1-3
「痛ッ……」
朝目を覚ますと、まず真っ先に全身を走る激痛がシエトを襲った。まるで筋繊維が引きちぎられているかのような痛みが節々から発せられ、身体を動かそうとしてもその命令が熱に溶かされて伝達されずに消えていってしまう。
やっとの思いでベッドから起き上がると、途轍もない倦怠感が彼の身体を覆い尽くしていた。ただ茫然と天井を見上げることしかできず、このままもう一度眠ってしまおうかと考える。
「なんじゃ、朝から呆けた顔をしおって」
しかし、その声を聞いてシエトは一気に眠気が吹き飛んだ。ガクンと重力に任せて首をもたげると、そこにはやはり角を生やした少女が不敵な笑みを携えて座っていた。
「夢じゃなかったのか……」
「何言っておる。当たり前じゃろう」
この激痛と倦怠感は昨日の夜にヴィラリアがシエトの身体を乗っ取ったことが原因だった。元々持つ力以上の負荷を無理矢理かけられたせいで、彼の身体は壊れる寸前の状態になっていた。あの後家まで帰ってこられたのは、ある種の興奮状態で意識が身体の異変に及んでいなかったおかげだった。
「おぬしのおかげで儂のずいぶん回復したわ。これがうぃんうぃんというやつじゃな」
ヴィラリアはシエトと対極的に、ずいぶんとご満悦の様子だった。
魔族の生命活動の根源となるのは、魔力と呼ばれる特別なエネルギーである。魔族たちは体内に持つ特別な器官によって、自身の身体で魔力を形成し、そのエネルギーを使って生命維持のすべてを賄っている。
そしてそのエネルギー源となるのが、この世界の根源的元素のひとつ、魔素。これは 場所によって濃淡はあれど、基本的に世界中どの場所にも存在している。目に見えない形で大気中を漂っており、魔族はそれを吸収することで魔力の源とするのだった。
ところが、ヴィラリアは実体を失ったことで、自ら魔素を吸収して魔力に変換することができなくなっていた。魔素の供給がなければ魔力はエネルギーとして消費されていき、いずれは魔力そのものであるヴィラリアの存在は消えてしまうことになる。
だからこそ、ヴィラリアはあの時シエトの身体を借りることにした。通常は使われず眠っているだけで、人間も魔素を吸収して魔力を作る器官を持っている。彼女はシエトの身体を借りて、その器官を無理矢理叩き起こし、魔族兵を倒す一瞬の間に自分の存在維持に必要な魔力を生成したのだった。
「どうやらおぬしは儂と相性がよいようじゃ」
人間にとって魔力生成は不要な能力のため、そもそもそれが上手く行えるためには生まれ持った適正が必要になる。その才能を持つ割合は一パーセント以下とも言われており、魔力を操ることができる人間はいわゆる「魔術師」として特別な地位と名誉を得ることができるほどだ。
一口に魔力と言っても実はその中身は属人性が強い。指紋や虹彩模様などと同じで、全く同じ魔力を持つ者は存在しない。濃度や性質、属性といった要素が複雑に混じり合い、その者独自の魔力を形成する。
そもそも他人の身体を魔力によって動かすという行為は、ヴィラリアほどの規格外な魔力操作の練度と実体を持たないという現在の彼女の特異性によって奇跡的に成り立ったものだった。
他人の魔力が自身の体内に入ることは、適合しない血液を流すことと同義であり、基本的には有毒なものとしてその身体を蝕むことになる。
ただし、シエトの魔力特性がヴィラリアと非常に近かったこと、そしてヴィラリアの類い稀なる魔力操作によって適合率を極限まで調整したことで、シエトの身体は自身が生成した魔力と同じようにヴィラリアの魔力を受け入れたのだった。
如何にヴィラリアの魔力操作が優れていたとしても、これほどまで拒絶反応なく彼女の魔力を受け入れられるのはあり得ないことだった。(シエトが負ったダメージはあくまで身体の許容値を超えた動作による肉体ダメージだけで、魔力的なダメージは全くなかった)。
つまり、実体を失ったヴィラリアにとって、自身がこの世界に存在するための器として最適な存在を見つけたということになる。さらに、一度シエト自身がヴィラリアを受け入れたことで、彼の身体はよりヴィラリアの魔力との適合率が高まっている状態だった。
「どうして、君が家にいるんだ……」
「お前が来いと言ったのじゃろう」
「いや……そうなんだけど」
シエトは困ったことになったと頭を抱える。ヴィラリアが本物の魔王であるかどうかはともかく、可哀想な普通の幼女ではないことは明確だった。加えて、昨日のように自分の身体を乗っ取られる可能性もある。
「安心せい。儂とて勝手におぬしの身体を乗っ取るようなことはせん。すでに死んでおるとは言え、元魔王としてそのくらいの矜持はある」
「それはまあ、助かるけど……」
ヴィラリアのことをどこか「悪い奴ではないのかもしれない」なんて思っている自分にシエトは驚いた。可愛らしい見た目と軽薄な言葉に騙されてはいけないと自戒する。
「お兄~? 起きてるの?」
下の階からヨミリの上がってくる足音が聞こえてくる。
「まずい……! 急いで隠れて!」
シエトは慌ててヴィラリアの手を引っ張ってクローゼットの中に押し込もうとする。しかし、実体のない彼女に触れることはできず、勢い余って思い切り頭をぶつけた。
「ちょっと、すごい音したけど大丈夫!?」
その音を聞いて、ヨミリがシエトの部屋に駆け込んでくる。
「えっ?」
扉を開くと、ヨミリの目に飛び込んできたのは、タンスの上に座る少女のお腹に頭を突っ込んで、焦った顔でこちらを振り返るシエトの姿だった。
「お兄が、女の子を誘拐して帰ってきた……」
ヨミリはまるで状況が理解できず、一度現実を直視しないようにそっと扉を閉める。
「待って! いろいろ誤解なんだ……!」
「まったく、朝から騒がしい奴らじゃのう」
赤く腫れあがったおでこを抑えながら妹を追いかけるシエトのみっともない姿を見て、ヴィラリアは哀れみのこもった溜め息を吐く。
「……それで、どういうことか説明してくれるかな?」
何とか落ち着きを取り戻したヨミリは、足をぶらぶらと振って階段の手すりに座っているヴィラリアを横目に、向かい合って座るシエトに尋ねる。
「いや、その、どこから説明したものか……」
「最初から! 全部説明して!」
言葉に詰まるシエトに対し、ヨミリは決して逃がすまいという態度で身を乗り出して詰め寄る。こうなった彼女を前にしてしまうと、シエトはもはや為す術がなかった。
「つまりその子は先代の魔王で、勇者様に倒された後、気付いたらこんな田舎で幽霊になってたってこと?」
「まあそんなところじゃな」
シエトが昨日あったことを一から説明をしている間に、ヴィラリアはすっかり飽きてしまったようで、退屈そうな顔で空返事をする。
「じゃあ、お兄ちゃんが幼女を誘拐してきたわけじゃなかったんだ。よかったー」
「いや、ちょっと待って。こんな途方もない話、いくら何でもすんなり受け入れすぎじゃない?」
シエトは疑う余地も見せずに話を呑み込むヨミリのことがかえって心配になる。
「でもほら、本当に触れないし」
そんな兄の心配をよそに、ヨミリは呑気な顔をして、実体がないヴィラリアの身体を触ろうと何度も手を左右に振って遊んでいる。
「大体お兄の嘘にしては面白すぎるもん。こんな話を思い付く人じゃないよ」
「もしかして、馬鹿にされてる?」
色々と思うところはあったが、変に疑われたり取り乱されるよりはいいだろうとシエトは無理矢理自分を納得させる。
「それで、ヴィラリアさんはなんで幽霊になったの?」
「何故かと問われれば、死んだからじゃろう」
「そうじゃなくて、成仏できてないってことはきっと未練があったんでしょ?」
「未練……」
ヨミリの唐突な質問を受けて、ヴィラリアは真面目な顔つきに変わった。
「勇者に負けて世界を支配できないまま死んだんだから、そりゃ化けて出たくもなるんじゃない?」
「別に儂は世界を支配などと興味はなかった。そもそも魔王という座におったのも、成り行きみたいなものじゃったからな。あの小僧に殺された最期は、結局これが儂の運命なのじゃろうとたいした感慨も湧かなかったわ」
その言葉は大きな虚無感に満ちていた。自分の存在を含め、世界のすべてに対する無関心。それを垣間見た瞬間、シエトは初めてヴィラリアが自分たち人間とはまるで違う存在であることを理解した。
「……あやつとの誓いか」
しばらく考え込んだあと、ヴィラリアは思い付いた答えを確かめるかのように呟く。
「一つだけ、誓いを果たせぬまま死んだ。それが儂の未練なのかもしれん」
そして、虚無で黒く塗りつぶされていた彼女の瞳に、かすかな寂しさのような光が映る。
しかし、すぐにその光は消え、彼女は感傷的になったことを自嘲する。
シエトはその表情の微妙な変化を見て、今度はヴィラリアに奇妙な親近感を覚える。生前を回顧する彼女の顔はひどく人間的に見えた。
「そうじゃ、よいことを思い付いた」
ヴィラリアはひょいと飛び上がって宙を舞うと、そのまま机の上に着地してシエトに顔を近付ける。
「おぬし、儂と契約をせぬか?」
真っ直ぐとシエトを見つめるヴィラリアの赤黒い瞳は、映したものをそのまま吸い込んでしまいそうな魅惑的な輝きを携えていた。
「さっきも言うたが、おぬしは儂の魔力に相当な適正があるようじゃ。そんな人間が存在するとは思わなんだが、こうして出会ったということは、これも運命ということなのじゃろう」
「……僕はただの人間だよ」
「今はな。ひとたび契約を交わせば、おぬしは儂の魔力を自由に使うことができるようになる。その偉大さの一端は昨日おぬし自身が感じたであろう。じゃが、あれは儂が魔力で無理矢理おぬしの身体を動かしたに過ぎん。正統な契約を介したならば、あの数十倍、いや、数百倍の力を与えることができる。それは紛れもなく、魔王たる力じゃ」
「そんな力、別に僕には……」
「そうか? 儂にはおぬしが力を欲しているように感じたがのう」
見透かすようなことを言われ、シエトは答えに窮する。
「当然、契約となれば、儂も相応の対価をもらうことになる。端的に言えば、儂が力を与える代わりに、おぬしには儂が果たせなかった誓いを代わりに叶えてもらう」
「誓い?」
「それこそがこの世に残した未練。儂がこうして現世に留まっておるのも、死してなおあの誓いを果たすためなのかもしれん」
ヴィラリアは一息間を置くと、それまで見せたことのない神妙な面持ちで言う。
「永きにわたり続くこの人間と魔族の争いを終わらせ、この世界に平和を取り戻す」
そしてシエトを指さすと、彼女は少女の姿に似つかわしくない、含みのある笑みを浮かべる。
「現魔王を打ち倒し、魔王国を平定し、人間と魔族が調和する平和な世界を創造する。人間風に言うなら、おぬしが勇者とやらになるのじゃ。もっとも、正確に言えばおぬしがなるのは勇者ではなく魔王じゃがな」
ヴィラリアは何だか楽しそうに高笑いをする。
その言葉を聞いて、シエトはヴィラリアが自分を馬鹿にしているのだと思った。魔王の力を使って勇者になるなんて話がまず馬鹿げている。しかも下っ端の魔族兵にすら相手にもされない、ごくごく一般人の僕なんかが。
しかし、彼女の目は真剣そのもので、試すようにシエトを見据える。
「儂の力があれば、それが叶えられる。一度はしくじったが、じゃからこそ今度は間違いない。争いを終わらせることは、おぬしら人間にとってもこの上ない悲願であろう」
ヴィラリアの瞳の中に、シエトが長らく閉ざしていた記憶の奥に閉ざしていたあの日の光景が映し出される。
風に揺られながら暗い夜を覆い尽くすように燃え上がっていく炎。その激しさとは対照的に周囲はひどく静かで、ぱちぱちと火花の散る音がこちらを嘲笑うように聞こえてくる。熱を帯びた身体は今にも破裂してしまいそうだった。
焼けた肉と血の匂いがむせ返るほど充満し、口で息を吸うと宙に舞った煤が喉の奥に張り付いて苦しい。助けを呼んだり悲鳴を上げたりするには、もうあまりにすべてが終わってしまっていて、魚が水面で息を吸うようにただ呆けた顔で崩れゆく家を見上げていた。
この場所は地獄のようだったけれど、あの炎の中は紛れもなく地獄そのものだった。だから、こちら側に立って生きていることには価値があり、意味がある。そう自身に納得させるために、目の前で揺れる地獄の業火から決して目を離さない。
「いやいや、ちょっと待ってよ! お兄が勇者って、ないない」
幻影に囚われていたシエトよりも先に口を開いたのは、隣で話を聞いていたヨミリだった。彼女はちらりとシエトの方に目を向けた後、あり得ないと腹を抱えて笑い出した。
「……ヨミリの言う通り、そんな柄じゃないよ」
シエトも我に返り、ぽつりと吐き捨てるように呟く。
「そうかのう。儂には案外向いておるように見えるがな」
ヴィラリアは少し不服そうな顔をしながらも、それ以上は何も言わなかった。




