった。まるで花を愛でるように、大きな身体に似合わない手つきでシエトの頭をそっと撫でる。


 シエトは驚いたようにヤッカの顔を見た。いつもの不愛想な表情のままだったが、何故かもうそこに恐ろしさは感じない。


「来い。お前にいいものを見せてやる」


 ヤッカに引き連れられるまま、シエトは再び坑道の中に入った。坑道の中は明かりがなく、ヤッカの持つランタンが辛うじて足元を照らしているだけだった。「危ないから離れるな」と言われ、シエトは少し迷った後、ヤッカの服の裾を掴んだ。


「上を見てみろ」


 しばらく奥へと進んだところでヤッカは足を止めた。そして、シエトの肩に手を置いて、洞窟の天井部分を指さす。


「綺麗……」


 目線を天井に向けた瞬間、シエトの目に飛び込んできたのは星空のように輝く青い光の粒だった。その星々の光が岩の断面に反射して、真っ暗だったはずの洞窟がぼんやりと明るくなっている。まるで深い海からわずかに光が注ぐ空を見上げているような、幻想的で美しい光景だった。


「ここの岩には魔法石が混じっているから、空気中の魔素がくっついて光を放つんだ」


 ヤッカは天井を見上げたまま、そう説明する。この光景を見せるために、彼はシエトを仕事場まで連れてきたのだった。


「どうだ? この世界も案外悪くないだろ」


 シエトが抱える深い絶望に、ヤッカはずっと気付いていた。しかし、幸運にも村で平和に育ったヤッカには、その心の傷を真に理解することはできず、それを癒す方法もわからなかった。

 だから、せめて自分が人生で最も感動したこの光景をシエトに見せようと考えたのだった。絶望を拭い去ることはできなくても、世界にほんのわずかな希望を持たせることができるかもしれない。


 確かにシエトは美しい景色に感動したが、彼の心を大きく変えることはなかった。

それよりも、無邪気に自分の大切にしているものを見せてくれたヤッカの優しさこそ、シエトの凍り付いた心を溶かすきっかけとなった。彼は他人の優しさを信じられるようになったのだった。


「また、僕は何もできないのか……」


 シエトは顔を伏せてぎゅっと拳を握る。ちょうど腰に差したナイフが目に入った。こんなものではどうすることもできないのに、と自分の無力さに嫌気が差し、そのナイフを八つ当たりのように放り投げる。


 相変わらず空は分厚い雲に覆われていて、太陽の位置は全くわからなかった。しかし、時は確実に進んでいて、間もなく魔王軍の兵士たちがこの村まで辿り着く。


 このままここに蹲って、この村と一緒に焼かれてしまえば、少しは気が済むだろうか。そんなことを考えるが、きっといざとなれば怖くなって逃げだしてしまう。


 皮肉にも、シエトは誰よりも死を恐れ、生きることを渇望していた。

 たとえその結果、死よりも苦しい絶望に苛まれたとしても。

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