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1-1

 柔らかい風が吹き、豊満な草木の香りが鼻腔をくすぐる。シエトはその風を追いかけるように、立ち止まって後ろを振り返る。緩やかに上ってきた丘の頂上からは村の景色が一望できた。


 四方を山に囲まれ、ぽっかりと開かれた盆地に作られた片田舎の小さな村・トンカ村。見渡す限りのどかな農地と牧草地が広がっていて、村人たちはその一部を間借りするように、ぽつぽつと疎らに建てられた家に住んでいる。


 近くの町までは歩いて丸三日はかかるので、人々はほとんど自給自足のような暮らしをしている。外部との接触は月に一度やってくる行商人か、ごく稀に迷い込んでくる旅人くらいなものだった。


 遠くの方で間延びした牛の鳴き声が聞こえる。今日は天気がいいのを言い訳にして昼前まで寝ていたというのに、村ののんびりとした空気を浴びていると自然とあくびがこぼれた。


 この村で暮らしていると、世界は平和で穏やかなのだと錯覚してしまう。

 シエトは視線を上げて、もう一度見慣れた村の景色を眺める。


 しかし、トンカ村は偶然運がいいだけで、この穏やかな暮らしは束の間の平和でしかない。今もどこかで戦いが続いていて、この村の人口の何倍もの人が毎日のように死んでいく。本当はいつここまで戦火が及んでもおかしくはなかった。


 半年ほど前、勇者が魔王を打倒したという話が回ってきた。普段は町へ働きに出ている村出身の青年がわざわざそれを伝えるためだけに馬を借りて帰ってきて、その日のうちに村人全員にその情報が知れ渡った。

 あの頃はこれで戦争は終わったのだと、村中がお祭り騒ぎだった。村には魔族との戦争で家族を亡くした人もたくさんいて、彼らは墓標の前で涙を流しながら真の平和が訪れた喜びを噛み締めていた。


 ところが、半年も経たないうちに、新たな魔王が誕生して戦況が悪化したという噂が舞い込んできた。魔王を倒せば戦争が終わるというのはおとぎ話の世界だけで、現実の戦争はそう簡単には終わらない。シエトはその時改めて自分たちが今にも崩れそうな薄氷の上で暮らしていることを思い知らされた。


 ――まあ、僕には関係のないことだ。


 シエトはくるりと前に向き直って再び歩き出す。今の彼にとっては、どこかで行われている知らない戦争のことよりも、右手に持った牛乳と左手に抱えたパンをウラナの元へ届けることの方が重要だった。


「いつも悪いね」

「とんでもない。こっちこそいつも仕事をもらえて助かってるよ」


 週に二度、丘の上にあるウラナの家に牛乳とパンを届けるのがシエトの仕事だった。ウラナは旦那が町へ出稼ぎに出ていて、足の悪い母と二人で暮らしている。しかし、ウラナが妊娠して丘の下まで降りてくるのが難しくなってしまい、代わりにシエトが食料を届けているのだった。


「よかったらお昼を食べていかない? たくさん作りすぎちゃって、二人じゃ食べ切れないのよ」


 半分ほど開いた扉の奥から、シチューの甘くていい香りが漂ってきた。シエトはついその誘惑に負けそうになるが、慌てて首を振って自分を律した。


「ごめん。この後はすぐヤッカのところに行かなくちゃいけないんだ」

「あら、そうなの。忙しいわね」

「間違いなくこき使われるよ……。自分の娘には甘いくせに、僕には妙に厳しいんだから」

「ふふふ。まあそれも気に入られている証拠よ」


 シエトはお土産にウラナの母が作ったジャムを受け取ると、忙しなく踵を返して村の外れにある森の洞窟へ向かった。


「手伝いに来たよ」

「おう、来たか」


 シエトが洞窟の中に向かって呼びかけると、奥からヤッカがつるはしを担いで現れた。日に焼けた浅黒い肌は泥と汗で薄汚れて一層黒くなっていて、屈強な身体と相まって野生の熊に出くわしたような威圧感がある。


「それじゃ、早速こいつを村に運んでくれ」


 ヤッカは持っていたつるはしで足元の大きな石の山を指しながら、ぶっきらぼうに言う。そして用は済んだといった様子で、すぐに洞窟の中へと戻っていった。


 この村ではごく少量ながら質のいい魔法石が採れた。彼の仕事はいわゆる鉱夫で、こうして近くの洞窟を掘削するのが仕事だった。彼の掘った石が行商人に売られ、町で洗練されて魔法石として世に出回る。この村の最も重要な産業の一つだった。


「これ、全部運ぶのか……」


 目の前に積み上げられた石の山を見つめて、シエトは思わず溜め息を漏らす。この量だと日暮れまでに終わるか怪しかった。とはいえ、始めなければ仕事は終わらないので、袖をまくって覚悟を決める。


「……ただいま」


 案の定、ヤッカの仕事は夜までかかってしまった。途中からは掘削作業を終えたヤッカも手伝ってくれたが、それがなかったら今も村と洞窟の往復を続けていたことだろう。


「おかえりー。って、そんなところで寝ないでよ」


 全身の筋肉が悲鳴を上げ、玄関の前で倒れ込むシエトを、出迎えた妹のヨミリが冷ややかな目で見つめる。


「ご飯できてるから食べちゃってね」


 ヨミリはまるで心配する素振りも見せず、そう言い残して自分の部屋に戻っていく。いつもヤッカの仕事を手伝った後のシエトは、こうして無残な姿になっているので、もはや見飽きてしまっていた。


 シエトはいわゆる村の何でも屋を生業にしていた。村の人たちから依頼を受け、その対価として食べ物やお金をもらって生活をしている。

 他の村人は大抵家族で代々受け継いだ仕事を持っていて、彼は村の中では異端の存在だった。元々は子どもの小遣い稼ぎとして始めた何でも屋だったが、案外村人たちからの評判がよく、いつの間にかそれが彼の本業になっていった。


 村人たちに重宝されるようになったのは、彼の人柄による部分も大きい。元はよそ者の彼だったが、今では皆がそんなことを忘れてしまうほどに村に馴染んでいた。

 誰とでも愛想よく接し、程よく生意気な怠け者で、しかし言われたことはこなす信頼のおける人間。村の大人たちはみな彼のことを息子か弟のように思っていたし、村の子どもたちは彼のことを兄のように慕っていた。


 そんな自分を受け入れてくれた村に対して、彼は強い恩義を感じていたし、村の人たちを家族同然だと思っていた。だから彼はどんな依頼もできる限り断らず、村に貢献できるよう懸命に働いていた。


「……って、やだよ、そんなの!」

「そうは言うても、シエトくらいしか頼める相手がいないんじゃよ……」

 声を荒げるシエトを必死になだめながら、村長のツツは話を続ける。


「幽霊が出るなどという話はあくまで噂でしかない。むしろ、それが偽りだということを証明しに行ってもらうのが今回の仕事。幽霊の正体見たりなんとやらというやつじゃよ。そんなに怖がることもないじゃろう」

「いや、幽霊とかほんとダメなんだよ。この話聞いただけでも、今日は夜トイレに行けなくなりそう……」


 その日、この村の村長であるツツ直々に呼び出されたシエトは、とある仕事を頼まれていた。


 ちょうどひと月ほど前から、「森に幽霊が出る」という噂が村に広まり出した。

 最初は狩りの罠を仕掛けに夜の森へ入っていった村人が、呆然自失の状態で帰ってきたことがきっかけだった。彼は「幽霊に襲われた」と証言しており、そのショックのせいか数日の間ぼんやりとしてまともな会話ができなかったという。

 その後、同じように「幽霊に襲われた」と言う者が立て続けに何人も現れ、次第に村人たちの間でその話が真実めいた噂として広まっていったのだった。


「もちろん本当に何かいたらすぐに戻ってきてくれて構わない。それならそれで、また村の者たちで対策を考えればよい。今はとにかく状況を把握したいんじゃ。このままやたらと不安ばかりが募っていくのだけは避けたい」


 ツツは村長であるがゆえに、現状を憂いていた。幽霊などという不確かな存在のせいで、村人たちに無用な不安を与えるのを打破したいと考え、その存在を確かめる調査の任をシエトに頼もうとしていたのだった。


「でも、僕じゃなくても……」


 シエトは村に多大な恩義を感じているから、どんな依頼もできる限り断らず、村に貢献できるよう懸命に働いていた。ただし、実際はそこまで聖人君主ではなく、やりたくないことはやりたくないという子ども染みた心もしっかりと持ち合わせていた。


 今回の件については、村長直々の頼み事であるにもかかわらず、「幽霊が怖い」というただその一点のみで仕事を受けるのを渋っていた。かれこれ数十分は同じようなやり取りを繰り返している。


「そこまで頑なに断るなら仕方あるまい。村の平穏に関わることじゃから、それなりに報酬も弾もうと思っておったが、他の者に頼むとしよう」


 しかし、シエトがこの村にやってきてからかれこれ十年以上の付き合いになるツツは、彼のことをよくわかっていた。ツツはいよいよ痺れを切らし、そう言って最後の切り札を使う。


「へえ……。ちなみにどのくらいなの?」

 さっきまで聞く耳を持たなかったシエトが、突然目だけをツツの方に向けて、興味がなさそうなふりを続けながら尋ねる。


「ちょうど大きい魔王石が採れてな。村にまとまった現金が入ったところなんじゃ。だから、これくらいは出せるかのう」

 ツツはシエトに見せつけるように、五本指を開いて突き出す。


「ふーん。まあでもツツ爺がどうしてもって言うなら、しょうがないからやってあげようかな。困ってるみたいだしさ」


 シエトは村への恩義よりも、現金にほだされる薄情な男だった。

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