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夜の森は想像以上の暗闇だった。ランタンで照らした足元は辛うじて視認できるが、少し顔を上げると目を瞑っているのとほとんど変わらない。段々と目が慣れてきても、視界に入るのは鬱蒼と茂る木々の影だけで、気を抜くと来た方向もわからなくなりそうだった。
「幽霊なんていなくても、暗いだけですごく怖いんだけど……」
シエトは身体を両手で抱えて身震いを抑えながら、恐る恐る森の奥へと歩みを進めていく。透き通ってピンと張りつめた夜の空気に、ざわざわと波打っていくような葉擦れの音がこだまする。時折影のようなものが視界の端を過ぎ去っていく気がして、はそちらを振り返っては何事もないことを確認するのを繰り返した。
しかし、しばらく森の中をぐるぐると彷徨い歩いてみても、異変らしいものには出くわさなかった。幽霊はおろか、それと見紛うような獣なども気配は感じない。
「どうしたもんかな……」
ようやく夜の森の不気味な雰囲気にも慣れてきて、シエトはこのまま歩き続けても得るものはなさそうだと冷静になる。
「一旦、今日は帰るか」
噂の幽霊も毎晩誰かを襲っているわけではない。単に森の中に入るだけでなく、何か出現条件みたいなものがあるのかもしれない。シエトは今日のところは引き上げて、村人にもう少し話を聞いてから出直すことにした。
シエトは村の方へ引き返そうと、ポケットからコンパスを取り出して方角を確認する。
いつの間にか、ずいぶん奥へと入ってきてしまったようで、村の近くとは森の様子が少し違っていた。あまり手が付けられていないからか、木々の足元に草木が茂っていて、地面は苔むした緑色で覆いつくされている。
ちょうど月明りが差し込み、視線の先が静かに青く輝いていた。その光景は幽霊どころか神でも現れそうな神聖さを携えていて、シエトは思わず見惚れてしまう。
――……ッスー。
その瞬間、彼の耳に生き物の息遣いのような微かな音が聞こえた。森の雑音にすぐかき消されてしまうほどの、ほんの小さな違和感。
彼は意識を集中させて、耳に入ってくる大量の情報からその音だけを選別する。
音の出どころはまさに月明りが照らす先だった。考えるよりも先に、足がその方向へと向かっていく。まるで光に吸い寄せられるような不思議な感覚だった。
森が途切れ、開けた空間に出る。まるでスポットライトを浴びたように、その場所だけがぽっかりと月明りに照らされていた。
そして、その光の中心に一人の少女が丸くなって眠っている。
自然が作り出したこの絵画のように美しい景色は、彼女のために誂えられたものであるかのように錯覚してしまう。それほどまでに、完璧な構図に囲まれた彼女は健やかな寝息を立てていた。
「君、大丈夫?」
間を置いて我に返ったシエトは、慌ててその少女の下に駆け寄った。こんな森の奥で少女一人が野宿をしているというのは、尋常ではない状況である。
覗き込んで少し様子を伺うと、怪我や病気などではないようで、ただ気持ちよさそうに眠っているだけだった。
「こんなところで寝てたら、風邪引いちゃうよ」
「……むんにゃ。んなぁんじゃ」
何度か声をかけてようやく目を覚ました彼女は、大きなあくびを立てて起き上がると、目の前にいるシエトを見て不思議そうに首をかしげる。
「大丈夫?」
「腹が、減った」
彼女はそれだけ言うと、ふて寝をするようにごろんと地面に倒れ込む。
その尊大な態度を見て、さっきまで神秘性を感じていた気持ちはどこへやら、シエトは村の酔っぱらいを開放しているときと同じ気分になる。こっちが何か行動を起こすのをただ待っている様子がそっくりだった。
「仕方ないなあ……。これくらいしかないけど」
ちょうどヨミリから持たされていた夜食のパンを彼女の前に差し出す。
「そんなもんは食わん」
しかし、彼女はそれを一瞥だけすると、つまらなそうに言って顔を逸らした。
「えぇ……。じゃあ何なら食べる? 好きなものがあれば用意するよ」
当然このまま放っておくわけにもいかず、シエトはとりあえず彼女を連れて帰ることにした。本当にお腹が減っているのなら、何かを食べさせてあげた方がいい。事情を聞くのはその後でよかった。
シエトは手を掴んで身体を起こしてあげようとするが、ちょうど彼女はそのタイミングで起き上がってきて、すり抜けたようにかわされてしまう。
「悪くない心がけじゃ」
彼女は胡坐をかいて腕を組み、得意げな顔でシエトのことを見上げる。
「おぬし、名前は?」
「え、えっと……シエト」
「うむ。シエトよ。おぬしを儂の従僕にしてやろう」
「へ?」
「一人になってしまったから、ちょうどよかったわ。本来は単なる人間風情が従者になるのはおこがましいことじゃが、儂は寛大な心の持ち主じゃからの」
何やら楽しそうに語り出す彼女に、シエトは全くついていけていなかった。とりあえず彼女が元気であることと、自分がなつかれたことはよかったと安堵する。
「それで、君の名前は?」
「儂はヴィラリア・ヴェル・ジ・アエリーゼ。メルケ魔王国第169代魔王である。おぬし程度の者は名前を呼ぶことさえ控えるべき高貴な存在じゃが、特別にヴィラリア様と呼ぶことを許そう」
「ヴィラ、リア……?」
彼女が口にしたその名前は、誰もが知っているものだった。
半年前、勇者に倒された先代魔王。
半世紀以上にわたり、人間たちと戦争を続けている忌わしき魔族の長。
それが、こんな辺鄙な森で眠っている少女だなんて。
しかし、シエトは驚きつつもひどく納得していた。改めてよく見ると、彼女の風貌はあまりに異質だった。
深淵のような深い紫色の髪に、漆黒の角が生やし、目は血に染まったように赤黒く光っている。どこかの貴族のような豪奢な服を身にまとい、その上から羽織った金色に光る装飾付きのマントは小さな体躯にはあまりに不釣り合いだった。
「なるほど、それはすごいや。まさか魔王様に会えるなんて思わなかった」
彼女はきっと魔王の仮装をしているのだ、とシエトは納得する。
きっと旅芸人の一団からはぐれたか、あるいは口減らしに捨てられたのだろうと思われた。
「そうじゃろう。好きなだけ崇め奉るがいいぞ」
シエトが話に乗ってあげると、少女は嬉しそうに胸を張って笑顔を見せた。そんな可愛らしい姿にシエトも温かな気持ちになる。
「それじゃあ、ぜひかの魔王様を僕の家に招待させてください。たいしたものはないですが、精一杯おもてなしさせていただきます」
そう言ってシエトは少女に向かってうやうやしく頭を下げる。
どんな理由があって一人になったにせよ、ここにいてもおそらく彼女の家族がやってくることはない。彼女自身がそのことに気付いていないようなのが幸いだった。この世界の残酷さを知るには、彼女はまだあまりに幼い。
上手く調子を合わせながら、シエトは一度少女を家まで連れて帰ることにした。村長に事情を話せば快く村に受け入れてくれるだろうし、周辺の町に情報を流して両親を探すことができるかもしれない。
「あれ……?」
シエトは今度こそ少女の手を掴もうと手を伸ばすと、再びすり抜けたようにして右手が空を切る。しかし、先ほどとは違って彼女は微動だにしておらず、確かにその手は彼女の小さな手を捉えたはずだった。
もう一度手を伸ばしても、やはり彼女の手は掴めない。困惑しながら今度は彼女の肩を触ろうとすると、シエトの右手はそのまま身体を真っ二つに引き裂くように斜めにすり抜けていった。
「無駄じゃよ。今の儂は実体がないからのう」
シエトは状況が理解できず、自分の右手を呆然と見つめる。
「おぬし、人間なのに知らぬのか? 儂は半年前、生意気な人間の小僧に殺されたのじゃ」
きっとこれも芸の一環なのだろうと、すらすらと設定を語る少女に対して、シエトは感心してしまう。
「すごいね。どういう手品……?」
「手品などではない。儂は一度死んで、実体を失った。普通ならそのまま存在が消滅するはずが、どういうわけか魔力だけが現世に取り残されてしまったようじゃ。今の儂はその残り香のような魔力が幻影として顕現しているに過ぎん」
「死んだって、そんな幽霊じゃあるまいし……」
「まあ、似たようなものじゃな」
「……待って、もしかして本当に幽霊なの?」
「正確には違う。儂の魂は死んだ時に身体とともに消滅した。今喋っておるのは、魔力の中に残った記憶のよって再現された仮初のヴィラリア・ヴェル・ジ・アエリーゼでしかない。肉体も魂もないというのは、この魔力が形を保つ器がないということになる。いずれは魔素へと分解されて消えるじゃろうよ」
言っていることは理解できなかったが、流暢なその口ぶりから聞いているうちに、シエトは少女がただの迷子ではないと感じ始めていた。旅芸人の仕込みにしても、度が過ぎている。
彼女の姿を注視してみると、旅芸人で説明するのには無理があった。角と頭の境目には継ぎ目もなく、本当に皮膚の内側から生えているように見える。着ている服は見たこともないくらい質のいいもので、装飾の一つ一つも恐ろしいほど精密な細工が施されていた。
そしてシエトはようやくもう一つの可能性に思い至る。
「まさか、君が村のみんなを襲っているのか?」
「襲う? 何の話じゃ?」
「僕の住んでいる村の人たちがこの森で幽霊に襲われたって言うんだ。みんなまるで魂が抜かれたみたいにぼんやりとしていて、幽霊かどうかはともかく何かあったのは間違いない。僕はそのことを調べにここへ来たんだ。君が本当に幽霊だって言うなら、村人を襲ったのを君の仕業じゃないのか?」
「……なるほどのう。そういうことか」
少女は不敵な笑みを浮かべて頷く。
「ちょうどおぬしの言う〝幽霊〟とやらが現れたようじゃぞ」
「!? それはどういう……」
「騒ぐな。見られておる」
シエトはそっと目線だけを彼女の示す方へ向ける。木の陰に隠れてぼんやりとしか認識できなかったが、黒い人影のようなものが見えた。
「奴は魔族じゃよ。軍からはぐれた雑兵じゃろうな。おおかたこの森に来た人間の生気を吸って生き永らえようとしているのであろう。目立たないように、人間を殺さず生かして帰しているというのが如何にも小物じゃのう」
少女の話は妙に具体的で、説得力があった。シエトも魔族が人の生気を糧に生きていると聞いたことがある。その後遺症だというのなら、襲われた人たちの不自然な様子にも説明が付く。
「それなら、村に戻って騎士団を呼んでもらわないと」
辺鄙なトンカ村には当然常駐している騎士団はおらず、魔族とまともに戦える人間などいるはずもない。そのため、被害が広がる前に近くの町から騎士団員を派遣してもらう必要があった。
「馬鹿め。動くなと言ったじゃろう。向こうも勘付いたようじゃ」
シエトは一瞬身体を起こそうしただけだったが、そのわずかな動作で敵に逃げようとしていることが気付かれてしまった。
「諦めるんじゃな。雑兵と言っても、お前のようなただの人間が逃げ切れる相手ではない。自分の存在に気付かれたとあっては、お前のことも放ってはおかんじゃろう」
少女の言うことはもっともだった。すでに捕捉されているのであれば、動いた瞬間に相手はこちらに向かってくる。不幸にも開けた場所にいるせいで、森に身を隠すこともできなかった。
――やるしかない。
シエトは生唾を呑み込んで覚悟を決める。
武器と呼べるものは持っておらず、辛うじて腰に差した小さなナイフがあるだけだった。運動能力には自信があり、狩りも得意だったが、当然魔族と戦った経験はない。
そっとナイフの柄に手をかけて、敵の動きを感じ取れるように全神経を聴覚に集中させる。
「まさか戦う気なのか? これはとんだ阿呆じゃな。そんな小刀一本で敵うはずもあるまい」
少女は呆れた顔でつまらなそうにシエトを見つめる。しかし、その声も今の彼には単なる雑音の一部としてしか聞こえていなかった。
「そうじゃ、よいことを思い付いた」
真剣なシエトなどお構いなしに、少女はお気楽な態度でぴょんとすぐ近くの倒木に飛び乗った。
その瞬間、とてつもない速度で影が彼女に向かって飛び込んでくる。魔族兵は何でもない人間であるシエトではなく、尋常ではない魔力を放つ少女の存在をずっと警戒していたのだった。だが、実体のない彼女に対しては、魔族兵の決死の特攻もすり抜けてしまう。
わずか一瞬の出来事をシエトは認識すらできなかった。突風がすぐ横を吹き抜けていったかと思うと、頬が切れてぱっくりと割れた裂け目からゆっくりと血が流れる。
あの魔族兵にとって、自分は眼中にもないということにシエトは絶望した。これは戦いですらなく、狩りだったのだ。もちろん、シエトは狩られる側だった。
全身から力が抜け、膝から崩れ落ちる。恐怖よりも虚しさが勝っていた。自分には何もできないという無力感。この感覚を味わうのは、幼い頃すべてを失った時以来、人生で二度目だった。
「そう悲観するな。おぬしは運がいい。儂ならあやつ程度どうとでもできる」
シエトが顔を上げると、月を背にして不敵にほほ笑む少女の姿があった。
「おぬしの身体を貸せ。そうすれば、儂があやつを屠っておぬしを助けてやろう」
「身体を、貸す……?」
「なに。借りると言ってもほんの数秒で構わん。そのまま乗っ取ろうなどとも思っておらんから安心せい」
何故かひどく楽しそうな少女の表情を見て、シエトは彼女が魔王であるという事実に納得した。この無邪気で不遜な存在は、まさに子どもの頃に絵本で読んだ魔王の姿と重なって見えた。
「次が来るぞ。どうする?」
シエトはもはや再び闇に紛れた魔族兵の姿を捉えることもできなかった。
――死にたくない。
さして懸命に生きているわけでもないのに、いざ死が目の前に現れると、恐怖で全身が凍り付いたように冷たくなる。しかし先ほど切れた頬の傷だけが熱く、現実から目を逸らすことを許さない。身体の内側から震えが止まらず、息が上手く吸えなくなっていた。
この期に及んで、自分は死にたくないなどと思うことにシエトは驚いた。あの日、一度死んだつもりで生きてきたけれど、いつの間にかこの世界に生きる意味が生まれて、死ぬのが惜しくなっていた。
「わかった。僕の身体でよければ、勝手に使ってくれ」
もはやほとんど自暴自棄になって、シエトは大の字に両手を広げてその場に倒れ込む。
「賢明な判断じゃ」
ちょうど少女が倒木を飛び降りてシエトに触れた瞬間、隠れていた魔族兵が隙を付くように再度強襲を仕掛けてきた。
「遅すぎるわ」
シエトは目の前までやってきた魔族兵の懐に入るように身をかがめると、そのまま腕を突き上げるようにして首を鷲掴みにする。
雑に腕を振り下ろすと、その勢いで魔族兵の身体が飛んでいき、数十メートル先の木に思い切り叩きつけられた。
地面を蹴って距離を詰めると、意識を失いかけてへたり込む魔族兵の懐から剣を抜き、それを胸元に深々と突き刺す。そして、身体を貫通した剣を強引に引き上げると、魔族兵の身体は綺麗な直線に沿って二つに引き裂かれた。
「ほれ、終わったぞ」
そう言って遊び飽きたおもちゃを投げ捨てるように剣を放る。
そこでシエトの意識が自身の身体に戻って、初めて身体を少女に乗っ取られていたことを理解した。自分の身体が動かされていたはずなのに、離れた位置から傍観していたような他人事染みた感覚だけが残っていた。彼は現実感を確かめるように、開閉する手のひらをじっと見つめる。
「児戯にもならんかったの」
どこからともなく現れた少女が退屈そうに呟く。その視線の先で魔族兵の姿が青白い光になって消えていく。
魔族は生命を絶たれると、身体が魔素として分解されて跡形もなく消えるのだと聞きかじったことがあったが、シエトが実際にそれを目の当たりにするのは初めてだった。
真っ赤な花のようにぱっくりと割れた身体が闇夜に消えていく様は絵画のように美しく、シエトはずっと白昼夢を見ているような気分が拭えないままだった。
「君は、一体……」
深い森の沈黙と冷たい空気が少しずつシエトを現実へと引き戻す。
「言ったじゃろ。儂はヴィラリア・ヴェル・ジ・アエリーゼ。メルケ魔王国第169代魔王である」




